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 アイドル哲学序説
・はじめに オタク的主体?
 アイドルの現場――専用劇場からドームコンサート、握手会といったイベントまで――ではいったい何が起こっているか。それを本稿は現象学的に読み解こうとするものである。その際、二つの主体が問題となってくる。一つはアイドルの主体(アイドル的主体)、もう一つはオタク・ファンの主体である。本稿での議論の半分をアイドル的主体にあてるものとして、ここでは簡単に後者のオタク的主体について触れておく。
 そもそも、オタク的主体という言葉が成り立つのか。すなわち、オタクに主体性はあり得るのか。彼らは極めて欲望に従って、各々の利害関心の及ぶところだけで動いているように思われる。好きなメンバー、好きなグループしか応援しないし、お金を落とさない。逆に、大好きなメンバーには握手会などで何回も回るという「ループ」現象が広くアイドル現場において見られることが、オタクの動物的欲望(※1)といったものを裏付けている。
 だいたい、近年のアイドルは、「恋愛禁止」が掲げられている(AKB48が象徴的であった)。この恋愛禁止制度とでもいうものは、アイドルのみならずファンたちに大きく影響する。アイドルの個々のメンバーとファンが「付き合ってはならない」という当たり前のことを殊更大きく「再表象」することで、ファン=オタクたちは精神分析用語でいうところの「去勢」をうけるかのように見える。ここに、オタクたちのアイドル現場での様態が分極化するのである。ひとつは、去勢されたことで、生々しい性の空間を離脱し「マイルド」な恋とでもいった状態を生きること。オタクとアイドルの関係は生々しい性関係を抜きにした、純粋――?――な愛の空間を構成する。しかしもう一つには、禁止されたことでかえって抑圧された欲動を回帰させ、倍以上に噴出せしめるといったオタクからの視線――アイドルからの視線も理論上はある――が発生するのである。オタクはここに二重の視線を絡ませることになる。オタクはアイドル(メンバー)を脱性的なものして見ながら、かつ倍加された性的欲望のまなざしでも見つめるのである。
 そもそも、現象としてのアイドル――それはアイドル、ファン、そして運営といったアクターから成り立つ――は極めて性的なことがらである。オタクが脱性的なものとしてしかアイドルを見ない、ということは以上の理論からしてもあり得ない。しかし、私たちは後に見るように、アイドルたちの主体化の進行を目の当たりにすることで、かえってオタクたちの(主体的)変化をも観察することになる。

[1] 「欲望」や「欲求」という言葉の使い方については、東浩紀の『動物化するポストモダン』最終章が参考になる。


misty
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