生と死ではない。死と生である。あるいは、生の中に死が含まれている。
大切なのは、よしもとばななは必ず「生」を肯定する作家だということである。生の中に死が含まれている、「だからこそ」彼女は生の世界に開かれたあらゆる輝かしいものの空気を胸いっぱいに抱く。
最新エッセイ『すばらしい日々』では主に、「老いていく人」、「死んでいく人」が語られる。それと同時に、よしもと氏の若かりし頃から子供を持つ大人へと至る、「なりつつbecoming」あるいは変化が挿入される。しかしこれは端に、「老い」について書きました、「死」について書きました、というものではない。人が変化すること、生命がその姿を変えつつあること。それらの喜びと悲しみ、途方もない感情を素朴な語りで描写していく。
本書では、よしもと氏の短い文章に、一つ一つ綺麗な写真が付される。構成上の装飾か、と思って最後まで読み進めると、それらについての理由が明かされる(それについては後に書く)。
印象的なパッセージの中から一つ引用してみよう。
…人がいちばん恐れているのはきっとあの夜が来ることなんだと思う。だからみな宗教にすがったり、お祈りしたり、健康診断に行ったりするんだろう。
さっきまで、昨日までなんでもなかったのに、病気が、事故が、突然に生活の全てを終えてしまう。
まるで楽しいことをしている間は、こわいことに目をつぶっていなくてはいけないと思っているかのように、私たちは生きている。(『すばらしい日々』pp100-1)…
「あの夜」とは、象徴的にいえば、(家族やもしかしたら私自身の)「病気」や、震災や台風、自動車衝突などの「事故」がやってきてしまう、そのことである。哲学者のドゥルーズはこういったものを「出来事」と呼ぶ。私たちの思考(…には備えておこう、~に準備しておこう)とは何の関係もない所で断絶的に起こる出来事。
出来事はいつも常に事後的にやってくる。私たちはだから、それが「起こってしまった」あとしか目にできない、理解できない。突然の老いや死は、いつもそんな形で私たちの前に姿をあっけもなく表す。
だから、私たちはそれのあまりの唐突さと怖さ(暴力、とも言い換えられるだろう―)に蓋をするかのように、宗教に入ってみたり、あるいはそうでなくとも健康診断に神経症的にすがってみたりする。そこでは宗教も健康診断も違いはないのだ。出来事のあまりの恐ろしさに、弱い人間はそれ自体でたちうちできない。
そうした弱い人間である私たちは、「出来事」に、どうやって構えていれば良いのだろうか。よしもとばななは、最終章の「歳を取る」で、じつに驚異的なまでに圧倒的なパッセージを連ねていく。長くなるが引用しよう。
…この本の中には淋しい話題が多かったから、きらきらした写真を撮ってほしかった。きらきらして、地に足がついていて、この世の美しさを祝福するような写真を。ちほちゃんはその期待の全てを理解し、すばらしい写真をいっぱい撮ってくれた。全部の写真を振り返ると、ここ数年の、いろんなことがあったふたりの思い出もみんなつまっていて、胸がいっぱいになった。
最後にはいっしょに九州に撮影の旅に行き、由布岳を望むでっかい露天風呂に大の字になってつかったり、いっしょに道に迷いながら山奥の秘湯に行って、私の家族とみんなで湯上りに涼しい風に吹かれたりした。最終日には高速を飛ばして大都会博多に降り立ち、中洲の屋台街のイケメンたちを眺めたり、まだ陽がある夕暮れの明るい川に映るネオンを見たり、鉄鍋餃子を食べに行ったりした。(中略)
どれもが思い出深い幸せな時間だった。(『すばらしい日々』pp111)…
終わりは、出来事は、変化は、いつやってくるか分からない。やってきたときには、もう時すでに遅しだ。だから私たちがそれでもできることといえば、そういった死や変化のことを正面から捉え、そして目の前にある小さな幸せを存分に引き伸ばすことだ。それだけで、日々はこんなにも素敵なものになる。輝かしい、びっくりするくらいに生命力と感動に溢れたものになる。
装飾でしかないと思っていた本書の数々の写真がばなな氏の友達(でもあるフォトグラファー)が、氏のそんな意向を理解しつつ作品に綴じたと分かったとき、写真のあまりのまばゆさに私は大泣きしてしまった。あまりにも綺麗すぎるのだ。そして切ない。
死を想い、それでも残された生を存分に引き受ける―それはこんなにもたくましいことなのだ。
最後に。『すばらしい日々』の表紙となっているのは、父の吉本隆明氏の血糊のついた手帳である。父・吉本隆明氏の家族としての姿の描写としても、本書は大きなものを提示しているだろう。
(了)
大切なのは、よしもとばななは必ず「生」を肯定する作家だということである。生の中に死が含まれている、「だからこそ」彼女は生の世界に開かれたあらゆる輝かしいものの空気を胸いっぱいに抱く。
最新エッセイ『すばらしい日々』では主に、「老いていく人」、「死んでいく人」が語られる。それと同時に、よしもと氏の若かりし頃から子供を持つ大人へと至る、「なりつつbecoming」あるいは変化が挿入される。しかしこれは端に、「老い」について書きました、「死」について書きました、というものではない。人が変化すること、生命がその姿を変えつつあること。それらの喜びと悲しみ、途方もない感情を素朴な語りで描写していく。
本書では、よしもと氏の短い文章に、一つ一つ綺麗な写真が付される。構成上の装飾か、と思って最後まで読み進めると、それらについての理由が明かされる(それについては後に書く)。
印象的なパッセージの中から一つ引用してみよう。
…人がいちばん恐れているのはきっとあの夜が来ることなんだと思う。だからみな宗教にすがったり、お祈りしたり、健康診断に行ったりするんだろう。
さっきまで、昨日までなんでもなかったのに、病気が、事故が、突然に生活の全てを終えてしまう。
まるで楽しいことをしている間は、こわいことに目をつぶっていなくてはいけないと思っているかのように、私たちは生きている。(『すばらしい日々』pp100-1)…
「あの夜」とは、象徴的にいえば、(家族やもしかしたら私自身の)「病気」や、震災や台風、自動車衝突などの「事故」がやってきてしまう、そのことである。哲学者のドゥルーズはこういったものを「出来事」と呼ぶ。私たちの思考(…には備えておこう、~に準備しておこう)とは何の関係もない所で断絶的に起こる出来事。
出来事はいつも常に事後的にやってくる。私たちはだから、それが「起こってしまった」あとしか目にできない、理解できない。突然の老いや死は、いつもそんな形で私たちの前に姿をあっけもなく表す。
だから、私たちはそれのあまりの唐突さと怖さ(暴力、とも言い換えられるだろう―)に蓋をするかのように、宗教に入ってみたり、あるいはそうでなくとも健康診断に神経症的にすがってみたりする。そこでは宗教も健康診断も違いはないのだ。出来事のあまりの恐ろしさに、弱い人間はそれ自体でたちうちできない。
そうした弱い人間である私たちは、「出来事」に、どうやって構えていれば良いのだろうか。よしもとばななは、最終章の「歳を取る」で、じつに驚異的なまでに圧倒的なパッセージを連ねていく。長くなるが引用しよう。
…この本の中には淋しい話題が多かったから、きらきらした写真を撮ってほしかった。きらきらして、地に足がついていて、この世の美しさを祝福するような写真を。ちほちゃんはその期待の全てを理解し、すばらしい写真をいっぱい撮ってくれた。全部の写真を振り返ると、ここ数年の、いろんなことがあったふたりの思い出もみんなつまっていて、胸がいっぱいになった。
最後にはいっしょに九州に撮影の旅に行き、由布岳を望むでっかい露天風呂に大の字になってつかったり、いっしょに道に迷いながら山奥の秘湯に行って、私の家族とみんなで湯上りに涼しい風に吹かれたりした。最終日には高速を飛ばして大都会博多に降り立ち、中洲の屋台街のイケメンたちを眺めたり、まだ陽がある夕暮れの明るい川に映るネオンを見たり、鉄鍋餃子を食べに行ったりした。(中略)
どれもが思い出深い幸せな時間だった。(『すばらしい日々』pp111)…
終わりは、出来事は、変化は、いつやってくるか分からない。やってきたときには、もう時すでに遅しだ。だから私たちがそれでもできることといえば、そういった死や変化のことを正面から捉え、そして目の前にある小さな幸せを存分に引き伸ばすことだ。それだけで、日々はこんなにも素敵なものになる。輝かしい、びっくりするくらいに生命力と感動に溢れたものになる。
装飾でしかないと思っていた本書の数々の写真がばなな氏の友達(でもあるフォトグラファー)が、氏のそんな意向を理解しつつ作品に綴じたと分かったとき、写真のあまりのまばゆさに私は大泣きしてしまった。あまりにも綺麗すぎるのだ。そして切ない。
死を想い、それでも残された生を存分に引き受ける―それはこんなにもたくましいことなのだ。
最後に。『すばらしい日々』の表紙となっているのは、父の吉本隆明氏の血糊のついた手帳である。父・吉本隆明氏の家族としての姿の描写としても、本書は大きなものを提示しているだろう。
(了)
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