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理論と実践―理論を提供する学問について(学問と社会 第一回)


*理論を欠いた実践

 「理論と実践」にまつわるテーマから話を始めよう。
例えば、現代社会では飲酒運転をなくそうとする社会の動きがある。この動きはしばしば、過激なほどの熱をもって文字や声を通して表面上にあらわれる。

また、そこにはしばしば飲酒運転という減少を原因ー結果の二元論の思考枠組みを使って、しかも個人個人の疎かな判断が具体的な事件を引き起こす、といった説明を前提としているように見受けられる。



 もちろん、現実の社会現象は単一の原因には帰せられないほど複雑であり、飲酒運転の発生がもっぱら個人の心理的責任性のみによって説明することには明らかに無理がある。


 私はそこに、社会の二重の悪性、すなわち(1)社会の制度や構造自体が飲酒運転が起こっても仕方ないような作りになっているということ、なのに(2)自らは客観・中立の立場をとることによって<当事者>のフィールドから姿を隠し、もっぱら責任の配分の問題を個人に差し向けやすいようにする、自分は知らんふりをして―といったものを見る。もちろん私は社会構造だけが悪いのであって、個人に全く問題がないと言いたいわけではない。おそらく問題は両者にまたがっているのだが、社会構造が自身の悪性を消去し相手方のわれわれ「個人」の側にのみ問題を生じさせてるように演じることのあくどい問題性を主張したいわけである。

 ともかくも、昨今の飲酒運転反対運動を鑑みるに、私はそこに、「個人の心理的要因に物事の発端をみるという安易な考え」が蔓延していることを認めざるを得ない。

 私なら、まず(自動車の)運転自体の危険性から論じようとするだろう(興味があれば、前出の『自転車は危険か?』の記事をお読みいただきたい)。 しかし、現状だけをみると、社会構造の変革までを目指した運動意識や、主張はあまり見受けられないように感じる。
 もっといえば、過去に大切な人を事故で亡くしてしまった方々が私怨を共的なもののフィールドにあげたいと欲望し、それだけが過剰に演出されてしまって、物事の本質、すなわち社会自体への変革といったものはむしろ阻まれているのではないか。

 もしこのような私の主張に一定程度の妥当性が存在するのならば、それはすなわち、危険運転防止運動に関して、「十分な理論」を欠いた「実践」=運動 のみが行われているからだ、と私は思考する。

 × 理論 ○ 実践

 理論と実践は、後にたびたび論ずるかもしれないが、お互いが十分に練られて、真の効果を発揮する。 理論を重視して実践を軽視しても、いい結果は生まれない。


 私は、現代の社会に、理論の基盤を失った、過剰な実践の舞い、といったものを見る。


 *理論それ自体の細分化

 
話はいったん学問内部の話になる。
私の記述の間違いがあるかもしれないが、例えば、現代政治学の領域においては、60-80年代にかけて行動主義といった一連の流派が台頭した。
 行動主義的政治学については細かな説明を要するが、要するに大切なポイントは、政治学のそれまで主流であった政治哲学や民主主義理論などを含む古典政治学を批判し、より「科学カガク」の名にふさわしい実証的にも優れた学問にしていこう、としたのが行動主義である。

 これは、前節の言葉を用いていえば、理論に偏るよりも、社会上の実践にも広く開かれている学問にしていこうとゆう流れである。

 その点を踏まえれば、いまここ最近の現代政治学において、何が叫ばれているかも予想がつくだろう。行動主義的政治学への批判は、それがあまりに実証的・リアル科学的すぎる、とするものである。いわば、古典政治学の、再評価が浮き上がってくるのである。
 おそらく、今から以降の現代政治学は、理論政治学と実践政治学(そのような呼び方が許されるのならば)の、うまい架け橋を探すことになるだろう。 政治哲学的にうまい理論を提示し、かつ実践上において統計や記述をうまく使って世の中のあらゆる政治現象を説明していこうとする、一つの理想が生まれるわけだ。


 しかし、私がいまさりげなく理論政治学という言葉を用いたように、この「理論○○学」という用語は、何も政治学だけに限ったことではない。実際に、社会学に「理論社会学」というカテゴリがある。その内実はかなり難しいのだが、基本的には私がいま述べたような、理論/実践のうちの「理論」を専門的に取り出し考察を高めていくものである。

 ご存知かもしれないが、社会学は山ほどカテゴリがある。環境社会学、家族社会学、文化社会学、福祉社会学…。 論者の数だけいてもおかしくはない。その中に、理論社会学は存在する。

 「理論/実践」

この2つの区分なのにもかかわらず、である。 それほど、実践を目指した態勢が、社会学の内部でも起こっているということだろうか? 
 一つ言えるのは、実践の要請が、ここ学問の内部においても非常に強く要請され、理論も大切にしようという動きは、学問の細分化の流れの中にはめこまれて、ほかと同様一つの枠しかもたない、といった扱いを受けているということである。

 これは、次の学問と科学、というテーマにもそのままつながる。

(第一回 了)

 次回 続き ドゥルーズ=フーコーの、理論と実践は同じ、とはどういうことか?
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