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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 バックラッシュとは、2000年代初頭に、「女性運動(フェミニズム運動)によって男女格差は解消した、むしろ女性の権利は強すぎて逆に男性や社会に弊害をもたらしている」という言説を散らして、フェミニストたちに攻撃をはかった(悪しき)運動のことである。

 バックラッシュの流れに乗った言説人をバックラッシャーとも言ったりする。

 いま、フェミニズムのラディカリスト・ジュディス・バトラーの勉強をしていて、その時ふと気づいたのは、「主体」「主権」を立ち上げるということの意味だった。


 端的に言えば、フェミニストが掲げることは、(A)女性が相対的に強くなること(その結果男性は相対的に弱くなること)、ではもちろんなく!、(B)女性が「主体の運動」とでもよべるものを内に取り込むことだったのである。

 バックラッシャーは、(A)の選択肢の見方をしている。だから間違っている。
しかし彼らは端的に間違ったのではない。それははっきりいって、「主体の運動」の理論/および実践が、まだまだ理論的に難しいところもあり、現実的にも明確にアクチュアルなものとして現れてはいないこと、だから彼らがそれを不気味なものとして否認してしまう、ということにも基づくのだ。

別にだからといってバックラッシャーを擁護するつもりは全くないのだが。

 「主体の運動」の理論は、大まかに、ひとつのヴァージョンがある。それは、佐藤嘉幸氏の提示する「権力の内面化」、ないし「主体化=従属化」理論である。

ここではその詳細は説明しない。理論を知りたい人は、佐藤さんの『権力と抵抗 フーコー、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセール』(2008くらいだったと思われる)を読むことを是非おすすめしたい。

 この「主体化=従属化」理論は、否定的方向と積極的方向の二つを、おそらく私の考えでは孕んでいる。

 そして、その積極的方向こそが、主体が他者の権力をぎゃくに扱えるようになる、というまさに”抵抗”、あるいは”逆転””革命”の契機をもっているのだ。

 「主体の運動」ないし「主体化=運動」は、その、主体が「もしかしたら」他者の権力に抗えるかもしれない、というその点において、希望を孕んでいる。

 そして重要なのは、そのことが、主体の”更なる自律性”を発揮することを構成するのだ。

それは、「主体化=従属化」理論の否定的方向における、(A)従属化を予期される主体、ではない。
(B)真の意味において”自由”な主体なのである。



 これは、従来の主体の理論をさらに刷新したものである。 バトラーの功績の一つである。

だから、バックラッシャーには中々分からなくて当然かもしれない。

このような主体性を、”女性”と名指されているマイナー(弱い、小さい力の)な人たちが持つこと。それが、「主体としての女性へ」、女性主権の意味である。

 同じように、「消費者主権」という理念の運動は、「消費者が生産者より強い」(”厄介な消費者意識”、苦情を言う消費者という言説に見られる謝った消費者のイメージ)ではなく、そのような、「自由な」、自由に近づける主体性をもった消費者へ、という理念を持つ運動なのである。


 そのことの意識と理解が、バックラッシャー去ったあともさまざまなところで差別が温存されている社会においては、目指されるべきである。

 ちなみに繰り返すように、この記事はバトラー研究をやっていて思い至ったものであり、記述がとても難しいことをことわっておく。

ういろう


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理論と実践―理論を提供する学問について(学問と社会 第一回)


*理論を欠いた実践

 「理論と実践」にまつわるテーマから話を始めよう。
例えば、現代社会では飲酒運転をなくそうとする社会の動きがある。この動きはしばしば、過激なほどの熱をもって文字や声を通して表面上にあらわれる。

また、そこにはしばしば飲酒運転という減少を原因ー結果の二元論の思考枠組みを使って、しかも個人個人の疎かな判断が具体的な事件を引き起こす、といった説明を前提としているように見受けられる。
自転車は危険か? 危険の違いと超制度としてのアーキテクチャ


*はじめに
 昨日、福岡市内において、自転車安全週間という制度に基づき、危険運転自転車に対していくつかの交差ポイントにおいて警告を与えるということがおこなわれた。
 何を隠そう、私も警告をうけた市民のひとりである。私は危険運転ではなく、夜道に無灯火だったわけでもなく、ただ音楽を聴きながら自転車を走行していた。
 音楽を聴きながらの自転車走行も、警告対象になるらしい。
住所・氏名・生年月日・職業をゆっくり聞かれ、私は急いでいたのに、尋問をする警官はたいへん苛立たしかった。

 以上が、この記事、「自転車は危険か?」を書こうと思った動機ではあるが、そこにはもちろん自転車の危険を語る際の注意のようなものがある。
実際、アベノミクス、ないしイギリスのサッチャーが敢行したような新自由主義政策は、一貫していて、物分りが良い。競争原理主義は、シンプルな考えに裏打ちされている。

 人は、スタート地点で、みな平等である。この分かりやすい思想は、平等の概念を使っている(改めて確認されるべきことがらである!) それを『差異と反復』のドゥルーズならば、悪しき同一性に根付いたものと厳しく批判するであろうが。

 人は皆平等だから、あとはみなを分かつもの(差異づけるもの)は、努力と少しばかりの才能である。努力は誰の前にも公平に広がっている―それをするかしないかは、従って完全に君の自由(責任)だ。 また、ちょっとばかしの才能とあっては、誰しもがそれによる差別=差異化を認めざるを得ないだろう。

 這い上がりたくば、努力しろ。 これがこの思想の原理である。

 安倍政権は、じつにこの1年間の間、それまでの短命政権を覆すかのように、ある程度の支持率を得てきた。
 適菜収『B層の正体』は、小泉政権下で行われた郵政民営化政策が、一定の文化的・知能的傾向性を示す「B層」国民を主なターゲットにして勧めたことを仮説している(詳しくは同書を参照)。 単純明快なアベノミクスも、同じように分かりやすい理想主義で、大衆の追認を獲得していっているのだろうと思われる。

 簡単なスローガン、簡単な支持。私が何を言いたいかはもう分かるだろう。
そのような政治が過去にいったいどれだけの悲惨を招いてきたか、もはや私たちは忘れたのだろうか?

(了)
生と死ではない。死と生である。あるいは、生の中に死が含まれている。
大切なのは、よしもとばななは必ず「生」を肯定する作家だということである。生の中に死が含まれている、「だからこそ」彼女は生の世界に開かれたあらゆる輝かしいものの空気を胸いっぱいに抱く。

最新エッセイ『すばらしい日々』では主に、「老いていく人」、「死んでいく人」が語られる。それと同時に、よしもと氏の若かりし頃から子供を持つ大人へと至る、「なりつつbecoming」あるいは変化が挿入される。しかしこれは端に、「老い」について書きました、「死」について書きました、というものではない。人が変化すること、生命がその姿を変えつつあること。それらの喜びと悲しみ、途方もない感情を素朴な語りで描写していく。

本書では、よしもと氏の短い文章に、一つ一つ綺麗な写真が付される。構成上の装飾か、と思って最後まで読み進めると、それらについての理由が明かされる(それについては後に書く)。

印象的なパッセージの中から一つ引用してみよう。

…人がいちばん恐れているのはきっとあの夜が来ることなんだと思う。だからみな宗教にすがったり、お祈りしたり、健康診断に行ったりするんだろう。
 さっきまで、昨日までなんでもなかったのに、病気が、事故が、突然に生活の全てを終えてしまう。
 まるで楽しいことをしている間は、こわいことに目をつぶっていなくてはいけないと思っているかのように、私たちは生きている。(『すばらしい日々』pp100-1)…

 「あの夜」とは、象徴的にいえば、(家族やもしかしたら私自身の)「病気」や、震災や台風、自動車衝突などの「事故」がやってきてしまう、そのことである。哲学者のドゥルーズはこういったものを「出来事」と呼ぶ。私たちの思考(…には備えておこう、~に準備しておこう)とは何の関係もない所で断絶的に起こる出来事。

 出来事はいつも常に事後的にやってくる。私たちはだから、それが「起こってしまった」あとしか目にできない、理解できない。突然の老いや死は、いつもそんな形で私たちの前に姿をあっけもなく表す。

 だから、私たちはそれのあまりの唐突さと怖さ(暴力、とも言い換えられるだろう―)に蓋をするかのように、宗教に入ってみたり、あるいはそうでなくとも健康診断に神経症的にすがってみたりする。そこでは宗教も健康診断も違いはないのだ。出来事のあまりの恐ろしさに、弱い人間はそれ自体でたちうちできない。


 そうした弱い人間である私たちは、「出来事」に、どうやって構えていれば良いのだろうか。よしもとばななは、最終章の「歳を取る」で、じつに驚異的なまでに圧倒的なパッセージを連ねていく。長くなるが引用しよう。

…この本の中には淋しい話題が多かったから、きらきらした写真を撮ってほしかった。きらきらして、地に足がついていて、この世の美しさを祝福するような写真を。ちほちゃんはその期待の全てを理解し、すばらしい写真をいっぱい撮ってくれた。全部の写真を振り返ると、ここ数年の、いろんなことがあったふたりの思い出もみんなつまっていて、胸がいっぱいになった。
 最後にはいっしょに九州に撮影の旅に行き、由布岳を望むでっかい露天風呂に大の字になってつかったり、いっしょに道に迷いながら山奥の秘湯に行って、私の家族とみんなで湯上りに涼しい風に吹かれたりした。最終日には高速を飛ばして大都会博多に降り立ち、中洲の屋台街のイケメンたちを眺めたり、まだ陽がある夕暮れの明るい川に映るネオンを見たり、鉄鍋餃子を食べに行ったりした。(中略)
 どれもが思い出深い幸せな時間だった。(『すばらしい日々』pp111)…

 終わりは、出来事は、変化は、いつやってくるか分からない。やってきたときには、もう時すでに遅しだ。だから私たちがそれでもできることといえば、そういった死や変化のことを正面から捉え、そして目の前にある小さな幸せを存分に引き伸ばすことだ。それだけで、日々はこんなにも素敵なものになる。輝かしい、びっくりするくらいに生命力と感動に溢れたものになる。

 装飾でしかないと思っていた本書の数々の写真がばなな氏の友達(でもあるフォトグラファー)が、氏のそんな意向を理解しつつ作品に綴じたと分かったとき、写真のあまりのまばゆさに私は大泣きしてしまった。あまりにも綺麗すぎるのだ。そして切ない。
 死を想い、それでも残された生を存分に引き受ける―それはこんなにもたくましいことなのだ。

最後に。『すばらしい日々』の表紙となっているのは、父の吉本隆明氏の血糊のついた手帳である。父・吉本隆明氏の家族としての姿の描写としても、本書は大きなものを提示しているだろう。

(了)
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