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(哲学的断片 8/31)

・他者への共感=理解の諸形態


他者を共感=理解することにおいて、第一の形態、推測によるものがある。推論ではない。「おそらく~であろう」という心情の記述を採ることが多い。
 この第一の形態は、一言でいって、その姿が曖昧である。というのも、後に述べるように、真の共感=理解の見せかけというかたちをとることがある。 第一の形態は、普遍的であり、大衆的ですらある。

第二の形態は、もっぱらこれを把握することが重要であるのだが、自己による理解の二重化、理解の波及とでもいうようなものである。自己の内において経験をし、その深みをする。

 私の考えでは、自己の哲学は、今までの西洋哲学の含蓄のなかである程度の完成をみていると思われるので、自己理解の詳細なパラフレーズは省く。しかし、この深化した自己理解が、他者の出現=発生のきっかけを与えることについては、更なる探求が必要であると考えられる。
 ともかく、第二の形態においては、それは見かけ上は自己ーのー内における、自己ーのー内の理解にすぎないのだが、他者と「根の芽」を発するような何かがある。「これはこういうことだったのかもしれない」という心情がなされるであろう。

 第三の形態、これが真の他者への理解=共感の姿である。それは、前述のように、見かけは第一の形態、すなわち推測によるもの、のかたちをとる。しかし、それは圧倒的に他者を包み込み、やがては世界=理解にも至るような、圧倒的理解である。

 以上のすべての形態は、観察、経験可能なものであり、分かっていることだけを記述したにすぎない。
そこで各々の形態がどのように関係しているかについて考察するに、やはりそれは第一の形態と第二の形態との綜合によって、第三の形態が得られるように思われる。
 真なる理解=共感への道のりを、だから、段階的、ステップとして捉えることも可能であるように思われる。

以上
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日本のロックバンド、THE NOVEMBERS。

この記事はもっぱら主観的になることをお許しいただきたい。
ノーヴェンバーズは前から大のお気に入りだったのだが、最近、僕の中では、このバンドこそ今の日本ロックの頂点だと強く感じるようになった。

対比として出したいのが、ミッシェル・ガン・エレファントだ。
TMGEの影響力は、国内にとどまるものの、誰も否定できないのではなかろうか。彼らの登場、活躍、そして華麗すぎるさり方、その挙動の全てに、魅了されたファンは多いはずだ。

それだけではない。ミッシェルの登場は、一バンドが活躍していたという事柄を超えるものがあった。
それは皮肉にも、彼らの解散後、ミッシェルが神格化されていくということに証拠を見出す。
遡及的な視点においては、彼らは神そのものであった。 というか、あれほどまでに独自のスタイルをもって音楽を表現したバンドは、ついぞほかに類を見ない。

THE NOVEMBERSは、私の中で、いまそういったミッシェルと、似た立場にある。

一つは彼らの天性だ。ノーヴェンバーズのフロントマン・小林祐介がかく歌、それをアレンジするバンド音は、百歩譲っても、非常に複雑な構造であることが多い。
 彼らが初期の頃から一貫して使っている変拍子。しかもそれらは毎回新作を出すごとに進化をしている。
ギターの掛け合いもまた、このバンドサウンドの魅力の一つになっている。音の重なりを大変重視している様子が伺える。

難しいことの中に、バンドのグルーヴを出したり、キメを作ったりと、ライヴバンドとしての大事なこともやってのける。
天性に加えて、それをきっちりやってのけるという真摯さが、彼らを唯一無二のものにしている。

思えば、ミッシェルの曲はノーヴェンバーズのそれと比べると、曲の構造が複雑とか、そういうことはない。
しかし、あそこまでキリキリにダウナーで漢気のある表現にたどり着いていることを勘案すると、それはもう彼らの天性によるものでしかないと結論づけることがせいぜいだ。

それから彼らは、ともに新作を出すごとに深化、変容をとげているという点でも共通をしている。

ミッシェルについては、初期のポップで若さが前面に押し出された感じの曲調から、中期でミッシェルの代表期を作り上げ、後期ではガレージ・ロックを超えて音楽的な挑戦に挑むという語りが一般的である。

 ノーヴェンバーズはまだフルアルバムもミッシェルほどは多くないのだが、一つ、小林祐介自身が示した彼らの作品の区別が参考になる。

「THE NOVEMBERS」「picnic」 /「paraphilia」「Misstopia」/「To melt Into」「Two (holy)」/「GIFT」「Fourth Wall」

現時点でのノーヴェンバーズの作品区別は、今まで出されてきたミニアルバム・フルアルバムを、2作品ごとにわけているということになる。

私見では、To Melt Intoを特にミストピアの時期の作品と区別する必要はないと思うので、ここでは彼らがpicnicを初期の作品としていることに注目しよう。

picnicは彼らのアルバムの中でも人気が高い作品だが、それにはもちろんそれなりの理由がある。このアルバムは、すでに完成度が高すぎるのだ。当時彼らが持っていた技術や表現能力を、余すところなく発揮して作ったのがこのアルバム、であると思う。

それは裏を返せば、ノーヴェンバーズは「picnic」を超える作品を創り出すことができるのか? という問いが要求されることにもなる。しかし、彼らはその問いをいとも簡単に回避してみせた。 というか、次作のparafhiliaで、彼らはそれまでの既存のノウハウを使いながらも、ほとんど違う、別の表現の道へと至ったのである。

そしてその進化、変容は、現在のところの新作である「Forth Wall」にいたっても、ずっと続いている。彼らの作品はまったく予想できないのだ。それなのに、いつの間にか彼らの新しい世界観に強烈な感動をおぼえていることになる。つくづく不思議なバンドである。

類を見ない天性をもっていること、その使用をきっちりこなしていること、それから音の追求に貪欲でありバンドの進化、変容を考えていること。 これらは、別に必要条件なわけではない。

しかし、00年代のミッシェル・ガン・エレファントと、10年代のノーヴェンヴバーズを比較してみたとき、それらの点が共通点として浮かび上がってくるというのはなかなか面白い事である。

ミッシェルは、アベ氏の痛ましい死により、物理的にサウンドが現動化することはないが、ノーヴェンバーズはこれからも生き続ける。

(了)
 






@本を読むこと、文章を書くこと

 (本記事はエッセイなので、記述がやや適当です。)

 本を読むということが、ヨリ精神的なものに比重をおいた行為なのか、それとも身体的なものに比重をおいたものなのかという問いがあったとすれば、今の私は確実に後者を選ぶ。

 文章は、当然目でおっている。本を読むのは目の動きである。 たしかに、黙読というように、心の中で字句を反芻する。それはかなり精神的な行いのようにも思える。
 心の中で、字句を反芻するときは、シックリ感じていない時だ。難解な時とか、じっくり味わいたい時とか。
しかし、それ以外の場合は、文章はすっと、まさに自然に入ってくる。このとき、果たして言語は精神を経由するのだろうか?

私は日本人で日本語を母語として生きてきたから、日本語の作品を読むのに苦労はしない。そして、文章がすっと頭に入ってるなと感じている時のことを思うと、これはもう言語がダイレクトに身体に浸透しているのだと思うのだ。
言葉を浴びる、という表現があるが、まさにそれだ。

黙読と、ある意味での速読はそのような点において区別されるのだろう。つまり、黙読は精神を経由させる、速読は身体のみに関わってくる。
 物理的重みを持たない字句などというものがどうやって物体たるカラダに影響を及ぼすのか、と、物理=客観主義的科学は異を唱えるだろう。

 しかし、哲学を学ぶものとして主張するならば、速読とは優れて身体的行為であり、読む行為は身体に影響を与えるからこそいいのである。私たちは、いい本に出会ったとき、実にスピーディーに駆け抜け、文字通り体を震わせる。涙する。

 精神の存在を否定しているわけでない。精神というカテゴリは確実に存在するであろう。しかし、読む行為というのは現代の私たちが思う以上に、優れて物理的=身体的な行為なのだと思う。

こう私が力説するのは、(人間の)身体はまだまだ解明されていない、だから希望にも絶望にもつながるパワーを備えているからである。 奴隷のように扱われたら、人の体は本当に奴隷そのものになってしまう(爪はボロボロ、体はガタガタ)し、そこからの脱却を図るためには、祈りでなく、そう、精神的作用たる祈りでなく、身体的作用を伴った<祈り=革命>なのだ。

 それと、説明がとても面倒なのだけれども、精神をやや否定的に記述するのは、精神については哲学者は実に3000年もの間考え続けてきたのに、今となって<精神の哲学>はフーコーやドゥルーズらの現代思想によって終わりの鉄槌をくらっているからである。さしあたりヘーゲルの『精神現象学』やフッサールの著作を研究すればまた違うのかもしれないが、とにかく私の所感では、人間の精神だけをとりあげて人間社会の希望を考えるのは困難を極めているということ。

と、書きながら気づいたのだが、どうも黙読と速読は、本当に大変に違った行為だ。そして私たちは、何の苦もなく、それらを混合させて読書を行っていたりする。

ただ速読のみが、流行りの受験産業に専ら吹聴されているのもどうかなとは思う。しかし、速読は確かに何か驚異的な力をもっているのだろう。それを受験以外でどう使うのかが本当は問われるべきであるのに。
 スピードラーニングという言葉が流行る前から、人は黙読と速読を混合させ、有意な読書をしてきたに違いない。 佐々木中が『切り取れ、あの祈る手を』で力説していたように、本を読むということは、実に恐ろしいことなのだ。

 本が読めない、といっている人たちは、たぶん読書をもっぱら黙読、つまり精神的作用のみにかかわるものだと思っているのではないだろうか。 読書は身体的作用にも関わる。例えば、視野が広ければ広いほど、文字を読み取る能力、把握する能力は確実にあがるからである。

とまぁつらつらと書いたけど、このへんで。

(了)





 ジュデイス・バトラー「自分自身を説明すること」を借りて読んでいるのですが、面白い。というより、読みやすい。

 フーコーの、主体化=従属化というテーゼを理解しておくと、バトラーのこの書物の議論はそれと共同戦線を張っているので、分かりやすいと思います。いっけん、なにものかに従属することによって、主体となるというのは、逆説ですからね。その過程を、フーコーなら規律権力論で示すだろうし、バトラーなら”呼びかけと呼びかけられ”という図式で示すだろうし、さらにこのあたりの現代思想を優れてまとめた佐藤さんなら「権力の内面化」として説明する、それらを理解することが大事かと思われます。

 しかし、第二章でバトラーはレヴィナスをたくさん引き合いに出し、新たな”責任”、しかも”他人との関係においての”といった、誤解を引き受けるような?、方向へ記述を進める。僕も、まだ十分には分かっていない。

 レヴィナスを読んだことが無いので、彼はどちらかというと暗くて、こう受動性の中にある人間、てきな暗い考えなのかなーと思っていたので、バトラーのレヴィナス引用は驚きでした。
 第三章で、「責任=応答可能性」について長々と論じられるので、「自分自身を説明すること」の読書はこれからいよいよ佳境に入っていきそうです。

 
 さて、今後の勉強の方向性として、ちょっと思いついたのがあります。
というのは、どうせ僕はドウルーズを勉強するのだから、直球で入っていくというより、他の思想家を並行して勉強するのがいいかなと。

アルチュセールか、デカルト、あるいはカントはどうだろうか、と考え中。
 デカルト、カントは現代思想との絡みだからやり尽くされている感じがはんぱないけど、アルチュセールは僕に取っては新鮮。
「再生産のために」はむずかしそうだから、まず概説書で掴んでから、みたいな順序も立てれるし。

 今、アルチュセール論を2冊くらい借りています。

 デカルト、カントは、新しい読み方をできたらと思って、「方法序説」、それから「永遠平和のために」を買おうかなと検討中。


それから、フェミニズム研究は、まだ基礎理論のレヴェルです。 バトラーも入ってくるけど、タイムリーには上野千鶴子氏の「ナショナリズムとジェンダー」を借りています。

 フェミニズム/ジェンダー論は、国内ではいっぱい高いレヴェルの論文集が読めるようになっているし、様々な分野にも発展しているから、勉強のためにも非常に貴重な分野。

まあ、そんな感じか。
 アルチュセールやデカルトやジェンダー論で、新しい読み方が出来るようになったら、いいかな。

以上ー


と題しましてどうもみすてぃです。

はー眠い。

最近、勉強がちょっとだけ熱心になってますw

方向づけをあまり意識的にしないのですが、最近はどうやら

(1)資本主義研究

(2)ドゥルーズ研究

(3)抵抗としての身体論研究

(3)文学研究(批評研究)

(4)おもしろい本を読む

の4つに分かれているような、、、

(1)は、執筆も結構いい状態で進んでいます。 いかんせんテーマが広い!のですが、今のところ動機付けとか、方法とか、対象の限定とか、それなりにうまくいってるかもしれません。

とりわけ面白いのが(2)です。 ドゥルーズ自体の著作はちょっと前に「批評と臨床」を読了しました。
僕が今頑張りたいのが、『差異と反復』の読解(もう読むの5回目ww)、それからヒュームとスピノザの理解。

ヒュームは「ヒュームの一般的観点」という本を読み始めました。
 スピノザは、なんか苦手なのですが、やっぱり途中までだった國分さんの「スピノザの方法」読むか・・・。


あ、ドゥルーズに関しては、今年は日本のドゥルージアンたちがバンバン本出すので嬉しい限りです。


(3)は、資本主義研究の次を見据えての行動です。
(4)は今マラルメ論読んでます。
(5)は、メルヴィルの「白鯨」と、ヴァージニアウルフを検討してます。

あー、大変で、幸せだなぁ。笑

それでは。
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