続きです。
第三章 スピノザのマルチチュードと力
スピノザの力の概念は、前述したホッブズ的な「諸力の集まり」、つまり群集(マルチチュード)そのものが力でもあるようなものである。もう一度整理をすれば、ホッブズは「諸力の集まり」に恐怖(戦慄、terror)を見てとったのだった。そのことは例えば以下のセンテンスに見出される。
人民とは、一つの意志を持ち、一つの行動がそこに帰されるような、一つである何ものかなのである。これらのことをマルチチュードに関して述べることは、本来的に不可能である。あらゆる統治において支配しているのは人民なのである。…(中略)…(逆説的に見えるかもしれないが)王は人民なのである。[16]
「王」というワードが曲者ではあるが、ホッブズはここで、マルチチュード(群集)と対比される人民が、その力を群集のようには拡散させずに一つに安定化させる、その意味における人民の優位性を強調している。それはさしあたって国家の形式的/実質的な「王」である権力者でさえも、国家のアクターとして配置されている限りにおいて人民が有する力の安定性を担う、というくらいの事柄を指すのだろう。ホッブズは自分が考える国家政体にあたって、およそマルチチュードは採用できないと考えた。何故ならマルチチュードの有する拡散的=爆発的な力を封じ込めるためにかの強大な主権者が現出したのであるから。
ホッブズとスピノザの国家論の差異を際立たせるために、もうひとつの補助線を引く。それは、「恐怖」という概念である。奇しくも、ホッブズは政治の原理(起源)が恐怖にあることを明確に察知し分析していた[17]。ホッブズによれば、恐怖には2種類ある。「恐れ、恐怖」の意味をなすfearと、「戦慄、震撼」の意味を指すterrorである。Fearは、どちらかというとポジティヴで、生産的な原動力である[18]。反対にterrorはネガティヴで、受動的な概念のものである。
ここでホッブズは明らかに、群集(諸力の集まり)が引き起こす、例えば無限の暴力の連鎖に通じる「戦慄、震撼」すなわちterrorを忌み嫌ったのである。むしろ彼の国家論の狙いは、このterrorを封じ込めることにあった。すなわち、fearを人々に与える力(これこそが押さえ付ける力なのだが)を主権者の専属とし、正当化を与え、terrorは線を引き排除した。Fearとterrorに線を引いたあとで、前者だけを正当化し存続せしめたのである[19]。
これに対してスピノザは、fearとterrorを線引きしない。同時に保存しておくのである[20]。そのうえで、fearのもつ生産的な力に着目する。水嶋はバリバールの論文を引いてさらに議論を追加させるが、ここでもその意欲的なバリバールの解釈を引用しておく。
「マルチチュードの恐怖」は、属格の二重の意味、つまり、主語属格と目的語属格の両方で解釈されるべきなのだ。この恐れは、マルチチュードが覚える恐れであると同時に、統治したり政治的に行動したりする立場にある何者か、ゆえに、そのようなものとしての国家に対して、マルチチュードが吹き込む恐れでもある。[21]
ここでバリバールが形容している「マルチチュードが覚える恐れ」が先まで語ってきたところのterrorに、そして「マルチチュードが吹き込む恐れ」がfearに対応するのをみるのは容易いだろう。そしてスピノザは、fear、マルチチュードが吹き込む恐れを原動力とした、開放的で悪く言えば荒々しい政治形態の構想を作り上げようとしたのである(ホッブズはfearに更に正当性/正義の仮面を被せているから、この点についてもスピノザ的社会はホッブズのそれとの違いを見せるはずである)。
・ホッブズ的整理
諸力の集まり(力A) → terror
Terror → 押さえ込む力(力B、これは主権権力という形をまとって正当化される)
・スピノザ的整理
Fear → マルチチュード的力(力Aのヴァリアント)
以上、図式的にまとめれば上のようになる。ホッブズは、terror(戦慄)を原因とした力を構想したが、それはスピノザから言わせると禍々しいものである。スピノザはマルチチュードの積極的・生産的な側面を重視した。それは結局、恐れ(fear)を原動力とする諸力の集まりに他ならない[22]。
それでは、恐れを原動力とするマルチチュード的力は、どのような社会を構想するか?これについての具体的な考察の展開が必要であるが、これは端的にスピノザ自身の『政治論』の政体分析の章が未完のままになっている[23]ことにより、スピノザ自身から答えを聞くのは不可能である。
すれば私たちに残された理路は、スピノザ主義者―現代にまで連綿と続く―の声を追うか、もう少しスピノザ自身の声を聞くかであるが、前半については本論の目的の範囲外である。従って、スピノザの権利=力論を最後に検討しておく。
スピノザはマルチチュードを論じるにあたって、「マルチチュードの力能」といったテーマを導出する[24]。スピノザはそこで、「力能」potentiaと「(法)権利」jusの厳密な等値を図る。スピノザによれば、「力(能)」とは、可能的な潜在力や、法制的に保証された権能または正当化された権力を指示するのではなく、現働的・実効的な活動力を指示するものである[25]。そして、権利=力(能)とは、権利によって力(能)、つまり法制度によって私は日本国民として活動することができる、といったことではなくて、逆に力(能)によって法権利が規定されるような状態を指す。その意味においては、法権利(法体制)は、あくまで二次的なものにしかすぎない。世界の中心、本質は力(能)にあり、この力(能)が法権利を二次的に創出する。かなり大胆な議論ではあるが、もうお分かりのように、ここにはカント的法治主義のような法の政治をも脱する契機が含まれていると言えるのではなかろうか。スピノザは、明らかにホッブズ、そしてカントの両方の困難に応えるために、現れてきたのだ。
結論 スピノザ以後
ホッブズの社会(国家)論は、押さえ込む悪しき力を正当なものと仮装する一方、他方では群集の可能性をそっくりそのまま排除したものだった。カントは臣民の自立性を尊重し、法による政治(カント的法治主義)を構想したが、それは結局ホッブズが全面化した押さえ込む力を再び浮き上がらせるものであった。この両者の困難を救うために援用したのがスピノザであった。スピノザはマルチチュードの有する開放的な恐怖を原理とした政治をかかげることにより、また法権利・法制度を二次的なものとして力(能)から産出されるというアクロバティックな論を打ち立てることにより、ホッブズもカントも越えようとした。
スピノザは、おそらくジル・ドゥルーズやアントニオ・ネグリなどのポストモダンの思想家が再び見出したこともあって、今もっとも再評価されている哲学者/政治哲学者の一人であろう。本論では記述することのできなかったスピノザ主義者たち、ネグリや(含めていいなら)バリバールらの理論も検証していくことが本論をさらに発展させるものになろう。
蛇足ではあるが、本論が扱えなかった、しかし続けるべき課題を2点。本論で大雑把に扱ってしまった法の排除/包摂の暴力的問題に関しても、さらなる立ち入った検討が必要であると思われる。デリダの『法の力』の読解を通じてデリダ理論を検討することが必要である。2つ目は、スピノザとカントの法に関する問題。スピノザの力能=権利論は、カントの法論にどのように関係しえるかについての包括的な検証が必要である。(了)