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- 04/27 [PR]
- 12/04 「市民主権」という言葉について
- 11/19 ハイデガー×ドゥルーズ 省察(1)
- 11/18 環境管理型支配の弱点(1)―ヲタ卒をめぐる問題
- 11/16 上野千鶴子のマルクス主義フェミニズム
- 11/15 女性への優しい視線
Title list of 小論考
「市民主権」という言葉は、辻村先生が使っている言葉だ。私は辻村先生の書かれた『憲法』のテキストは持っているのだが、「市民主権」が具体的に論じられているのは他の書物で、それは持っていない。
『憲法』に書かれていることから読み取れる「市民主権」という言葉には、どうも違和感を感じる。
というのは、まず大前提として、「市民主権」の対には国民主権があるのだが、
市民、国民という言葉はそれぞれ、
市民ー市民社会
国民ー国家
という言葉が対応しているのが常である。辻村先生が市民という言葉を使っているからには、市民社会を想定されているのであろう。しかし、国家と市民社会とは必ずしも同一ではないはずだ。
辻村先生が、こともあろうに、憲法(国家を縛る法規)から市民主権の概念を取り出すとは、相当ラディカルな試みだと思う。 というのは、それは国家を否定し、市民社会を積極的に認めていこうとする立場からだ。
辻村先生の論法に従うと、おそらくそれは、主権を持った市民からなる社会が、見えざる権力たる国家機関――それは人が不在の――が常駐する国家を、凌駕するという思想だと思う。
とすると、それは市民の理念が、権力構造を作り多くの人を従属せしめる国家というものを、否定していく試みにほかならない。
しかし、国民主権が、そこまでラディカルな概念だろうか? つまり、国民はいずれ自分自身を否定し、国家を否定し、あらたに市民社会を構想する、言い換えれば憲法は自分自身を破棄することになる条項を持つことができるのだろうか。
具体的には辻村先生が考えられている、国家と市民社会の関係を知らないとわからないが、私見では国家と市民主権=市民社会は相反するものである。
というのは、市民が主権を持った場合、それを損なうことなく発揮するためには、例えばある機関を作り出してそれに委任するといったようなことは、社会契約を結んで成立する国家の誕生の繰り返しにしかならないはずであり、国家は必ずしも国民主権を保障しない――直接民主主義制度を取らない限りは――ので、それではダメである。
市民社会とは、歴史的に見れば、国家とは別の形で、理念を持たされたはずだ。
市民社会を作ろうとすれば国家がジャマになるし、国家を作ろうとすれば市民社会がジャマになる。
だから、およそ国家の制限法規たる憲法から、市民社会の根幹を萌芽する「市民主権」の理念を取り出す辻村先生の読みは、一般的に不可能だと思われる。
それでも好意的に先生の解釈を肯定しようとすれば、どうなるか。
私は、東浩紀の、国民;住民+市民 の二元論的構成を取る立場を採用する。
この考えは、そもそも国民という概念が、異質な二つの住民と市民という概念を合わせたと解釈する方法である。
この立場から行くと、国民主権という言葉も、半分は市民主権を意味していることになる。
残りの半分で、結局間接民主主義制度による、住民(国民)主嫌の制限が説明できる。 つまり、住民(国民)主権とは、政治的美称にすぎないのであり、目指すべき目標であると。 住民主権が十分に発揮されているといえるくらいの、努力が、制度構築によって目指されているのだ、と苦しいが一応の解釈はできる。
こうすれば、国民主権をたかだかあげていても、市民主権の意味と、住民主権の意味と、2つを意味しているという新しい解釈ができる。 辻村先生の解釈は、半面において正しいということになろう。
以上は、市民社会の範囲と、国家の範囲が理論的に重ならないから、憲法から市民主権の意味を100%読み取るのは不可能であろうと示した。そして、50%読み取る術はあると、示したつもりである。
(終)
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ハイデガーもドゥルーズも、その評価は多岐にわたっているので、哲学史的な位置づけは難しい。
だからこそ、両者がどのように重なり合っているのか、を示すことはとても重要なことになろう。
ハイデガーは、実存主義にも構造主義にも影響を与えたと言われる。彼の仕事の広さ、解釈をめぐる深さのあらわれである。
しかし、ハイデガーはどちらかというと、ナチ加担で否定的にとらえる風潮がまだあるといってもいいと思う。彼の哲学の見直しが進んでいる中、ハイデガーを改めてとりあげることはとても意義がある。
一方で、ドゥルーズは日本で大評判で、それを覆すような議論は未だ現れていないといってよい。
ドゥルーズが構造主義といかなる関係にあるかを考えるのは彼自身が意味がないと言っているが、いずれにせよ、ポスト構造主義者と言われ「ている」人々を「個別に見てみれば」、いずれも多方向に思考を深めている人たちであって、その議論の位置づけを行うことは今にあってもなお流動的であるといえるだろう。
筆者は、生まれ的にも環境的にもドゥルーズに多大な影響を受けているので、そのことを自分でも踏まえつつ考察をすすめたい。
今回取り上げるのは、ドゥルーズの主著『差異と反復』である。というのも、この書物の序論でいきなりハイデガーに触れるからである。
本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの点を挙げてよいだろう。まず、ハイデガーが、存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること。(『差異と反復』財津理訳、13ページ)
ハイデガーの存在論(存在とは何か?)とは有名だが、存在論的≪差異≫の哲学とは何だろうか?この点は、必ずしも明らかではない。
続けて、ドゥルーズはこの本の探求方法を率直に述べている。引用が長くなるが、確認する。
わたしたちは、わたしたちの外で、かつわたしたちの内で、このうえなく機械的で極度に常同症的なもろもろの反復に直面しつつ、そうした諸反復から、絶えずいくつかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している――それが、現代における私たちの生であろう。しかしそれを逆に見れば、偽装しながら隠れているいくつかの秘めやかな反復が、ひとつの差異の永続的な置き換えによって活気づけられながら、わたしたちの内でかつわたしたちの外で、機械的で常同症的な裸の反復を再現しているのである。見せかけ(シミュラクル、括弧内引用者)においては、反復がすでに複数の反復を対象としており、差異がすでに複数の差異を対象としている。反復されるのは、まさに諸反復であり、異化=分化させられるのは、まさに異化=分化させるものである。生の務めは、差異がみずからを配分していくある空間の中で、すべての反復を共存させるところにある。本書は、はじめから、つぎのような二つの方向で探求を進めている。その一方は、否定なき差異という概念にかかわる方向である。まさしく、差異は、同一的なものに従属させられない限り、対立と矛盾に行きつくことはないだろうし、またそこに「行き着く必要もないだろう」からである。――他方は、反復という概念にかかわる方向である。たとえば、機械的あるいは裸の物理的な諸反復(≪同じ≫ものの反復)は、「差異的=微分的」なものを偽装し置き換えてゆくある隠れた反復のいっそう深い諸構造に、おのれの存在理由を見出すだろうからである。そうした純粋な差異と複雑な反復という概念は、いかなる機会においても、ひとつにまとまってまじりあっているように思えたので、以上のような二つの探求はおのずから合流することになった。差異の永続的な発散と脱中心化には、反復における置き換えと偽装が、密接に対応しているのである。(14ページ)
本書のタイトル『差異と反復』には、(1)否定なき差異の探求、(2)反復の探求、これらが一つにまじりあっているので合流するようになった、と述べられている。
否定なき差異とはどういうことだろうか? 引用した直前の文章では、こう述べられている。”わたしたちは、それ自身における差異を、そして<異なるもの>と<異なるもの>との関係を、表象=再現前化の諸形式から独立に思考したい。なぜなら、この諸形式は、その差異とその関係を、≪同じ≫ものに連れ戻し、それらをして否定的なものを経由させてしまうからである。” ドゥルーズの攻撃は、表象=再現前化の諸形式に向けられている。否定的に関連させられているワードは、対立と矛盾である。
『差異と反復』では、表象=再現前化というキーワードが何回も取り上げられ、それが何であるか明らかになっていく。ここでは、違うものと違うもの、例えば肌の白い人と黒い人がいるとする。それらは≪同じ≫人間として扱われ、白人VS黒人という対立図式や、白人社会における黒人差別といった葛藤を引き起こす。そういった全体のことが、表象=再現前化というワードで示されていると理解してよい。そのとき対立や矛盾(葛藤)とは、どのような意味合いにおいて否定と表現されるのだろうか?
さきほどの長い引用に立ち戻るが、ここには簡潔に、そして鮮明にドゥルーズによる現代の人々の描写がなされている。曰く、われわれは、諸反復から、絶えずちっぽけな差異、ヴァリアント、変容を引き出している、それが現代の生だと。私たちは似たような環境の中で、小さな違いをかけがえのないものとして、個人主義的に生きている。それは、ドゥルーズから見れば、ひとつの差異を永続的に置き換えることによって、きちがいじみた反復をずっと繰り返していることになるのだ。 そこでは差異は、ひとつのものとして取り上げられている。ここが肝要である。ちっぽけな差異やヴァリアントは、実は複数のものではない――。それらはひとつのものなのだ。この点をどう理解するか、ドゥルーズがどう論証するかが、ドゥルーズのハイデガーの理解にもかかわってくる。
それにしても、「反復が複数の反復を対象とし、差異が複数の差異を対象とし」ているとは、いったいどのようなことであろうか。私たちにはまだそのイメージはつかめない。簡単な言葉で表されているが、それは数学的イメージにも転用できそうで、まだここでは言わんとしている意味は掴めない。
引用文から一気に飛んで、67ページに飛ぼう。
一義性と差異
結局、<≪存在≫は一義的である>という存在論的命題しかなかったのである。結局、唯一の存在論、すなわち、存在に唯一の声を与えるドゥンス・スコトゥスの存在論しかなかったのである。なぜドゥンス・スコトゥスかというと、彼こそが、なるほど抽象化してしまったのかもしれないが、とにかく一義的な存在を最高度の精妙さにまで仕上げることができたからである。しかし、パルメニデスからハイデガーに至るまで、まさに同じ声が、それだけで一義的なものの全展開を形成するようなひとつのエコーのなかで繰り返されるのである。(67ページ)
どういうことだろうか。唯一の存在論とは。ハイデガーの存在論は、つきつめればあるひとつの同じ存在についての論でしかなかったというのだ。
67ページの展開の中で何があったかは、次回で見ていくことになるが、ドゥルーズはさきほど述べた二つの探求の内の「差異」のテーマのほうで(第一章のタイトルは「それ自身における差異」)で、比較的早いうちにハイデガーの存在論をも検討したことになる。曰く、「ドゥンス・スコトゥスの存在論」、”存在”にただひとつの声のみを認める(与える、のほうが正しいのか)、存在の一義性。
よく知られている話では、ハイデガーは、まずこの世界では、人間とかウサギとか、それぞれが「存在している」ことは分かったのだけれども、そこを飛び越えて、「存在」とは何かを問うたのだった。ドゥルーズは、それに「存在とは、ただひとつの存在でしかない」と答える。「人間が存在する」の「存在」も、「ウサギが存在する」の「存在」も、同じであると言う。
ドゥルーズは、こう続ける――。
≪存在≫は、絶対的に共通なものであるからと言って、ひとつの類であるわけではないということ、これを理解するのに何も苦労することはない。(67-8ページ)
ドゥルーズは、以下のようにして3つの区分を提示する。すなわち、複雑な<もの>として理解される命題においては、(1)命題の<意味>、(2)<指示されるもの>、(3)<指示するもの>。
例えば、ある分かれ道の岐路に、看板があったとしよう。 命題の意味とは、「この分かれ道を右に行きなさい」、指示されるものとは「右に行くこと」、指示するものとは「看板の記号」である。そしてドゥルーズは、”重要なのは、形相的に区別される複数の<意味>が、それにもかかわらず、存在論的に一なるただひとつの<指示されるもの>としての存在(ある)に関係する・・・”と述べる。
人間が存在する
ウサギが存在する
この2文は、違う事態を指示しているが、それは主語においてのかぎりのことである。存在が異なるのでない。
≪存在≫は、それが述語付けされる当のものすべてについて、唯一同一の<意味>で述語付されるのだが、しかし<存在>が述語付される当のものは異なっているのである。要するに、≪存在≫は、差異それ自身について述語付されるということである。(69ページ)
(おしまい)
だからこそ、両者がどのように重なり合っているのか、を示すことはとても重要なことになろう。
ハイデガーは、実存主義にも構造主義にも影響を与えたと言われる。彼の仕事の広さ、解釈をめぐる深さのあらわれである。
しかし、ハイデガーはどちらかというと、ナチ加担で否定的にとらえる風潮がまだあるといってもいいと思う。彼の哲学の見直しが進んでいる中、ハイデガーを改めてとりあげることはとても意義がある。
一方で、ドゥルーズは日本で大評判で、それを覆すような議論は未だ現れていないといってよい。
ドゥルーズが構造主義といかなる関係にあるかを考えるのは彼自身が意味がないと言っているが、いずれにせよ、ポスト構造主義者と言われ「ている」人々を「個別に見てみれば」、いずれも多方向に思考を深めている人たちであって、その議論の位置づけを行うことは今にあってもなお流動的であるといえるだろう。
筆者は、生まれ的にも環境的にもドゥルーズに多大な影響を受けているので、そのことを自分でも踏まえつつ考察をすすめたい。
今回取り上げるのは、ドゥルーズの主著『差異と反復』である。というのも、この書物の序論でいきなりハイデガーに触れるからである。
本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの点を挙げてよいだろう。まず、ハイデガーが、存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること。(『差異と反復』財津理訳、13ページ)
ハイデガーの存在論(存在とは何か?)とは有名だが、存在論的≪差異≫の哲学とは何だろうか?この点は、必ずしも明らかではない。
続けて、ドゥルーズはこの本の探求方法を率直に述べている。引用が長くなるが、確認する。
わたしたちは、わたしたちの外で、かつわたしたちの内で、このうえなく機械的で極度に常同症的なもろもろの反復に直面しつつ、そうした諸反復から、絶えずいくつかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している――それが、現代における私たちの生であろう。しかしそれを逆に見れば、偽装しながら隠れているいくつかの秘めやかな反復が、ひとつの差異の永続的な置き換えによって活気づけられながら、わたしたちの内でかつわたしたちの外で、機械的で常同症的な裸の反復を再現しているのである。見せかけ(シミュラクル、括弧内引用者)においては、反復がすでに複数の反復を対象としており、差異がすでに複数の差異を対象としている。反復されるのは、まさに諸反復であり、異化=分化させられるのは、まさに異化=分化させるものである。生の務めは、差異がみずからを配分していくある空間の中で、すべての反復を共存させるところにある。本書は、はじめから、つぎのような二つの方向で探求を進めている。その一方は、否定なき差異という概念にかかわる方向である。まさしく、差異は、同一的なものに従属させられない限り、対立と矛盾に行きつくことはないだろうし、またそこに「行き着く必要もないだろう」からである。――他方は、反復という概念にかかわる方向である。たとえば、機械的あるいは裸の物理的な諸反復(≪同じ≫ものの反復)は、「差異的=微分的」なものを偽装し置き換えてゆくある隠れた反復のいっそう深い諸構造に、おのれの存在理由を見出すだろうからである。そうした純粋な差異と複雑な反復という概念は、いかなる機会においても、ひとつにまとまってまじりあっているように思えたので、以上のような二つの探求はおのずから合流することになった。差異の永続的な発散と脱中心化には、反復における置き換えと偽装が、密接に対応しているのである。(14ページ)
本書のタイトル『差異と反復』には、(1)否定なき差異の探求、(2)反復の探求、これらが一つにまじりあっているので合流するようになった、と述べられている。
否定なき差異とはどういうことだろうか? 引用した直前の文章では、こう述べられている。”わたしたちは、それ自身における差異を、そして<異なるもの>と<異なるもの>との関係を、表象=再現前化の諸形式から独立に思考したい。なぜなら、この諸形式は、その差異とその関係を、≪同じ≫ものに連れ戻し、それらをして否定的なものを経由させてしまうからである。” ドゥルーズの攻撃は、表象=再現前化の諸形式に向けられている。否定的に関連させられているワードは、対立と矛盾である。
『差異と反復』では、表象=再現前化というキーワードが何回も取り上げられ、それが何であるか明らかになっていく。ここでは、違うものと違うもの、例えば肌の白い人と黒い人がいるとする。それらは≪同じ≫人間として扱われ、白人VS黒人という対立図式や、白人社会における黒人差別といった葛藤を引き起こす。そういった全体のことが、表象=再現前化というワードで示されていると理解してよい。そのとき対立や矛盾(葛藤)とは、どのような意味合いにおいて否定と表現されるのだろうか?
さきほどの長い引用に立ち戻るが、ここには簡潔に、そして鮮明にドゥルーズによる現代の人々の描写がなされている。曰く、われわれは、諸反復から、絶えずちっぽけな差異、ヴァリアント、変容を引き出している、それが現代の生だと。私たちは似たような環境の中で、小さな違いをかけがえのないものとして、個人主義的に生きている。それは、ドゥルーズから見れば、ひとつの差異を永続的に置き換えることによって、きちがいじみた反復をずっと繰り返していることになるのだ。 そこでは差異は、ひとつのものとして取り上げられている。ここが肝要である。ちっぽけな差異やヴァリアントは、実は複数のものではない――。それらはひとつのものなのだ。この点をどう理解するか、ドゥルーズがどう論証するかが、ドゥルーズのハイデガーの理解にもかかわってくる。
それにしても、「反復が複数の反復を対象とし、差異が複数の差異を対象とし」ているとは、いったいどのようなことであろうか。私たちにはまだそのイメージはつかめない。簡単な言葉で表されているが、それは数学的イメージにも転用できそうで、まだここでは言わんとしている意味は掴めない。
引用文から一気に飛んで、67ページに飛ぼう。
一義性と差異
結局、<≪存在≫は一義的である>という存在論的命題しかなかったのである。結局、唯一の存在論、すなわち、存在に唯一の声を与えるドゥンス・スコトゥスの存在論しかなかったのである。なぜドゥンス・スコトゥスかというと、彼こそが、なるほど抽象化してしまったのかもしれないが、とにかく一義的な存在を最高度の精妙さにまで仕上げることができたからである。しかし、パルメニデスからハイデガーに至るまで、まさに同じ声が、それだけで一義的なものの全展開を形成するようなひとつのエコーのなかで繰り返されるのである。(67ページ)
どういうことだろうか。唯一の存在論とは。ハイデガーの存在論は、つきつめればあるひとつの同じ存在についての論でしかなかったというのだ。
67ページの展開の中で何があったかは、次回で見ていくことになるが、ドゥルーズはさきほど述べた二つの探求の内の「差異」のテーマのほうで(第一章のタイトルは「それ自身における差異」)で、比較的早いうちにハイデガーの存在論をも検討したことになる。曰く、「ドゥンス・スコトゥスの存在論」、”存在”にただひとつの声のみを認める(与える、のほうが正しいのか)、存在の一義性。
よく知られている話では、ハイデガーは、まずこの世界では、人間とかウサギとか、それぞれが「存在している」ことは分かったのだけれども、そこを飛び越えて、「存在」とは何かを問うたのだった。ドゥルーズは、それに「存在とは、ただひとつの存在でしかない」と答える。「人間が存在する」の「存在」も、「ウサギが存在する」の「存在」も、同じであると言う。
ドゥルーズは、こう続ける――。
≪存在≫は、絶対的に共通なものであるからと言って、ひとつの類であるわけではないということ、これを理解するのに何も苦労することはない。(67-8ページ)
ドゥルーズは、以下のようにして3つの区分を提示する。すなわち、複雑な<もの>として理解される命題においては、(1)命題の<意味>、(2)<指示されるもの>、(3)<指示するもの>。
例えば、ある分かれ道の岐路に、看板があったとしよう。 命題の意味とは、「この分かれ道を右に行きなさい」、指示されるものとは「右に行くこと」、指示するものとは「看板の記号」である。そしてドゥルーズは、”重要なのは、形相的に区別される複数の<意味>が、それにもかかわらず、存在論的に一なるただひとつの<指示されるもの>としての存在(ある)に関係する・・・”と述べる。
人間が存在する
ウサギが存在する
この2文は、違う事態を指示しているが、それは主語においてのかぎりのことである。存在が異なるのでない。
≪存在≫は、それが述語付けされる当のものすべてについて、唯一同一の<意味>で述語付されるのだが、しかし<存在>が述語付される当のものは異なっているのである。要するに、≪存在≫は、差異それ自身について述語付されるということである。(69ページ)
(おしまい)
”育成型アイドル”と呼ばれる環境において、ヲタクたちは指導者のような地位をふるまう。何を指導するのだろうか。
一般には、アイドルたちの魂を、というものかもしれない。しかし、そこを詳細に観察する必要がある。
アイドルたちは、立派なアイドルたちを目指す。しかしその具体的なゴールが常に明確とは限らない。思えば、”育成型アイドル”とは、ゲーム的リアリズムの産物なのかもしれない。とにかく、アイドルたちは、迷える子羊のように呈している必要がある。一方で、ヲタクたちはお金を払えば、そのアイドルたちを自由にプロデゥースするという権利を最終的に持つ。育成型アイドル産業の、法的性格を窮極的につきつめれば、お金とそうした権利の交換である。劇場を見る、握手会に参加する、確かにそれはそうなのだが、それもまたあくまで派生的なものにすぎない。お金を払えば、オタクはアイドルを自由に指導できる―。 これは、かのミシェル・フーコーが指摘していた、司牧型権力の現代的姿なのではあるまいか。
筆者は以前、上野千鶴子の『家父長制と資本制』を読んだときに、不満を感じて低評価を下したのだが、それを撤回しなくてはならないと感じている。
というのは、彼女は同書において、「家族」という新たなカテゴリー、大きな物語、巨大システムを理論的に告発していることに成功しているからだ。
当時での彼女の理論は、国家というカテゴリを含めるのを怠っていたので、自著解題でそれを自ら反省してもいる。
修正された後の、彼女の世界理論は注目に値する。
それは、3つのカテゴリからなる。国家、市場、家族の3つだ。純粋なマルクス主義の世界理論は、上部構造と下部構造の二つに分けて、下部構造を経済構造とし、経済構造が上の市場、国家を規定すると位置づけた。
上野の世界理論においては、上部/下部という構造はただちにあらわれない。
それは、国家、市場、家族という3つの範疇が、それぞれの位置から円環をなし、それぞれから疎外された領域を形成している。
例えば市場であれば、市場=資本主義は資本家(ブルジョワジー)を中心に取り囲み、労働家(プロレタリア)を疎外する。労働者は、市場という場にいながら、決してその中心に坐することができない。
同じように、国家においては、国民(というあやふやなもの)を中心に取り囲み、外国人などを疎外する。
上野の理論が新しいのは、この市場=資本主義システムと国家=帝国システムと同列に、家族システムをおいたことである。
家族システムにおいては、主に男性が中心を取り囲み、子供や女性が疎外されることになる。
そしてこの3つのシステムは、互いに影響もしている。例えば、家族システムからは、「一家の大黒柱」などとして、男性が市場に送り出される。そこでは男性は、労働者という疎外されたものになるだろう。市場システムが持続する条件として、労働者は絶えず送り出されなければならない。そこで、家族システムが市場システムにおける労働者の供給源の役目を果たしていることが発見されるのだ。
このように、家族と市場というカテゴリは、一つの共犯関係を築いているのである。
国家と市場においては、市場から送り出された戦士が、国家において戦争兵士として犠牲になる例が20世紀には多々みられた。
国家と家族においては、家族政策という名のもと、国家が積極的に国民を作成する圧力をかけ、女性に負担をかけた。
国家、市場、家族という3つのカテゴリと影響関係、疎外を見ると、どこのだれが何から疎外されているのかが明晰に見えてくる。中でもフェミが主題とする女性は、この3つのカテゴリのいずれもから疎外されやすく、2重にも3重にも構造的に苦しんでいるということが明らかになった。
『資本制と家父長制』は上で見てきた見取り図をさらにくわしく分析しているが、このマルクス主義フェミニズムは今日においても妥当している。同理論の深化が問われるところだろう。
(おしまい)
というのは、彼女は同書において、「家族」という新たなカテゴリー、大きな物語、巨大システムを理論的に告発していることに成功しているからだ。
当時での彼女の理論は、国家というカテゴリを含めるのを怠っていたので、自著解題でそれを自ら反省してもいる。
修正された後の、彼女の世界理論は注目に値する。
それは、3つのカテゴリからなる。国家、市場、家族の3つだ。純粋なマルクス主義の世界理論は、上部構造と下部構造の二つに分けて、下部構造を経済構造とし、経済構造が上の市場、国家を規定すると位置づけた。
上野の世界理論においては、上部/下部という構造はただちにあらわれない。
それは、国家、市場、家族という3つの範疇が、それぞれの位置から円環をなし、それぞれから疎外された領域を形成している。
例えば市場であれば、市場=資本主義は資本家(ブルジョワジー)を中心に取り囲み、労働家(プロレタリア)を疎外する。労働者は、市場という場にいながら、決してその中心に坐することができない。
同じように、国家においては、国民(というあやふやなもの)を中心に取り囲み、外国人などを疎外する。
上野の理論が新しいのは、この市場=資本主義システムと国家=帝国システムと同列に、家族システムをおいたことである。
家族システムにおいては、主に男性が中心を取り囲み、子供や女性が疎外されることになる。
そしてこの3つのシステムは、互いに影響もしている。例えば、家族システムからは、「一家の大黒柱」などとして、男性が市場に送り出される。そこでは男性は、労働者という疎外されたものになるだろう。市場システムが持続する条件として、労働者は絶えず送り出されなければならない。そこで、家族システムが市場システムにおける労働者の供給源の役目を果たしていることが発見されるのだ。
このように、家族と市場というカテゴリは、一つの共犯関係を築いているのである。
国家と市場においては、市場から送り出された戦士が、国家において戦争兵士として犠牲になる例が20世紀には多々みられた。
国家と家族においては、家族政策という名のもと、国家が積極的に国民を作成する圧力をかけ、女性に負担をかけた。
国家、市場、家族という3つのカテゴリと影響関係、疎外を見ると、どこのだれが何から疎外されているのかが明晰に見えてくる。中でもフェミが主題とする女性は、この3つのカテゴリのいずれもから疎外されやすく、2重にも3重にも構造的に苦しんでいるということが明らかになった。
『資本制と家父長制』は上で見てきた見取り図をさらにくわしく分析しているが、このマルクス主義フェミニズムは今日においても妥当している。同理論の深化が問われるところだろう。
(おしまい)
哲学者の千葉雅也氏が「あなたにギャル男を愛してないとは言わせない」『思想地図B3 日本2.0』(ゲンロン社、2012)が提示した分析モデルをちょっと応用して、男女論に応用できるのではないかと考えている。
というか、思いつきなので、応用というより転用となっていると思う。
まずは、男性が女性を支配していたという典型的な社会理論の位置づけである。この位置づけでは、性別の担い手は男女というよりも、男性のみに限られる(女性は、男性ではないということによって定義づけられてしまう)。
男性のみが存在し、女性を隠ぺいするという学問発の従来の構造。これを、「単なる排除」と呼ぶ。男性が女性を排除するのである。
そこで、次に現代における男女間の様相を考えてみよう。
フェミニズムの運動のおかげで、殊に日本では、「女性を大切にしよう!」というスローガンだけは大きくなっている。そして、現状は、フェミが訴えた世界の変革ということはとりあえず置き去りにして、世の男性たちは、女性を優しく扱っているかのように見える。扱っている限りでは、上の「たんなる排除」ではない。
しかし、よく観察しなければならないのはここだ。
優しい男性とは、そのような男性社会とは、例えば、ギャグで「女性に支配される男性」といったような関係性を描く。女性優位の、女性が上位にあるような社会関係(オニヨメ、凶暴なフェミなどなど)だ。そのような関係は「倒錯」である。
もちろん、「倒錯」が現代の社会の姿だと早合点してはならない。倒錯しているかのように見えるが、しかし女性優位の社会が現にあるわけではない。では何があるのか。
ギャグということはどういうことか。笑いが起きる、自虐的とは。それは、「本来は」「男性優位」というテーゼがあるはず「なのに」、「あえて」女性を優位に置き換えてその様にある自分といった風におちゃらける、という意味である。
現代に生きる優しい男性像とは、そのようなものだと思う。女性に気を配る男性は、そういうギャグをスマートにかまして女性関係を作る。
彼らはその笑いが起きる原因を知らない。忘却いている。忘却しているということは、前に何かがあったということである。忘却は、無(はじめからなにもない)と等値ではない。では、なにがあったのか。
「男性優位」の社会である。優しい男性は、そのことを完全に忘却しているのだ。そして、あたかも自分は女性優位の社会に生きているかのようにふるまう。
これは、「倒錯的な排除」、「否定的な排除」である。 彼らは倒錯しているかのように見えるのだが、しかしそれは忘却という名のあの排除である。つまり、男性優位の社会像は、いまだ存在しているのだ。どこに。彼らの奥底に、構造にである。
以上、たんなる排除、倒錯、倒錯的な排除の3類型を通して、現代の男女関係は、3番目の倒錯的な排除型にあるということを結論付けておく。
(おしまい)
というか、思いつきなので、応用というより転用となっていると思う。
まずは、男性が女性を支配していたという典型的な社会理論の位置づけである。この位置づけでは、性別の担い手は男女というよりも、男性のみに限られる(女性は、男性ではないということによって定義づけられてしまう)。
男性のみが存在し、女性を隠ぺいするという学問発の従来の構造。これを、「単なる排除」と呼ぶ。男性が女性を排除するのである。
そこで、次に現代における男女間の様相を考えてみよう。
フェミニズムの運動のおかげで、殊に日本では、「女性を大切にしよう!」というスローガンだけは大きくなっている。そして、現状は、フェミが訴えた世界の変革ということはとりあえず置き去りにして、世の男性たちは、女性を優しく扱っているかのように見える。扱っている限りでは、上の「たんなる排除」ではない。
しかし、よく観察しなければならないのはここだ。
優しい男性とは、そのような男性社会とは、例えば、ギャグで「女性に支配される男性」といったような関係性を描く。女性優位の、女性が上位にあるような社会関係(オニヨメ、凶暴なフェミなどなど)だ。そのような関係は「倒錯」である。
もちろん、「倒錯」が現代の社会の姿だと早合点してはならない。倒錯しているかのように見えるが、しかし女性優位の社会が現にあるわけではない。では何があるのか。
ギャグということはどういうことか。笑いが起きる、自虐的とは。それは、「本来は」「男性優位」というテーゼがあるはず「なのに」、「あえて」女性を優位に置き換えてその様にある自分といった風におちゃらける、という意味である。
現代に生きる優しい男性像とは、そのようなものだと思う。女性に気を配る男性は、そういうギャグをスマートにかまして女性関係を作る。
彼らはその笑いが起きる原因を知らない。忘却いている。忘却しているということは、前に何かがあったということである。忘却は、無(はじめからなにもない)と等値ではない。では、なにがあったのか。
「男性優位」の社会である。優しい男性は、そのことを完全に忘却しているのだ。そして、あたかも自分は女性優位の社会に生きているかのようにふるまう。
これは、「倒錯的な排除」、「否定的な排除」である。 彼らは倒錯しているかのように見えるのだが、しかしそれは忘却という名のあの排除である。つまり、男性優位の社会像は、いまだ存在しているのだ。どこに。彼らの奥底に、構造にである。
以上、たんなる排除、倒錯、倒錯的な排除の3類型を通して、現代の男女関係は、3番目の倒錯的な排除型にあるということを結論付けておく。
(おしまい)