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皆が、私の元を、私たちのもとを、通り過ぎていく。

通り過ぎる。pass by. passとは歩む、通る、通過する、パスする。 byで・・・寄りの、~に従って。

 中心には重ならない、なぜなら皆は私ではないからだ。私は他者ではない。

そして、他者は痕跡を残す。 痕跡、その意味。 痕跡の意味だけが残る。 私たちはその意味を持て余し、あるいは考え、解決し、解決されたということは、自己を確実に深化させることにつながる。

他者は痕跡を残すもの、と定義されないだろうか。

そして私たちもまた、他者を通り過ぎ、痕跡を残すものである。

痕跡とは何か。自己ではないが、デリダの概念を先取りすると、自己の散種? あるいは自己であったものかもしれないが、もうコミュニケーションに扮されるものとしての自己の部分。”私ガツタエタイコト””私ガノコシタイコト”。

真の意味で、自己と他者が深く交差するのは、この痕跡を通じてである。

(了)
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改めてレンタルして見た。本当に圧巻。

これは、なぜ当時、賛否両論だったのだろうか。 わかりにくいし、仰々しい。たしかに笑 でいだらぼっちは巨神兵と似ていて、その後のジブリもハウル、ゲド戦記と難解化していく方向すら見える。

 しかし、これ以上、つまり『もののけ姫』以上に、人間と自然をまつわるテーマを単純に描くことはできないのだ。もう、これが、ありとあらゆる歴史、そして残された私たちの未来の姿といっても、ほとんど過言ではない。

サンが、「おしまいだ。森はもう死んでしまった。」と言って、アシタカが「終わりじゃない。私たちは生きているのだから」という時、彼の瞳のなんと澄んでいることか、その言葉の強さ。


 ししがみは、命そのものを操る。その意味で、生命を超えた、そして意味の次元も超えた、超―生命体である。

その超―生命体が残したラストシーン。 これこそが、『もののけ姫』の最終解答である。私たちは、自然に対置しているのでいない。いつでも、私たちは<生>の方向に生かされているのだ。最大限の生。そして自然は、どこまでいっても大地の母なのである。母が父と結託するとき、あるいは世界は破滅的になるが、私たちがあらゆる生と未来を望む限り、自然は、森は私たちを見捨てはしない。

 死神は、人間に対するアンチテーゼである。肥大化する”ヒューマニズム”。 死神もしょせん、否定に対する否定でしかないから、どこまでいっても否定の力を経由したヘーゲル的なものでしかない。

肯定せよ。生きろ。 アシタカは生きることに理由を求めない。

なぜなら、それが唯一の答えだから。 肯定するのだ、生を。自然を。人間を。

『もののけ姫』は優れた傑作である。

(了)
@日本での哲学

 私なんかが哲学の道を模索するときは、日本というキーワードを思い浮かべる。日本の哲学というと、人によって様々なものがあるのだろうが、私にとっては以下に述べるような文脈を指す。

 元来、哲学といえば、西洋哲学である。 それは基本的には古代以前からはじまり、ソクラテスプラトンアリストテレスの古代ギリシャ哲学、中世を経て、デカルトスピノザライプニッツといった近代哲学第一世代、カントヘーゲルマルクスの第二世代、ニーチェフロイトウィトゲンシュタインハイデガーフッサールなどなどといった第三世代、という基本的な哲学史観が作りあげられてきた。

 だいたい西洋哲学者の書物を見てみると、その精神は”体系”といった特徴でまとめることができると思う。一つの原理、本質を基礎として打ち立て、そこから個別のものまで詳細を追う、そうした”体系”が西洋哲学の精神には顕著だ。アリストテレス哲学などが代表で、それらはツリー状の構造をもっている。ツリー構造は西洋哲学から端を発している。

 東洋的なものとは、言ってしまえばおばあちゃんの知恵袋的な、それぞれはバラバラのように見えてある有機的なつながりをもっている、リゾーム型の構造をもっている。リゾーム型の構造は、東洋的なものから端を発している。

日本では、仏教がとても影響を及ぼしている、そしてその仏教はといえば、仏教の核心は、リゾーム型なのだ。それはなかなか一つの原理から体型だてて説明することが難しく、時には矛盾に陥っているような状況をもいっしょくたにまとめてしまうので、何世代にもわたって違った説明がなされてきた。にもかかわらず、それらはある何らかのまとまりをもっているのである。

 日本人の心には、日本なりの説明、概念が必要だと思う。 それは西洋哲学から端を発したツリー型の構造では説明しきれないはずだ。

 哲学は、確かに文明比較としての、西洋の思想を掴むという意味において、とても役割を果たしていると思う。

 しかし、自分たちの心、思想、精神を語るためには、また違った形での語り口が必要だと思う。
 というのは、いま、ありふれている文体、語り方は、ほとんど西洋由来だからだ。 文の書き方、主語述語目的語の置き方、考え方は、西洋由来のものが席巻してしまった。
 それらを一度に、もう一度日本由来のものに置きなおそうというのも大仰な話である。

だとすれば、使うのは、道具として使うのは、西洋の語り口(ツリー型)構造で良い。それで、東洋的なものを語るのだ。

 私の考えでは、それをやったことのある人は、日本の伝統的な哲学者といえる、西田幾多郎や九鬼周造だと思う。彼らは、日本に生まれる意味を考えながら、西洋の哲学を学んでいった。両方に優れていたのだ。
 西洋哲学を学んでいるだけでは、日本のことはわからない。同じように、日本由来のものに接しているだけでも、日本のことはわからない。

西田幾多郎や、九鬼周造がやったこと、やりたかったことの意義を再考しつつ、この辺境の地日本において見合った精神思想を語るということをしてみたい。

以上
一杯のコーヒーの哲学

 
 香りがたちこめる。暖かくて、どこまでの深みのあるそれ。冬のリヴィングは、だいぶ寒くて、空気がパリッとしている。やかんがキューと音を立てる。スイッチを止め、マグカップにお湯を注ぐ。コポコポコポ・・・・・・・。たちまちにコーヒーの匂いが私の鼻を誘い、少し眠たい朝を優しく出迎えてくれる。

 いろんなコーヒーがある。なるほど、それは確かに物質的には同じだろう。似たりよったりのコーヒーの豆があり、ちょっとの砂糖と、それからミルクがあれば、同じものができる。それは、化学的にはそうである。コーヒーの豆を変えてはどうか。確かに、豆を変えるとだいぶ味も違ってくるが、科学者たちは、それでもある種類についてのコーヒーならば、同じ味を何度も再現できると言い張るだろう。
 だがそれは本当だろうか。私は違うと思う。一杯のコーヒーの味は、注意してみると、その都度その都度だいぶ違う。なぜか。それは、その時のコーヒーを飲んだ自分の気分、目の前にあるモノ、直前にあった出来事、その日の天気、時間帯、周りの環境、などの要するに日々の記憶と、一体になっているからだ。
 私は、ここで強く主張してみたいと思う。コーヒーを飲むとはそれすなわち、その時その時の生きた瞬間を一緒に味わうことなのだ、と。

 ベルクソンという哲学者は、持続という観念で新鮮な時間論を創り上げた。いわく、思考から空間という概念を捨象してみると、そこにあるのは持続という観念にほかならず、ある対象xがn乗反復しているのだ、と。
 少し難しいので、用語の説明から始めよう。持続というのは、続く、というくらいの意味である。空間という考え方は、ある場所に、例えば建物Aがあって、Bがあって・・・という説明になる。しかし、それは時間という契機を軽視してしまいがちになる。はじめに場所(空間)があるのではなく、建物Aが1回、2回、3回・・・n回、建物Bが1回、2回、3回・・・n回と繰り返されることによって、むしろ世界は成り立っているのだ。ベルクソンはそう考えた。
 彼は言う。反復とは、同じものの繰り返しを意味する一般性とは区別されるべきであると。本当の繰り返し、反復とは、毎回毎回同じものを異なったふうに繰り返していくのだと。そこでは、確かに繰り返される対象は(xという)定量的なものである。しかし、それは単なる機械的反復を意味しない。同じ対象(対象x)が、毎回違ったふうに繰り返されるのだ。それが反復の真なる意味である。

 一杯のコーヒーがある。それは、1回、2回、3回・・・n回と繰り返される。しかも、毎回毎回違ったふうに。よくよく注意してみたら、毎回のコーヒーの味はいつも微妙に違っているのだ。何故か。それは、あなたの生きる瞬間が、実に多様で何一つとして同じものはないからである。

 機械的にしかコーヒーを飲めてない人は残念である。そのような人は、ベルクソンから言わせたら、一般性の方の機械的反復をしてしまっている、と言うだろう。いつも同じ味、すなわちコーヒー豆と砂糖とミルクが混ざった味、がするだけで、その人は永久的に同じ味を味わい続けるだろう。それはすなわち、生きている日常がほとんど同じ意味しか持たず、ただひたすら同一の日々を繰り返すという無限の修行のようなものである。

 ベルクソンなら、笑うだろう。なぜ、君は同じ毎日を繰り返している。それよりも、生きている日常の、いろんなことに気がついてご覧。庭に咲いている花は、一度たりとして同じように見えていないのだ。いつも見るたびに、新しい発見、新しい姿が立ち現れるだろう。それと同じように、君が飲むコーヒーも、昨日とは違った味、違った匂いがするはずである。何よりも、君が生きた日々の多様性を反映しているのだから。

 映画『魔女の宅急便』に出てくる、おサトさんが初めての街に迷い込んだキキを優しくもてなす時のコーヒーは、私にとって絶妙である。おサトさんのコーヒーの入れ方は、ちょっとがさつで乱暴だが、あの時のコーヒーほど人の心を安心させ、優しくしてくれるものはないだろう。とっての大きいマグカップ、かき混ぜるためのスプーン。

 私は、いつかそのようなコーヒーを飲みたい。いや、もう飲んでいるのかもしれないし、まだ飲んでいないのかもしれない。永遠回帰だ。そのようなコーヒーに向かって、私の人生はただひたすら、前を向いているのである。

(終わり)

 人間とは、河の流れのようなものだと思う。ゆるやかに、しかし確実にこくこくと流れていく河だ。このことは、いくら強調しても、いつの時代にも抑圧され見過ごされるので、強調しすぎることがない。

 反対に、人間とは確固とした岩のような、大地のようなものであるのだろうか? 私はそうは思わない。あるものは移りゆく今だけだと思う。

 どの人間にも、メジャーなもの(ある程度共通している、<理性>や<掟>といったモノ)と、マイナーなもの(自分だけに特有の、感情や性)なものが混合している。
 大多数の人間は、自分がマイナーなものを抱えているということに気がつかない。自分は当たり前、言い換えれば普遍的存在だと認識している。
 しかし、マイナーなものは確実に存在する。自分に特有のもの、この感情、この瞬間、この生――。自分だけにしか把握することのできない痛みや、快楽が確かに存在するのだ。

 人は怖いのだろう。突き詰めれば、自分は誰とも違う、特異な存在であるということに。だから、安定を、確定を求める。メジャーなものたらんとする。そして、マイナーなものを抑圧する。

ドゥルーズは懸命にもそういった特異性を積極的に肯定し、くよくよしている主体に、それがなんだと笑い飛ばす。それが自分、それが人生なのだと、だから楽しめ、と。

いつも、少数の人は虐げられながら、真理を手にし、それからどうやってこの世界と折り合いをつけるのかを考えていく。真理に気づいたのは誰のせいでもない。
 社会の、変革を目指しながら。

(終わり)
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