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Hに捧ぐ
煙草、のくゆりを眺めながら静かに尋ねる。脇から仄かに香る肉体の匂い。あの、幾つもの思い出の中に閉じ込めた真夏の太陽とまっすぐ結びつくかのような酸っぱい匂い。
「いま、シガレットって言ったの、シガレッツって言ったの。」
彼は笑った。
「そんなの、細かな違い。」
会話のどうでもよさに私も思わず笑ってしまう。表面だけにも見えるやり取りは、黒と白でできた滑らかな鍵盤の上を流れて、ゆるやかに舞う。
「細かくなんかない。だって、二つは違うもののように思えちゃう。」
彼はかるくため息をついて、私の方に向かってこう言う。彼がかけた大きなサングラスからは反射された砂浜の残景が見える。
「たくさん吸う人は、例えばこのひと箱、パッケージ全体を指してシガレッツって言うんじゃないの。一本一本を吸ってるんだ、と話者が一本の煙草や葉巻きに注意を向かせたい時は、シガレットと言う。」
「なるほど。で、あなたはどっちなの?」
私は面白くなって会話を催促する。この、鍵盤上での綱渡りが、プツリと消えてしまわないために。
彼は微笑する。「それは、分かるだろ。」
私も、やれやれ、というジェスチャーを肩でしてみせた。後方から、犬の鳴く声がした。ゆっくりと後ろを振り返る。
毛並みの良いセント・バーナードを連れた老人夫妻が散歩している。威勢の良いその鳴き声は、あたりを快活なほうへみちびく。
「シガレット、なのね。」
私はそれまで彼に近付けていた距離をほんの少し離し、どこを見るでもなく視線をずらした。砂浜沿いに植えられた健康そうな木々の葉が揺れ、昼下がりの太陽はこのふつつかな景色に甘く溶けて、どこまでもつづいていきそうだった。 (了)
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