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突然ですが、小説「Vague mal」の14回目です。
実はあとちょっとでキリのいいとこまでいくので、それらを公開したあと、連載は終了したいと思います!

ここで「Vague mal」の連載がまとまって読めます。
http://statodiecceziobe.syoyu.net/%E5%B0%8F%E8%AA%AC/




では、第14回目です。

********

 

 水辺線上の地平にいる。飛ぶことはできないだろうな。

彼はいつも思い出の中でレモン・ドロップを舐めていたから、何となく甘ったるい独特の印象が残っている。

 

 ここは中心ではない。足元の感覚が正直だ。それでも立っているという確信はある。何かしらを待ち構えているというわけでもない、それでも何か起こるかもしれないという予感の中にいる。足がぬかるみに取られるように、僕は感覚を失っていく。暗闇におちる。死ぬのはイヤだな。あでも死ぬわけではないのか。待つ、そのこと。くらやみとは化け物だな、そんなことをふと思ってしまう。フレンチ・トーストと半熟の目玉焼き。これは世界の裏側か、失敬。

 

 永遠と有限、そのどちらかではなく、二元であるということ。そろそろ自前の刃を準備せよ!

 

 

 嘘を書く、という非常に難しいこと。書くことは完全なる遊びにはならず、何かをさらけ出してしまう、自ずと。一種の行為である。

 

(ところで私は思うがままに探索しているわけなのだが…)

書いてしまうことは何か?契約書とも登記簿とも違うエクリチュール。エクリチュールの起源は?

 そう、これは少なくとも嘘でない何かを間接的に語っているのだ。小説は嘘ではない。虚構とは、ある意味で、真実の、真理の内に含まれている。それは真理の見せかけであり、全くの虚偽ではないのだ。

 真理の打ち立て方がある。一方は権力によって。もう一方は抵抗によって。権力による真理―体制は今でも十分に世界を覆い尽くす。抵抗による真理の打ち立て方は、ゲリラ戦的な夜戦だ。

 都市が、任意的な、それが見える。



(連載最終回へ)
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たしょう内省的なエッセイとなってるんですが、お読みいただけたら幸いです。

@街と活動―福岡

 そろそろ、福岡という街で過ごしてきたことを、強引にでもまとめに入る―概観するタイミングに入っている。近代文学の起源を発見したと同時に、それの終わり、つまり必然性の消去も同時に柄谷行人氏は見出してしまった。もう6年も7年も住んだこの街についても、私は同じような作業をしなければならないと思っている。

 住んでいる街が、環境として、つまりアーキティチャ的思考枠組みの下で、これだけ人々の意識に定着しているのは喜ばしいことである。住んでいる街が自己の活動を制限したり、もしくは既定したりするということ―。
 例えば、一言で日本(の地)といっても、それには東京のような都会と、それに従属するあるいは機能を欠いていて華のない地方、といった二項対立もあるし、山林の多い地域と少ない地域、気温の寒い街と暖かい街、といったように、様々な区切りができるわけだ。日本も、またそこに住んでいる人々の活動も、まったく平板ではないのである。
 

 僕は2007年の春に、大学入学のため来福してきた。大学という自由の最高度に効いた空間に初めて触れたこともあわせて福岡のイメージを語るなら、まず何と言っても華やかということだ。福岡は華やかな街だ。
 お金の使い道に困ることがない。ショッピング、本・映画などの娯楽、飲み屋、食べ物、そういった文化的地盤がとんでもなく奥ゆかしい所である。
 あまりにも、大学最初の頃からこの華やかで楽しい街の雰囲気に飲み込まれたせいで、僕自身もそういった背伸びしたモードを付け足してここまでやってきたのかもしれない。

 だからこそ、この文化の幸福な状況を創りだす要因は何か、今一歩冷静に引いて考えてみるのもいいかもしれない。そうすることが必要なのではないか。せっかくだから、福岡で経験した・見てきたものを踏まえて、文化のとる諸様式について整理してみたい。

始原状態; ある一定の形式の文化(音楽、お笑い、アイドル、B級グルメ…)のはじめ。デニュー、スタート地点。アンダーグラウンドな場所がほとんど。

過程 ; 始原状態あkら徐々にメタモルフォーゼしていく。例えばロックバンドなら、作品に発展がみられたり、ハコの規模が大きくなっていったりする。

(メジャーデビュー)

全国≒芸能界≒テレビの世界;
  しかしメディアも多方向多チャンネルになった現代、何が「一番」「登りつめた状態」なのかはよく分からなくなってきた

 
ローカル軸足; 全国にじゅうぶんいけることができる資質を持つにもかかわらず、拠点を地元から変えない。
 ex. 百蚊(バンド)、LinQ(アイドル)←?

大衆的認知;お茶の間の存在となった様式。 ex. AKB


 中でも、やはり最初の資源状態と過程という、いったい何になるかどうなるかも分からない地点を見ることができる、というのは相当楽しい。

 ざっとまとめてみると、安易な地下デビュー→上昇→全国デビュー→上昇 といった単線型の説明だけでは現象を理解できないということだ。
 メジャー/インディーズといった区分の他にも、場所性や志向性などさまざまな区分が加わって、文化の流通経路はとても複雑化しているのが分かるだろう。

 そのうえで、素晴らしい文化はどのようにして発生=創造されるのかを考えるということ。理想の芸術、生のモード。

 私はいずれ遅くなく地元に戻り、これからの大いなる宿題をときにかかるあろう。そのような意味で、福岡とはじつに長きにわたって見てきた、偉大なるフィールドワークの実践の地でもあった。私にとってはかえることのできない一生ものである。

 福岡で関わってきた全ての人に、ありがとう。
次に会うときは、出版されたことが決まった僕の原稿を手土産にしたいものです。

(了)

理論と実践―理論を提供する学問について(学問と社会 第一回)


*理論を欠いた実践

 「理論と実践」にまつわるテーマから話を始めよう。
例えば、現代社会では飲酒運転をなくそうとする社会の動きがある。この動きはしばしば、過激なほどの熱をもって文字や声を通して表面上にあらわれる。

また、そこにはしばしば飲酒運転という減少を原因ー結果の二元論の思考枠組みを使って、しかも個人個人の疎かな判断が具体的な事件を引き起こす、といった説明を前提としているように見受けられる。
教育と労働

 労働に関する問題を批判的に考えようとする際、「教育」というテーマをそこに挿入するのはとても面白いように思われる。

 日本の教育制度では、(幼稚園)ー小学校ー中学校ー(高校)ー(大学その他)

このかっこで囲まれていない、小学校並びに中学校における9年間の義務教育制度がある。日本人はみな、子供の時は最低9年間は教育制度の下におかれなければならないということだ。

 また、同時に、未成年の原則労働禁止、禁止まではいかずとも成人と比した場合の制限がある。

教育と労働は、いちおう別問題である。この別領域の二つを同時に「教育と労働」として扱った法令を私は今この場では思いつかないが、
 試しにこの論考では”労働に抗する教育”という概念を打ち立てて、もって労働への批判的考察を導いてみたい。

労働に抗するとはどういうことか。教育はもちろん、子供が大人になるための知識、経験その他諸々のハウトゥを得るものとして想定されている。
自転車は危険か? 危険の違いと超制度としてのアーキテクチャ


*はじめに
 昨日、福岡市内において、自転車安全週間という制度に基づき、危険運転自転車に対していくつかの交差ポイントにおいて警告を与えるということがおこなわれた。
 何を隠そう、私も警告をうけた市民のひとりである。私は危険運転ではなく、夜道に無灯火だったわけでもなく、ただ音楽を聴きながら自転車を走行していた。
 音楽を聴きながらの自転車走行も、警告対象になるらしい。
住所・氏名・生年月日・職業をゆっくり聞かれ、私は急いでいたのに、尋問をする警官はたいへん苛立たしかった。

 以上が、この記事、「自転車は危険か?」を書こうと思った動機ではあるが、そこにはもちろん自転車の危険を語る際の注意のようなものがある。
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