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教育と労働

 労働に関する問題を批判的に考えようとする際、「教育」というテーマをそこに挿入するのはとても面白いように思われる。

 日本の教育制度では、(幼稚園)ー小学校ー中学校ー(高校)ー(大学その他)

このかっこで囲まれていない、小学校並びに中学校における9年間の義務教育制度がある。日本人はみな、子供の時は最低9年間は教育制度の下におかれなければならないということだ。

 また、同時に、未成年の原則労働禁止、禁止まではいかずとも成人と比した場合の制限がある。

教育と労働は、いちおう別問題である。この別領域の二つを同時に「教育と労働」として扱った法令を私は今この場では思いつかないが、
 試しにこの論考では”労働に抗する教育”という概念を打ち立てて、もって労働への批判的考察を導いてみたい。

労働に抗するとはどういうことか。教育はもちろん、子供が大人になるための知識、経験その他諸々のハウトゥを得るものとして想定されている。



(ここで、ミシェル・フーコーの規律権力論を改めて絡めたくもなるが、いまはやめておこう。)

それでは、未成年、ないし子供はなぜ前述のように、労働することに大きな制約が課せられているのだろうか?

 一つは、人権問題である。すなわち、子供を働かせることは、歴史的に鑑みても、人が主体的に自分の人生を選び幸福に向けて前進することの大きな足かせになる。
 児童の酷使、それは理念レヴェルにおいて人権(特に自由権、生命権、幸福追求権)尊重(立憲主義的憲法の究極価値!) の観点から、許されるものではないのである。


 しかし、現実問題として―この言葉の曖昧さは今は置くとして―、憲法その他の法規範によって禁止されているからといって、子供の目の前にたくさんの「時間」があればどうなのか。

 説明を要するまでもなく、資本主義は、ありとあらゆる存在と時間を資本の蓄積のために蝕もうとするから、子供の時間はたちまち奪われようとしてしまう。

 そこに、はじめて、教育が姿をのぞかせる。 教育は、まがりなりにも、宛名を普遍的人間と称して、人生の意味、主体的に生きること、自由の価値、諸々をわたしたちの魂に吹き込む。

 そこには時間が費やされる。 人は、同じ時間を別の領域にまたがって使用することはできない(教育もきちんと受けながら労働も必死に同じ時間内にやることは実現不可能)。

 労働は、法規範による禁止と、教育による時間の使用、この2つによって、児童の手からはじめて取り払われるようになったのだ。

 ここには、じゅうぶんに、労働を差止めようとする教育の姿があらわれている。
もちろん、人は教育を終えたあとで、またどっぷりと労働の世界に参入してもいいのだ。資本主義の世界では、働くことなくして生きることはできない。

しかし、教育をしっかり終えた人は、先ほどの、労働にストップをかけられるほどの、それが喩え教育という制度を取らずしても、”自ずと”、時には自らが望んで労働を相対化させることができることに気づくだろう。 労働は、絶対ではなかったのだ。資本主義は絶対ではなかったのだ。


 ふつう、世間の人は、教育とは算数や国語のかったるい長文読みをするものだ、と思っている。
確かに算数や数学は、掛け算ができなければ分数が理解できない、分数ができなければ関数に取り組めないなど、積立方式になっているから、そのように理解を積み立てたところで結局これを学んで何になる? という疑惑にはかられると思う。
 言ってしまえば、最後に出てくる微分積分など、理解できなくとも、人は十分に主体的な人生だって送ることができる。

 例えば、掃除の仕方や、掃除の当番を決めること、およびその必要性については、学校教育もそうだが、家庭の場面でも十分に教えることができるものである。
 こういった、社会参入のための基礎準備を、第一の教育と呼ぶならば、

さきほど私が語った、自由の価値や主体的な生き方などを教わることは、第二の教育なのである。

 極限を言えば、第一の教育は、いくらでも取り返しがきくから、学校教育において最終目標とされるべきでない。
 そうではなくて、第二の教育こそが、本当に学ばれなくてはならないものなのである。


なぜか。 人生は短い。 そして、成人してしまえば、あとは労働の世界が相当にも待っている。

教育20年、労働40年~60年。

 民間の規制緩和をどんどんすすめるアベノミクス時代は、いや日本社会は、未成年の労働を推進していく方向に傾いていくと思われる。資本主義は存在と時間をなんでも食い物にするからだ。

「働くことって、なんなんだろう。」

 これを、労働の場でなく、教育の場において問うことが、真に求められている。人の生き方は、結局そこに全てかかっていると私は思うのだ。

(了)
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