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君への欲望、失敗しても
 話を一度脱線させると、次のパラグラフは素晴らしい一節である。”悲しみの雨 打たれて足元を見た/土のその上に/そう確かに僕はいた” 僕はいたというのは存在(の定立)の再確認であるが、この悲しみの雨と確固たる土との対比は私たちの心を揺るがせる。このパラグラフでは「君」は登場せずとも、不確かな状況の中で何とか自分を確立させてやることのできる事柄を表している。やはりこれも「君」への感謝につながっていくだろう。
 
問いは、なぜ「君の名は希望」では、「君」と「僕」との恋は成就しないか、または、明確にその可否が描かれていないのかという点にも関わってくる。“一人では生きられなくなった”と感じた「僕」は、「君」をその能動性において欲する=恋愛を行う、つまり対象を欲望する。ここには、恋の気持ちの発展がある。というのも、かつて呼びかけをおこなった「君」へ、無意識的に反復するという受動性の契機から、私こそが「君」の存在定立をしたいという、能動性の契機に変化するのだ。詩の時間軸ではさかのぼることになるが、“僕が拒否してた/この世界は美しい”という字句に示されるように、存在定立のなされた「僕」は、自己の周りの事物への呼びかけすらしていこうと思うくらい、世界に対して肯定をおぼえていることになる。“未来はいつだって/新たなときめきと出会いの場”なのであるから。「君の名は希望」は理想を歌わない。存在の定立に関わる関係性は、いつも片方からもう片方へ、そしてそれが半永久的に続く連鎖(「存在の連鎖」)を示すものである。見返りを求めるものではない、ただしその求める欲求自体は否定されない。だから、それを希望と名付けられるのかもしれない。第一の希望は、自己が定立されたことによる、それを原動力としての世界参入(あるいは構築)への期待感であったが、第二の希望はさらなる理想=高みへの、つまり輝かしい生への接続への期待感としてある。
 このとき、第一の希望と第二の希望を綜合した、第三の希望とでも呼ぶべきものが出現する。“もし君が振り向かなくても/その微笑みを僕は忘れない”。この時、「君」への想いは続いたまた、原動力として「僕」はこれからも世界に積極的に関わっていき、あるいは傷ついていくだろう。それは感謝と希望のいりまじったものである。そして、「僕」は新たな恋にむけて、この恋を無限に将来に向かって反復=変奏していくだろう。決して届くことのない、しかし何回でもとどこうとする気持ち。これを、希望とはっきり定義できるのだ。
 
 “希望とは/明日の空”という字句はつまり、希望とはまったくもって不確かなものであるということも示す。ただ、それが、明日の空という言葉が抱かせるように、とても前向きで肯定感に満ちた可能性を大きく指すのは、生のもつエネルギーゆえである。
 サビではとくに、恋は生きることのエネルギーそのものとして措定されている。神聖さと肯定感と主題の恋愛の3つが絶妙に重なるのが、「君の名は希望」という作品なのである。
 
(了)
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@呼びかけ、呼びかけられ―乃木坂46「君の名は希望」の考察1
 
 なぜ“君の名は希望”、あるいは端的に君が希望ということになるのだろうか。ここでは希望の起源、発生を大きく問うてよかろう。ある意味で、詩作者が用意した「僕」と「君」の物語は分かりやすい仕掛けになっている。(恋愛の)プロセスを時間軸をおいて図式的に描いているからだ。簡単にまとめれば、①「僕」は「君」に呼びかけられる(発見される)、②君を再度見つける、③君へ向かう(恋をする)、という前半の模様がある。

 1について。ここでは、何と言っても、他者たる「君」から呼びかけがあって、それを受け取る「僕」の呼びかけられがあって、「僕」が「呼びかけられる僕」という差異化した自己を見出すという点が肝要である。まるで自己の存在性は、そうしたプロセスにおいてのみ浮上するかのように。ここでは関係性は存在に先立つという関係主義のテーゼというよりも、存在の定立は自己―他者間における呼びかけ―呼びかけられの相互行為のプロセスの中で初めてなされるものだと考えるべきであろう。①は要するに、自己の再定立という側面を持っているのだ。自己の再定立、新しい自分(の存在性)。“こんなに誰かを恋しくなる/自分がいたなんて/想像もできなかったこと”という字句のように、恋の素晴らしさは何よりもまず差異化する自分(恋に落ちていなかった自分が恋に落ちている)という現象への気づきとして描かれるのは、そのような意味合いを持つ。恋愛とは何よりも自分にリフレクト=反射してくる。この時、注意しておかなければならないのは、(i)自己が自己の存在性に気づいてやれること、そして(ii)その発端となったのは、他者(「君」)の呼びかけであった、ということである。

 2について。自己の最定立がなされることにより、呼びかけー呼びかけられの関係性はひとまず消去する。そのとき、「僕」は、呼びかける存在としてでない、純粋な「君」をふたたび発見する。だが、実際、この呼びかけー呼びかけられ、の関係性(ないしは構造性)は本当に消去されるのだろうか。答えは否である。いわば、この関係=構造は亡霊となって再び現れるであろう。しかし、自己の再定立は少なくともかつて「呼びかけ」た「君」に十分対峙するほどの存在性を自己にもたらす。この次元において、「僕」は初めて「君」という他者と同じ地平に立つことができる。

 3について。いよいよ、「僕」は「君」に関係性を構築しようとする。しかし、このプロセスは作品中では必ずしも明確に描かれていない。恋と恋愛を区別するものは他者(相手)からの行為であるが、作品中では僕は片思いの気持ちをふくらませているに留まるだけのようにも見える。それでは、恋をすることの気持ちは何だろうか。これは思うに、「僕」は「君」に、かつて自分がそうされたように、今度は自分が「呼びかけ」をはかり、相手の存在の定立を導いているのではなかろうか。③は、「僕」の「君」への一方向性によって規定される。このときの原動力となるのは、かつては自分がその相手(「君」)によって自己の存在を呼びかけられたこと、その原初が想起され、無意識の領域において再―反復されようとしているのだ。なぜなら、存在の(再)定立とはかくも素晴らしいものであるから。自己が自己に居場所を幾度も見つけてやること―これこそは、世界参入への、つまり“出会いとときめき”の不断の発生への希望である。つまりこのとき、自己がたえまなく差異化していき、新しい自分をどんどん発生させることで、流れゆく世界に接続し、歩調を並行させ、生きていくことができるようになる。そのことを、確かに希望と呼んでもいいはずである。

 
 以上の記述は、希望の起源の半面を解明したものであり、また他者(「君」)について半面を解明したものである。まとめるならば、他者の呼びかけがあり、呼びかけられる自己が見出されることによって、自己は存在性を獲得し、世界に基盤を持つことができる。それは希望のひとつの名前である。
 存在を与えてくれたこと―その気持ちだけならば、それは「感謝」に終わる。希望とはもっと未来的な、前方向を向いた概念である。それらについて、残りを考察の2において記述していく。

(了)
数的に、あるいは量的に、女性は社会構成員の約半数いるからといって、女性の提起する問題がメジャー(多数的)であるというのはとんだ勘違いである。

 まずだいいちに、数的・量的な変数を実体化したものがパワーの指標になるわけではない。なるほど、数の優勢は確かにひとつのパワーの指標足りうる。 しかし、現実に生産手段を持つ1人の資本家と、99人の生産手段を持たない労働者とでは比較が異なる。 1人の専制君主と999人の被制圧者とではパワーの構成が違う。
 これは<数の誤り>とでも呼ぶべき現象である。 実は、数的量は、質的量に劣る。
パワーの構成としては、まず質的・構造適量が優勢を占める。その上で、数的量が問題となってくる。

 伝統的な図式の下で、男性が優位で、女性が劣位であるという構造的な質がある。 だから、半数の男性と半数の女性では、なお力関係はハッキリしているわけだ。
 1人の男性と、99人の女性でも怪しいかもしれない。
私が2番目に提起する問題とは、99人の男性と1人の女性という図式が問題となってくるような場面である。


2番目の問題としての、マイナー/メジャーをめぐる問題。 この二項対立は、いっけん、対立の様式ではない。たとえば、小説市場において、圧倒的に人気を誇るミステリー・エンターテイメント小説の市場と、純文学の市場は、メジャー/マイナーの関係に立つ(純文学は大衆人気を誇るようなものではそもそもない)が、互いが互いを直接的に抑圧、あるいは支配するものではない。 

 ただ、私の考えでは、このメジャーもしくはマジョリティは、サイレント・マジョリティとして、いわば直接的には支配主体とはならないのだが、間接的にそのような立場を占めてしまう主体のことを言う。
 サイレント・マジョリティの問題はやっかいである。それらは、当人の主観からすれば、「善意」(法学的意味でない)、「無垢な気持ち」で、たとえばミステリー・エンターテイメント小説などがもてはやされたりする。

 彼らに直接的責任を求めることはできない。メジャー市場としてのミステリ・エンタメを楽しむ消費者にとっては、それらの存在は純粋に面白いからである。
 しかし、そのことが、たとえば市場の論理において、よく売れるから、さらに規模を増やそう、そのためには純文学の市場空間を減らしてまでも、という第三者の介入が入ってくる。
 しかしこのことで、純文学の市場は確実に(数をも)減らされることになる。 内容が面白い/面白くないということではなく、”市場の論理”というもっぱら外部的な要因によって、純文学は数的にも、それから質的にも(売れないから規模を小さくする)劣位におかれることになる。

 厄介な派生効果として、どこからともなく、純文学はつまらないからもともと売れないのだ、という声が生産されるようになる。これがいかに間違っていようとも、質的に・そしてさらに数的に劣位構造にますます置かれる純文学は、それに反抗する声をもてなくなってしまう。

反対に、市場を味方につけたミステリーエンタメは、自らの存在をますます広げていくようになる。

 上下構造、優劣構造はこのように飛躍的に悪循環に陥る。 市場がこれに加担しているということを指摘するのは重要である。


さて、話を戻せば、たとえばフェミニストたちは、もう質的にマイナーである。なぜなら、もともと劣位に置かれているものたちの声であるのだから。 見方になる男性も少なく、さらには男性/女性という問題ではなく社会構造という一番やっかいな敵がフェミニストたちに立ちはだかってくる。 それが、フェミニズムをよしとしない女性たちからの反発の声もあがってくると、数的にまで、フェミニストたちは劣位に置かれることになる。


マイナーとしてのフェミニズムあるいはフェミニスト。
 ひとつは、この考えにより、敵がはっきりすること。真の敵はメジャーではなく、メジャー/マイナーのこの図式・優劣構造を規定する作用主体、こいつであるということ。
 もうひとつは、マイナーの戦い方。なぜなら、戦い方を間違えれば、またしてもこの悲惨な登場人物は、誤解に巻き込まれることになるからである(アファーマティヴアクションの弊害、さらにはヘーゲル的弁証法による包摂化)。


さて、私がこの記事を書いたのは、1980年代に書かれた江原由美子氏の『ジェンダーと権力作用』の前書きを読んでいたときのこと。 江原氏は、もうすでにこの時期において、アイデンティティ・トラブルとしてのフェミニズム、つまり女性なる私とは誰か? をめぐる問題・戦いは、一見休息したように見えると、半ば不安感に駆り立てながら記していたことである。

 フェミニズム史を考慮すれば、フェミニストたちはいくつもの異なる次元の戦い・問題に次々と巻き込まれていったことがわかる。もうそれだけでも事態は複雑であり、このことがいかにプログレマティークな事柄なのかを示唆している。

 80年代から30年間が過ぎ去った。 90年代に『生き延びさせろ!』を叙述した雨宮処凛氏は、貧困問題のみならず、若者、戦争、介護、それから女性の問題と、さまざまな社会問題に対して実践的に活動している。
 雨宮氏は今年の5月号である『現代思想 特集=自殺論』において、貧困と介護と女性の問題は深いところでリンクしているという素晴らしい対談を行っている。  80年代の江原氏の不安感は気まぐれなものではなかった。それどころか、30年たって、事態はよくなるどころか新しい問題を次々と生み出しているのである。

『不惑のフェミニズム』の上野千鶴子氏が語るように、20世紀後半の最大の思想は(構造主義と共に)フェミニズムであったといってよい。 フェミニズムは、フェミニズムそれ自体が弱者の立場に置かれるという事を現時的に何度も記述しつつ発展するという、ひじょうにこみいった学である。

 私がマイナー研究として、主としては広く抵抗の問題系として、フェミニズムを扱ってよいかどうかにも議論を呼ぶところはあるであろう。 

 若者。貧困。労働者。芸術。介護。戦争。そして、フェミニズム。

それらをマイナー研究として、そこからの脱却を図るとともに社会に強烈な揺さぶりをかけること。

(了)
これから、資本主義体制が抱える、私が「労働ー消費の相互蓄積性」と呼ぶ問題の一面を指摘して取り上げようと思う。

 後述するように、この問題は、理解するのに難しくないにもかかわらず、従来の学問ではあまり取り上げられなかった視点である。
 ここにこそ、資本主義体制をめぐる問題の鍵が眠っているであろう。


 さて、どうも人は労働-消費体制(働いて、あるいは働かせて、遊ぶ、あるいは遊ばされる制度のこと)に縛られている気がする。そこでここでいう「縛り」には、2種類のものがある。

(1) (個人にとっての)体制が決定される(労働時間が8時間と決まる、あるいは新たな職場先が決まる)ことによって、それを社会的安定のメルクマークとみなすこと。つまり、それを基軸として、労働者の生(この言葉が硬いと思われれば、簡単に「人生」でもよい)が考えられていくということ。 賃金がこれだけだから、送る生活水準は大体これくらいになりそうだ、6時まで働くから飲んだり遊んだりするのは夜7時以降の3時間くらいになりそうだ、等々。

(2)労働時間以外の時間は逆に、私は消費者だ-あるいは何者でもない受動的市民だーとして振舞うこと。受動的市民とは、法や管理体制にとって不可視の一般大衆としての彼らの存在のことである。善良な市民は、それとして社会に浮上することがない。さて、ここには労働(ー消費)体制に対するある種の反作用が働いていると考えられる。つまり、自らの意思もあると擬制されて時間労働契約を取り交わし、その時間以外では他の領域の労働ー消費空間に、もちろん金銭を有するものとして参入すること。

 人は働き、そのあとまた遊び、そしてまた働く、これを繰り返すから当たり前だといってよいかもしれない。さらに労働したことで対価たる金銭を得るのだから、人は当然に(近代的)自由人=市場空間に参入する人として振舞うのだ、と指摘する向きもあろう。

しかし私は、労働ー消費の相互蓄積性というものを重視する。相互蓄積とは、自分が労働者となったり消費者となったりするのをずっと繰り返す、そしてその経験を頭脳によって蓄積している、という意味である。この相互蓄積性はしかし圧倒的に重要である。一度でも労働の側に入ったことのある人は、善良な(純粋な)消費者として振舞うことはないといってよい。なぜならその消費者は過去の自分の労働者性を比較に持ち出したり、持ち出さずとも経験的=反復的に思い出したりして、その消費行動に望んでいるのである。分かりやすい例がモンスターカスタマーであろう。
 彼らの例は、もちろん他の社会領域の問題ともかかわっているが、間違いなくこの労働ー資本体制が直接的に抱え込んでいる問題の一つである。彼らの存在は直接にそのような社会から生み出されている。

労働体制じしんが、人を労働者として準固定し、そしてその労働時間が解けると、反作用として<アンチー労働>の向きに向かわせるのだということー。
 (アンチーワークを狭義に捉えてはならない。 労働に対する<抵抗>(この抵抗という言葉もまた注意が必要である)は、主として消費によってなされる。

 たとえば、浪費は労働に対する抵抗の一つである。決められたマネーと商品の関係を破壊し、それを過剰なものとすることによって自ら快楽を得る。この小論ではアンチワーク(労働に対する抵抗)の概念を掘り下げて記述することはできないので、話を労働ー消費の相互蓄積性がいかに人を縛り付けるか、という点に絞ろう。)

 人は、自分が過去に労使空間で受けた経験や感情を、今度は自分が消費者の立場に立って、別の新たな領域で意識的にか無意識的にか投射し、比較項とし、自分は王となる。
 消費者は、実は隠れた労働者であり、その行動ははじめからねじれていること。このねじれこそは、労働ー資本体制の「縛り」の後者の機能である。

 静態的な民法理論では、一回きりの債権者(消費者)ー債務者(労働者)という契約関係を論ずる。これを純粋消費者、あるいは純粋労働者と呼ぼう。 この純粋理論では、時間軸が設定されていない。そこでこの図式に時間軸を導入し、消費者と労働者に過去を持たせると、図式はたちまち複雑になる。

 消費者は、隠れた労働者であるのだから、なおさらいっそう債権者として、つまり貨幣を持つものとして強く振舞う=振舞えるのである。 労働者はますます弱くなる。ここには二重の従属関係、というより反比例的に広がる労働者と消費者の格差が存在する。


話は跳躍するが、もし消費者と労働者がやはり構造上の力の差異により区別され、対立するなら、そして消費者は一回きりの立場であり、相互に消費者としての地位と労働者としての地位が繰り返され蓄積して以降ものなら、まさに万人の万人に対する闘争関係が再び現代によみがえる。この闘争は複雑である。

(以上)
主体から”ヴィークル”概念へ


 主体とは何かと言われたら、図式的に言えばそれは中心とまったく同義である。中心的な視座、というより視座の中心、動作の中心、といったほうがいいのか。

視座の中心、思考の中心として、たしかに私たちは振舞うことができる。法的主体は、そういう風にして働かないとまずい(「私はAという原告でもありません、私はAという行為をしていません・・・」とばかり飛び交う法廷世界になったらたちまち司法は安定性を奪われるだろう)。

しかし私は、この中心さを、放棄してしまえばいいと考える。

その理由は、こういうことになる。すなわち、主体、中心的な視座・動作とは、やはりそれ自体自明のものではない。いわば、私たちは、自分の中心を占めていて当たり前、なぜなら自分は自分だからだ(所有権の擬制)という考え方が、どれほど似つかわしくないかは、ポストモダン思想があれほど共有しているものだからである。私もそのひとりである。

 言い換えれば、主体という概念もまた一つの生産物なのである。
おそらく、自己に主体性を与えることで、自己が自身の名において作動を起こす・・・。 これが近代社会における個人の在り方である。
 そのあり方は今ひどく揺れ動いている。

主体を否定してしまえばよい。 私は私の中心になど立てるものではない。
 主体を徹底的に否定するのではなく、例えば、主体的にもなりうる、ただしそれはあくまで効果としてのことだ、としてしまえばよい。 これを主体効果と呼ぼう。 主体効果を認めれば、主体化は相対的な位置に降り、生のあり方についての重要メルクマークから外れる。

では、この私とは何か。

 私は、ドゥルーズが熱弁した、情動という概念を採用してみたい。もっとも、私自身がまだ勉強が追いついていなくて、この情動というものの外延、内在的な平面をまだ把握してはいない。

 しかし例えば、この私には、無意識や、感情がどっと押し寄せることがある。これは、私が積極的に担うというより、外からやってくる感じだ。 その意味では、感情や無意識を受ける私は、そうしたものに対する受け皿に過ぎない。

 受け皿に過ぎないのだが、それらを受けたとたん、また別の新しい行動を産出する。この点に、ドゥルーズは積極性を認めたのではなかろうか。

無意識や感情は、哲学の世界では見過ごされていた部分だが、私はある理由によって、これらの方にこそ、今後の人間の生のありかたを導いていく、大きな鍵があると考えている。

理性や責任を中心に据える 主体的な私から、
情動の受け皿としての、 ヴィークル(乗り物)―機械。

このヴィークル(ー機械)という概念を提案する。 ヴィークルもまた機械の一部分である。

ヴィークルは決して、荷物を目的地に運ぶ、といった手段性には従属しない。 ヴィークルには目的性がない。
ヴィークルは情動を運びつつ、他の機械部分と接続して、無意識や感情の波を作り、波及させる。
ヴィークルは理性や責任をすり抜ける。あるいは、それらから逃走する。

ヴィークルには中心的な視座というものがない。それはいつも脱中心的である。

ヴィークルには、脱中心的な社会が対応するのだろうか。

(了)
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