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卑しき人間がいる。いつの時代でも彼らは、世間に多くの空間を占め、のみならず我々が人間の代表であると嘘の表象=representeをしてきた。彼らは主に資本主義体制や堕落した政治システムの再生産を支えて「しまう」立場を自ら積極的に引き受けている。そこに彼らの帰責性がある。

 他方で、個人主義時代の責任のたらい回しの理路は煩雑を極めている。責任に対する考え方は、責任が如何にあるのかという構成的=法学的な理路から、じょじょに責任の所在の配分をどうするかというエコノミー的な理路へとその重心を移しつつある。卑しい人間がそもそもの事の発端であるかもしれないのに? 問題はあまりにも山積みになり、それはすでに瓦解しているというのに、卑しき人間はそれを自己のものとして引き受けない。貧しい精神はどこまでも貧しい。

 ここでは闘うこの私は誰か、及びこの私の立ち位置はどこかという問いは後々追補的に語られるということにしよう―。私たちは認識を改めなければならない。
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無関心的労働者の倫理と言ってみるものの、階級としての労働者の倫理などというものがあるのかどうか分からない。というのは、日本においては階級意識は最近になってますます曖昧なものになってきているのだ。

 もちろん、階級と階級意識は違う。階級が構造的なのに対し、階級意識はあくまで個人が読み取りうるものぐらいのものであって、階級意識がないからといって階級が構造として存在していないとはいえない。

日本において階級、とくに使用者(資本家)と労働者の階級の主題をどう考えればよいだろうか?
というのは、私は日本の労働者はますます自身の<労働者>という構造ないし立場に絡め取られてしまっているがあまり、階級としての問題構成=闘争への権利を打ち立てることができないように感じるのである。

 上野千鶴子の近著『女たちのサバイバル』で見事に描かれているような、抑圧・従属を強いられるものとしての労働者(階級)は強調しても強調しすぎることはない。

 私は思うのだが、マルクスはあえて階級という概念を使うことで、この階級そのものを武器として労働者側に持たせたかったのだ、という風に考えていたのではなかろうか。

しかし日本においては、階級を意識する場面が減ってきている。それはひとえに、表面的個人平等主義の思想が平板化したことによるものなのかもしれない。

 疎外論には、それに追加されるべきもうひとつの段階がある。それは、疎外された状態が常態化ないし再生産されるという段階だ。
<疎外される>(労働から、政治から)という悲劇的な状況が、なおも繰り返し再生産されることによって、人はたんに疎外されたというのではなく、無<力>として位置づけられる。

 無関心的政治市民とは、もはや政治市民ではない。同じように、自己の労使の過酷さとそれを問題視することができない「無関心的」労働者は、もはや労働者とはよべないのではなかろうか?

 これを闘争する労働者と、<無力>の人たち、と区別することもできる。 闘争する労働者の倫理は、マルクス主義にとっての要の武器である。

 しかるに、疎外とそれの常態化を必然的に・偶然的にもたらす政治・経済の場面においては、歴史から排除される<無力の人たち>をも同時に生み出してしまうのだ。

もはや<無力の人たち>にとっては、階級意識の不在はそもそも問題とすらなっていない。彼らは端的に人間ではないのである。 ここに現代の労使ー経済空間における、最高度の生統治の姿を見て取ることができる。 人は、人間(資本家、闘争する労働者)と、非人間(<無力の人たち>)に、構造的に分割されてしまうのだー。

(了)

 今手元にあるのは『現代思想 特集ホッブズ』、それから長谷部恭男『法思想史』等なのだが、前者はまだ1、二論文を読んだばかりなので、後者から扱う。

 後者の長谷部によるホッブズ理解をすすめると、やはりそこには自然状態におけるホッブズ的人間観がとりわけ大切になっている。

 ホッブズは個としての人間を主眼におき、人間論を完成させたかもしれない。
しかしその個としての人間は、他の人間との相互作用によって、つまり関係性によって、危機つまりはコンフリクトを生み出す。

生命の奪い「合い」、財産の奪い「合い」になるのも、そうした人間のネットワークが想定されているからに違いない。

万人の万人に対する闘争・・・。いったいこの文言は何を意味しているのであろうか?

ところで人間の関係(性)といったものは、コンテクスト(文脈)やシステム(体系)といったものと等値で考えることができる。

その証拠に、前述の長谷部によるホッブズ理解については、かの有名なゲーム理論の単純図式が用いられている。これは一つの視点による全体理解を避け、総合的な視点から現象を読み解こうとするものである。

ホッブズはそういった意味でも、誰にも先立つシステム論者であったと言えるかもしれない。

(続く)
@ファッションの原理

 衣服は、いつの間にか与えられるものとなってしまった。「衣食住」の概念(それは「衣服」が根本的に人間生活にとって必要不可欠物であることを示唆する)は、現代にこれほどまでに多岐にわたった様々な差異から成るファッションの世界を語り尽くせるだろうか? 答えは否である。文化記号論が指すように、商品としての衣服は浮遊する記号として機能する。そして私たち消費者は記号を消費しているのだ。例えばほとんど身に付けているとは言い難いファッションをどう理解すべきなのだろうか。

 記号は偶然性の所与として機能する。つまり、衣服は、他の人みんなが着ているから、そして自分も着させられているから・・・という風にだ。第一段階として、衣服は私たちの外部である。それは外からやってくる。とってつけたような生来説が適当な正統化理由として存立し、私たちは記号の消費に戯れる。

 ここで、『抵抗の快楽』等の著者・フィスクの説を取り上げるならば、それは多分に消費社会の原理には、消費への欲望と消費そのものに内在する抵抗的要素とが入り交じっているということである。

 人はやがて理解するであろう。そもそも、この衣服が、絶対的に必要不可欠なものとする理由は、何も無いことに。
 私たちは、二段階目に至って、抵抗への序章として、衣服を剥ぎ取る。それはもっぱら抽象的な意味合いにおいてである。私たちは自分そのものの起源、オリジナルティを探求する過程において、記号たる衣服が果たす役割をゼロにする。少なくとも、ゼロを目指す。

 ファッションは、真にこの第二段階からはじまる。つまり、真の意味で、自分と衣服との関係を問うのである。私たちは、ひつ当然的に、いわば内から要請される衣服を、探し求め、自分とともに構築する。それは自分への新たなる見直しといったいである。このとき、衣服は自己の一部として、新たなる自己の一部として生成変化を遂げるであろう。

 ファッションとは、衣服を着る自分とは何かと根源的に問い直すことでもある。そしてその問い直しは、積極的実践として、生涯を通じて行われるものになるだろう。だからといって常成る差異の内に戯れる訳でもないということはお分かりだろう。ファッションはいつも一つの自己への批評である。

(了)
 





 学生時代、ホッブズが動乱の社会の中で主著「リヴァイアサン」などを書かざるを得なかったことを紛争管理論の教授から力説されたことを思い出す。

コンフリクト(争い、紛争)を最小限にすること―。ホッブズの社会契約論の目的は、そこにあったと、私は考える。
 前国家的な戦争状態には、おそらく生命の奪い合い、すなわち殺し合いや、財産の奪い合いといった事態がメインで考えられていたと思うが、この”戦争状態”は究極的には、絶えざるコンフリクトの発生を指すものと考えられる。

 生命の奪い合い、財産の奪い合い、人間社会におけるコンフリクトの内的原因は、人間関係の不調和である。人間社会はおよそあらゆるコミュニケーションから成り立つ。ディスコミュニケーションがコンフリクトの内的原因となる。
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