1月に完成した小論文「法を超えるために ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学」を公開します。
政治文章に興味のある方はご覧下さい。 この記事では第二章までです。第三章と注は次の記事に掲載しています。
法を超えるために―ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学
蜜江田初郎
(目次)
序章
第一章 ホッブズ的“力”の概念
第二章 カント的法治主義と押さえ込む力
第三章 スピノザのマルチチュードと力
結論 スピノザ以後
序章
政治哲学者の柴田寿子は『現代思想 特集ホッブズ』[1](以下、『現代思想』)へ寄稿した論文において、ホッブズの社会契約論に見られる政治観を「力の政治」、カントのそれを「法の政治」と呼んだ上で、その内容を検証していく[2]。実際以下で記述される通り、ホッブズの政治理論における「力」の概念だけでも議論はかなり複雑なものとなっている。しかし例えば、昨今の安倍第二次政権の行動とその報道陣による伝えられ方は、しばしば派手なパフォーマンス性を強調するだけのものとなっている。それも受けてか、政権への批判の論調は、じつに一枚岩的な「力の政治」の観念をベースとしてしまっているものが多いのである。
ちなみに、上の『現代思想』においてホッブズが特集された背景には、9.11に端を発してアメリカが仕掛けたイラク戦争の混迷や、政治記者のロバート・ケーガン氏による政治論争の引き起こしがあった。現代日本の政治は10年前のアメリカ政治とますます似通っているということなのだろうか? だとすれば、子ブッシュ政権的な断行主義が勢いを失って、代わりに話し合い/合意の政治により舞台にあがったオバマ政権が今再びそのスマートさを失っているということは、法の政治(カント的法治主義、話し合い/ルールの原理)を力の政治に優越させるだけでも問題解決にはならないということを示唆している。
本稿ではそのような「法か力か?」といったような 二項対立的な政治(原理)の見方を再考するよう促し、法と力の共犯関係をいかに乗り越えるかを実際的に検討していこうとするものである。第一章ではホッブズを扱う。ホッブズの「力」をめぐる記述を検討し、整理しなおす。第二章ではカントの法論を扱う。その際カント的「法の力」がいかにアポリアに直面するかを描くであろう。第三章はホッブズもカントも乗り越えるためのスピノザの政治哲学を検討する。結論として3人以後の地平にどのような政治哲学が描かれるべきかが少しでも示せればいいと考えている。
第一章 ホッブズ的“力”の概念
ホッブズの力powerの説明は、『リヴァイアサン』第一部第十章で展開される[3]。その一般的な定義は、
人の(権)力とは、将来的な善と見えるなにものかを獲得するために、彼がいま持っている道具である。[4]
という短いセンテンスに集約される。ここで言う「善」とは最高善といったものではなく、「欲求、意欲」のことである[5]。そしてホッブズは力の種類について、「気前の良さと結びついた富」、「大衆の好み」、「智慧や幸運」、「雄弁」といったかなり雑多なものを取り上げている。ここでバリー・ヒンデスがそうしたホッブズ的なかなり広義の力概念に類似するものとしてギデンズの行為概念に触れることに注目しよう[6]。ギデンズは「行為」(「力」、すなわち力学関係を念頭においた物としてのそれである)の定義づけにあたって、「他の事物に影響を及ぼす能力」(傍点筆者)といった記述をしている。ヒンデスは彼らの議論を総括して、「(権)力とは、人間の活動能力の条件なのである」と言う[7]。
ここには、従来のホッブズの政治観を覆す大きなキーポイントが存在する。ヒンデスが指摘するように[8]、人間の活動能力の条件としての力は、ありとあらゆる事柄、場所に見出されるものであり、それらは「諸力の集まり」とでもいったものを形成している。後に触れるようにスピノザ的なマルチチュードの概念はここに接続できるだろう。ホッブズはこうした「諸力の集まり」が自然状態において存在することを見てとった。それだけではない。この「諸力の集まり」にはある法則性がある。それが「合成する力」とでもいうような事態である。
もっとも弱い者でさえ、ひそかなたくらみにより、あるいは彼と同じ危険にさらされている他の者たちと同盟して、もっとも強い者を殺すに十分な力をもっている。[9]
このセンテンスをどう理解すべきか? ホッブズは、人と人とが手を取り合うとき格別な段階に至るという点を重く見ているようである(合成する力)。それには友人関係、主従関係、党派、同盟、そしてコモンウェルスといった様々な形態が考えられる。こうして弱い個人を離れた合成された力は、個の力を圧倒する。「諸力の集まり」は、単に諸々の力(及びその担い手)が存在するというだけではなく、そのような諸力と諸力との応酬といった事態が頻発するという段階も含んでいるのである。
ホッブズの立論はさらに続く。それは2つの方向に分かれるのだが、まずは検討しやすい議論を見よう。
自然状態がそのような「諸力の集まり」であると見てとった彼は、ここで力の応酬は必ずしや生死をかけた無限の暴力の連鎖に陥ってしまう、と見るのである。そこには、マルチチュード(群衆)の力を見放しにはできないホッブズの強い政治的恐怖感が働いているのかもしれない。しかし大切なのは、ホッブズのかの有名な主権者論および国家の設立論は、この力の応酬の無限連鎖を食い止めるために必要だと考えられたという点である。
もう一つは、ホッブズの「法」の観念である。柴田寿子は見事にも、前掲論文においてホッブズが以上のような「力」の政治のアリーナに法や道徳の働きを持ち込んだことを紹介する[10]。たとえばホッブズは「作法の相違について」[11]という章で、「人類が共同して平和な統一をもった生活をすることにかんする数々の道徳的特性」を論ずる。ここでホッブズは、道徳(法)はまずもって欲望に起因するという主張をなすのである。それは理性に基づくものではない。あくまで(共通の力へと服従することによって)自己の安全を確保しようとする欲望なのである。
そうした欲望は人々をして「法」の発見ないし創設に向かわしめる情念となり、それと平行して、人々は自然権である自己保存をいかに合理的に達成すべきかという計算(理性reason)から、できるかぎり平和を求め、相互に自然権を放棄して共同の力を樹立し、そこへ服従する信約を結ぶべきだという自然法を認知する[12]。
柴田が指摘するように、ここには論理必然的に、政治的力や闘争といった場面から、法や道徳が発生するという見方がある。つまり、ホッブズは政治において法が現出する契機を考えていないわけではなかったのである。しかし反面において、ここに先ほど述べた、自然状態は暴力(力の応酬)の無限連鎖に陥るといった立論との矛盾も存在する。
法が機能するかもしれないのに、何故わざわざ主権者を設立しなければならないのか?これは法―(法を制定する)主権者という問題でもある。ホッブズは、「諸力の集まり」たる自然状態においては、例えば「殺しあわないこと」といったルールが言葉によって定められたとしても、たちまち力の応酬が再現するだろうと見た。何故か。その言葉に規制「力」がないからである。ルールにそのルールを守らせる実行力が保証されない限り、ルールは自己の有効性を発揮しえない―すでにホッブズの圏域において、力と法との複雑な関係は姿を見せ始める。
その後のホッブズの立論はよく知られている―[13]。ここで注目しておきたいのは、ヒンデスも正直に告白するように、主権者の権力は今までのホッブズの力概念からは説明されえないということである。両者には断絶がある。例えば法を制定したり、法に従わない者を刑罰によって処したりする彼の権能は、力の応酬といったものに巻き込まれることはない。それを絶対的な力と形容することもできようが、私はこの主権者の権力を“押さえ込む力”と称して、前半のマルチチュードに代表される「諸力の集まり」の“力”と区別したい。押さえ込む力は、力を力そのものによってねじ伏せる。その点では力の応酬を展開する「諸力の集まり」と変わりないが、押さえ込む力は対象(の力)を停止に追い込む。これは明らかに「諸力の集まり」の説明を超える、異質な力概念である。ホッブズの難点はここに存在する。ホッブズはありとあらゆる力のその上位に存在する“押さえ込む力”の概念をもってして、主権国家の設立理論を説いた。要するに、ホッブズの力は2つあったのである。
第二章 カント的法治主義と押さえ込む力
さてここでは、柴田の議論に倣ってカントの社会契約論を「法の政治」と称して、この内容を詳細に検討していこう。
カントが社会契約の諸々の形態の中でも最も重視するのは、「対等権利の契約」である。まずカントは(1)自己の幸福や利益を求めて自由に判断を下すという人民像を想定している。その上で、(2)彼らの共同意志にもとづいて制定された公的強制法(つまり国家)の下、自己の権利を平等に従わせることによってその範囲内で人間としての諸権利が保証されることに(3)同意して契約を結ぶ、とする。以上の構成で、政治による統治を法(の制定と運用)によって処理ないし解決する立場がカントの基本的な考えである。
カント的法治主義の画期的な点は、端的に二つあると考えられる。1つは、なるべく個人が有する自由(権利)の範囲を一定程度与えようと構想した所である。ホッブズのように、各人が有する自然権の全面的放棄と主権者に対する絶対的服従という、1か0かという極論を回避したのである。もう1つは、契約によって定立される公的組織(国家)は、日々の実践の努力の中で不断に維持されねばならないと説いた所である。カントは具体的に、以下の二つをその実践的手段として提案した。1つは公的組織の構成員の投票制度、もう1つが表現の自由である。
しかし彼の立論における問題点もまた、この契約論の構造の内部にあると言わなければならないだろう。それはまず、法形式主義の問題である。法は一般的要素に対してのみ働くという傾向があるため、各人の具体的な不平等や損害にはなじまない場合があるというおなじみの問題である。もっといえば、法は守られさえすれば良いのであり、どの程度個人の自由(権利)が保証されるかに関して法は無関心である―。[14] 0と0.0000…..1は限りなく近いというわけだ。
さてカントは、ホッブズの社会契約論が「力」に重点を置きすぎてる点を非難し、力の場面と法の場面を峻別しようとしたのだった。カントは法を重視する。ところでカントは、政府に対する抵抗権をとりわけ厳しく禁止した。そのような抵抗にあたっては、合法的な処罰、すなわち警察権の取り締まりと司法による刑罰を想定する。しかしそもそも「抵抗しない」ことに対して「同意」することは可能なのだろうか。仮に、抵抗権の行使の是非を未決問題にしたとしても、反逆者は捕まらないままになる。カントは社会の平和状態の維持を望んで抵抗を認めないのだった。抵抗権を未決問題にすれば、まさに不法の世界、すなわち法の領域を通らない力の応酬が再現されることになるだろう。
私の考えでは、この微妙な点に、かの“押さえ込む力”が働いていると考える。“押さえ込む力”は有無を言わさない力である。カントは法治国家を想定するにあたり、まさに「抵抗しないこと」を有無を言わさず「同意」にもっていくかのような論理を追加せざるをえないのだ―。ここで同意の性質を再考する必要がある。同意は原理的に、二者間の取り決めであるが、相手の方が圧倒的に優位に―構造として―立っている点を見逃すわけにはいかない。「あなたの給料はこれでいいか?」「あなたの住居はこれでいいか?」の<~でいいか?>は、尋ねられた者の思考と時間を制圧し、彼の選択の幅を狭めるのである。ここに同意のトリックとでも言うべき魔法が働く。カントの例で言えば、「抵抗しないことでよいか?」と脅し、もし同意に与しなければ、社会に参与させないという「死」の選択を与える。そうすることで、同意者は同意したこと以上の服従を提案者に与えてしまうのである。
この同意のトリックは、ホッブズの2つの力の内の後者と通ずるものである。まとめよう。ホッブズは、主権者の権力を通常の力概念とは異質なものとして描いた。それが、法を制定したり違反者を処罰したりする“押さえ込む力”である。彼はマルチチュードからなる「諸力の集まり」に対して法の発生の可能性を見たが、しかしそれは強制力を持たないがゆえに暴力の無限連鎖に陥るだろうと見た。そしてそれを制するのが主権権力―押さえ込む力である。それを批判したカントは、契約によって法が支配する政治を訴えたが、彼は同意のトリックに気がつかずにいた。
“押さえ込む力”ないし同意のトリックについてもう少し記述をしよう。押さえ込む力は、結局、その対象に過剰包摂か排除を強いるのである[15]。ホッブズの例では、主権者の命令に従わないのであれば、国家から出よ(死)ということになる。カントの例でも、同意に与しなければ社会から出ろというわけである。こうして極端な二択に迫られた同意者は同意を「してしまう」。柴田も言うように、そこに同意した内容以上の服従が発生するのである。同意内容や命令の逸脱や過剰に気づいても、それに服さなければまたかの「死ぬのか?」の脅迫=暴力にさらされてしまう。こうして押さえ込む力の支配が成り立つのである。押さえ込む力は、その対象に働きかけるだけではない。その対象の帰属位置そのものを問題化させる。つまり、「ワタシノトコロカ/ソウデナイカ」の境界線を引いてそのどちらか(のみ)に位置するよう強いるのである。以上が、ホッブズとカントの社会契約論の深層を見た場合に浮かび上がる、押さえ込む力の正体である。
まとめよう。結局、カントも、ホッブズが全面化した強い力―押さえ込む力―を、捨てきれなかったのである。カント的法治主義は、どれだけ法の体制で正義を装っても、かならず各臣民―諸個人に対して暴力的な働きかけをなしてしまう。そのことは、カント以後のドイツが、そしてあらゆる各国民国家が蒙った歴史が証明していることでもある。