バックラッシュとは、2000年代初頭に、「女性運動(フェミニズム運動)によって男女格差は解消した、むしろ女性の権利は強すぎて逆に男性や社会に弊害をもたらしている」という言説を散らして、フェミニストたちに攻撃をはかった(悪しき)運動のことである。
バックラッシュの流れに乗った言説人をバックラッシャーとも言ったりする。
いま、フェミニズムのラディカリスト・ジュディス・バトラーの勉強をしていて、その時ふと気づいたのは、「主体」「主権」を立ち上げるということの意味だった。
端的に言えば、フェミニストが掲げることは、(A)女性が相対的に強くなること(その結果男性は相対的に弱くなること)、ではもちろんなく!、(B)女性が「主体の運動」とでもよべるものを内に取り込むことだったのである。
バックラッシャーは、(A)の選択肢の見方をしている。だから間違っている。
しかし彼らは端的に間違ったのではない。それははっきりいって、「主体の運動」の理論/および実践が、まだまだ理論的に難しいところもあり、現実的にも明確にアクチュアルなものとして現れてはいないこと、だから彼らがそれを不気味なものとして否認してしまう、ということにも基づくのだ。
別にだからといってバックラッシャーを擁護するつもりは全くないのだが。
「主体の運動」の理論は、大まかに、ひとつのヴァージョンがある。それは、佐藤嘉幸氏の提示する「権力の内面化」、ないし「主体化=従属化」理論である。
ここではその詳細は説明しない。理論を知りたい人は、佐藤さんの『権力と抵抗 フーコー、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセール』(2008くらいだったと思われる)を読むことを是非おすすめしたい。
この「主体化=従属化」理論は、否定的方向と積極的方向の二つを、おそらく私の考えでは孕んでいる。
そして、その積極的方向こそが、主体が他者の権力をぎゃくに扱えるようになる、というまさに”抵抗”、あるいは”逆転””革命”の契機をもっているのだ。
「主体の運動」ないし「主体化=運動」は、その、主体が「もしかしたら」他者の権力に抗えるかもしれない、というその点において、希望を孕んでいる。
そして重要なのは、そのことが、主体の”更なる自律性”を発揮することを構成するのだ。
それは、「主体化=従属化」理論の否定的方向における、(A)従属化を予期される主体、ではない。
(B)真の意味において”自由”な主体なのである。
これは、従来の主体の理論をさらに刷新したものである。 バトラーの功績の一つである。
だから、バックラッシャーには中々分からなくて当然かもしれない。
このような主体性を、”女性”と名指されているマイナー(弱い、小さい力の)な人たちが持つこと。それが、「主体としての女性へ」、女性主権の意味である。
同じように、「消費者主権」という理念の運動は、「消費者が生産者より強い」(”厄介な消費者意識”、苦情を言う消費者という言説に見られる謝った消費者のイメージ)ではなく、そのような、「自由な」、自由に近づける主体性をもった消費者へ、という理念を持つ運動なのである。
そのことの意識と理解が、バックラッシャー去ったあともさまざまなところで差別が温存されている社会においては、目指されるべきである。
ちなみに繰り返すように、この記事はバトラー研究をやっていて思い至ったものであり、記述がとても難しいことをことわっておく。
ういろう
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