[1] 青土社、2003年12月号。
[2] 柴田寿子「力の政治と法の政治」『現代思想 特集ホッブズ』(青土社、2003)。
[3] トマス・ホッブズ『リヴァイアサン(一)』(岩波書店、1992改訳)。
[4] ホッブズ、pp150。
[5] 柴田寿子、pp63。
[6] バリー・ヒンデス「あの死すべき神」『現代思想 特集ホッブズ』(青土社、2003)。
[7] ヒンデス、pp164。
[8] ヒンデス、pp164。
[9] ホッブズ、pp167。
[10] 柴田、pp65-6。
[11] ホッブズ、pp168-。
[12] 柴田、pp65。
[13] ちなみに、ここでのホッブズの合意に基づく社会契約の構造のパラドックスを的確に示したのが、上野修『精神の眼は論証そのもの デカルト、ホッブズ、スピノザ』(学樹書院、1999)「残りの者―あるいはホッブズ契約説のパラドックスとスピノザ」である。本論では特に立ち入らない。
[14] 柴田(前掲、pp70-1)は、カントの契約論の問題として他にも、法による構成員の線引きの問題をあげている。カントは自由・平等・独立を有する公民とそうでない公民とを分け、後者を受動的国家公民としてその選挙権を認められないとした。カントが具体的にあげた例としては、雇用者・未成年・女性・自活不能者などである。これは大いに昨今の人権論と関わりがあろう。スピヴァクが『ポストコロニアル理性批判』でカントの無意識的な人権意識を問題化したのも想起される。
[15] この論点については、ヒンデス論文(前掲)の後半部分(特にpp174-5)も参考にした。
[16] トマス・ホッブズ『市民論』第十二章第八節。
[17] 水嶋一憲「マルチチュードの恐怖 戦争に抗する闘いのために」(『現代思想 特集ホッブズ』)pp116の下段左からpp117の上段まで、ホッブズの恐怖論が整理されている。
[18]水嶋、pp117上段中央。
[19]水嶋、pp117上段・下段では、水嶋は恐怖論の中で、ホッブズが殺したterrorは、抑圧されたものの回帰という精神分析でお馴染みの概念を使って、恐怖が復活すると述べている。論点が細かく本論の流れには関係が薄いので叙述はおさえるが、水嶋が言うところの回帰したものとしてのterrorはどのようにして再―出現するのか、という点はもっと詳細に述べられてもいいように思われる。簡単に言えば、ホッブズ的国家ではfearが跋扈し、terrorはその発生の内的原因を奪われているはずなので、terrorが回帰し再出現する理論を補充する必要があるように思われる。
[20]水嶋、pp118上段中央。
[21] エチエンヌ・バリバール「スピノザ:大衆の恐怖」水嶋一憲訳(『現代思想』第十五巻五号、青土社)pp88。
[22] ここでも注意が必要で、彼はマルチチュードがもたらす/うけるfearとterrorを区別することなく同時に引き受けたのだった。だから、彼が無念にも残してしまったterrorをどうするかという問題については、十分な解答が与えられなければならないのである。
[23] 『政治論』最終部は絶筆のままスピノザは眠りについた。
[24]水嶋、pp119上段中央―pp120上段右。
[25]水嶋、pp119中央左。