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(タイトル未定)

■はじめに――文学、哲学、政治

 ドゥルーズは非常に熱心な文学研究者でもある。書物それ自体が大好きであったのだろうと私は思う。プルースト、カフカ、そして晩年の『批評と臨床』に至るまで、彼の文学へのアプローチは揺るぎないものがあった。ドゥルーズ=ガタリの一連の仕事をよく読めば分かるのだが、彼らの哲学がいかに文学者、作家からの影響を受けていることか。
 ドゥルーズは、言うなれば哲学=文学の人であったのだと、敢えて言ってみたい。彼の哲学は文学と不可分であり、文学を思考することからドゥルーズの哲学はかなり作られていった。

 かたや、哲学と政治の結びつきといったものがある。ドゥルーズは政治といったものから遠ざかっていた人だった。もちろん彼の管理社会論は有名だが、それは『記号と事件』でほんの少し語られているに過ぎず、しかも彼の管理社会論はフーコーの議論との結びつきが非常に強いのである。
 哲学と政治といえば、例えばカントがある。ホッブズがあるし、スピノザがあるし、ヒュームがある。ところで、政治といったものの地平には、ずいぶん哲学の複雑な世界よりも単純な主張が飛び交うことがある。政治的スローガン。政治哲学の複雑な理論は、実際の政治上の主張では不要だというのだろうか。政治には、どうしても複雑さを嫌う傾向がある。それは緻密な作業を避けているということだろうか? そうではない。実際の政治では驚くほどの緻密な作業がある。しかしそれを支えているのは割とシンプルな理論であったりする。

 本論の目的の一つは、人生論のモデルを構築することである。それは最初に文学と哲学を重視する立場から検討される。しかし、ドゥルーズのように、文学と哲学に傾いて政治を避けるというわけにはいかない(彼を継承するなら、なおいっそう)。ドゥルーズは政治の問題を別に心底から避けていたわけではない。
 人生は、文学的でも政治的でもある。そして、物事を冷静に思考する力、すなわち哲学は、そのような文学と政治から等しい距離にあるべきだ、と私は考える。
 そのような観点から、本論を開始する。

■彷徨

 人は彷徨erranceする。人間は迷走する。
無方向、あらゆる方向に延びる生ー線は、毛糸状の線である。第三の生の線が、無規定的生ー線に他ならない。
 人が辿る道、すすむ人生は、けむくじゃらになったのだ。無方向。けたたましい躍動。どうしてそのようなことになったのだろうか。


 近代においては、生ー線は上下に伸縮していたと考えられる。それは主に国家と資本主義と宗教が織りなす三つの巨大権力の作用に他ならない。個人の生(-線)は国家イデオロギー、経済(市場経済)イデオロギー、宗教イデオロギーからいわば吊りあげられ、下方に配置されたまま(ここで国家対個人といったような垂直的構造が生まれる)、上下の関係に固定されたのである。そういった暴力的起源は、下方に向かう「弱者」(外国人、貧民、異端者etc)からは「声」が奪われ、名誉・報酬のシステムによって上方に向かう個人からは批判力が奪われることによって、覆い隠されてしまう。
 近代では国家、資本主義、宗教が完成されている。そのことの原因の探究は後に広範に論じていくつもりである。ここでは、資本主義という経済システムについてすこし見ておきたい。

misty

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