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ヘルタ・ミュラーはルーマニア出身のドイツ語作家である。2009年にノーベル文学賞を受賞した。日本語翻訳では、処女作の『澱み』から、『狙われたキツネ』、『息のブランコ』、去年発刊となった『心獣』が読める。
私は、『心獣』を評したレビューで、ヘルタ・ミュラーが『心獣』の記述においてしばしば採用する筆法を、「ねじれ法」と呼んだ。それは私には、もっと前から彼女の文章に根付いていたのではないかと思っているのである。
例えば、彼女の作品「澱み」からひとつ引用してみる。
子供たちは切り落とされた頭を振りまわしながら闇のなかを歩いて行く。大人たちが傍らを通りかかる。女たちは肩掛けをもっと首もとに寄せ、房をいじる指を一瞬たりとも離そうとしない。男たちは厚手のコートの袖で自分の顔を覆う。あたりの景色が夕闇のなかに溶けていく。私たちの家の窓にカボチャ提灯のように灯がともる。 ――『澱み』山本浩司訳 45頁
登場人物たちの挙動がたんたんと語られるシーンである。文章中では「私たちの家」の周辺(半径5,6メートルの円内?)がどうも起点となっているらしい。そして、どうやらミュラーの作品の登場人物や物は、会話や接触をお互いにしていても、必ず交わることがないようなのである。片一方から片一方への行きつ、来つ、の一方通行のみが語られる。子供たちは歩く。大人は横切る。女たちは髪の毛をいじる。男たちは顔を覆う。事物の相互やり取りの回路は寸でのところで断ち切られ、しかし場は共に在るという、この不思議さを私は数学の概念になぞらえて「ねじれ法」と呼んだのだった。
ミュラーの作品では、初期に近ければ近いほど、徹底して事物の「孤独」や「孤絶」が浮き彫りになっている。それは引用せずとも読めばすぐに分かることだ。
そして、ねじれ法はその関連上にある。というより、ねじれ法は先の引用からも確認できたように、彼女の今までの作品の中心に近いところに位置している。その際、二つのことを見落としてはならない。一つは、ねじれ法においては事物相互の連絡を途絶えさせるかのように、片一方ずつの台詞や言動が記述されていくこと。もう一つは、それでありながら、一つの同じ〈場〉のようなものを彼ら事物が演出しているということだ。ヘルタ・ミュラーの「ねじれ法」は両義的なのである。
そのことは、先の引用の「私たちの家の窓に……灯がともる。」というほんのりとした暖かみを感じさせる一文にも表れているだろう。
『心獣』では、短文が次々と重ねられ助長な修辞はなるべく排されていたことからして、ねじれ法の効果は絶大なものとなっている。ただし、彼女のこのような書き方は処女作から一貫していたのだろう。
なぜなら、ねじれ法とは、一つの概念ないし彼女の「方法論」に他ならないからだ――私はあまりこの言葉を好まないが。 それは、人間同士の円滑なコミュニケーションという幻想にひび割れをいれ、独自な世界観のもとで”別の”人間関係像を創出する。事物もそうである。人や、モノは、交流することなく、しかし孤絶しながらなお〈場〉を共にする。
〈場〉を共にするからこそ、彼女の悲劇主義が映えるのかもしれない。そして、それは悲劇の宿命である。
初郎
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