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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 ちょっと早めに更新しておきます。

Vague mal
第二部 スキゾフレニア
γ 黒い水、月

(承前)

 新田は橋の手すりにぐいと自分の体を近づけ、流れる河を見る――黒い水だ。今日は月もないし、この辺の通りは灯も少ないから、光というものがおよそ反射しない。いやそれだけなんだろうか。ここの水はあまりにも黒々としている。河の水は、なみなみとして流れ、遠くの方から別の方向まで、たゆたい、人気の少ない時間帯においてさえ確実に流れ続けている。新田はある種の畏怖の念に近いものを感じつつ、流れる河の動きをじっと眺めていた。黒い河。これが、私たち近代人の生活の正体なのだ、という気がしてくる。僕たちは依然として水を必要としている。一つの細胞たる僕らは暗黙に地下水路などをこそこそ作っては、必要な分の水を受け取り、輩出し、そして養分を取り込んでは肥えたり痩せたりしていく。モダン化した街において、水の存在など大して気にかけられない。しかし一つ一つの細胞に行き渡っていた水路は、やはり幾つかの結節点で集まり、多くなって、このように幅のある河川へと結集する。そしてそれらは実に黒々としていて怪しい雰囲気を放っているのだ。

 新田はしばらくのあいだ、河の流れを目で追って、ときどきほうっと白い息を吐いた。頭の中ではまだ有意なことばにつながらないイメージの浮遊のみが散乱しており、彼の中身としての実体を減じさせる。やがてまた寒くなりだしたな、と新田は思って、もう寝よう、と独り言を言った。彼が去ってもなおその橋の下の河は黒々として流れ続ける。第一夜。

 

   ☆

 

 朝が重い。朝それ自身が新田の若い体に重くのしかかってくるかのようだ。手元の電気スタンドの灯をつけて、背伸びをする。枕元に置いてあった携帯に何らかの情報が入っていることを確認する。

 

     From まなみ To 自分

    (title)無題

        ちゃんと家まで帰れた?

        …送ってあげられなくってごめんね。昨日も、楽しかったね!

 

 とくにどうということはない字面の中に、新田はなにか硬く引きずっているものを感じとる。まなみは新田の心知れた同級生で、かつて新田と付き合ったこともあった。今は友人関係。まなみはいま、同じ会社の先輩と付き合っている。

 彼女のメールは朝の新田のにぶい頭を余計にこんがらがらせる。まなみよ、俺の心からシャトアウトしてくれ! そういえば、最近あいつとまた付き合う時間が長くなった気がする……。新田は昨日のことをようやく思い出す。昨日は、華の金曜日、仕事もほどほどに、かつての大学時代のゼミナール友達5人と、狭い深い酒を交わしていたのだった。そこにまなみと新田も含まれている。おおかた昨日は飲みすぎたんだろう。現在二日酔いはないが、頭が痛い。それにしてもさきほどから新田の脳裏にやたら浮かぶのは、まなみの大きな瞳がこちらをしばし伺ったあとで、テーブルにうつむく、というただそれだけの動作だった。その動作がずっと繰り返されている。まなみの瞳。あいつ、何かそこまで悲しいことがあったっけ。

 どちらにせよ、頭痛薬を飲まねば。新田は布団から立ち上がって、一息つく。自分という存在がとてもでたらめなモノに感じる。いつも、何かしらの〈出来事〉が起こってからしか、自分は物事を整理しようとしない。物事を整理し終わった後は、たいて何もかも終わっている。そして、物事を整理する以前、それは未分化なマグマの状態だ。未分化・未規定、つまり動きや機能も何も決められていない、いわば純粋状態……。そんなモノが自分の中にいてさらに自分を語っていることの気持ち悪さ。それなのに時々自分が、そんな状態に戻っているばっかりな気がして、心もとない。未分化なマグマ。


(つづく)

 

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こんばんは。お久しぶりです、みすてぃ(ういろう)です。

最近は、アメーバ・ブログの「テイタム・オニール」(http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/)をよく使っていました。

 「Vague mal」という変な小説の続きをまたゆっくり書いていこうと思うので、連載を再開します。「書も、積もりし。」でやろうと思います。



それで、ちょっと補足説明をさせてください。
Vague malは、全体構成として、
第一部 メランコリア
第二部 スキゾフレニア
   
 
    α 空中の諸都市
    β 記憶を持たない少女
    γ 黒い水、月
第三部 After becoming, to nowhere.

というものの予定なのですが、このうち第二部スキゾフレニアの、βに該当する原稿がなくなってしまいました。
ちゃんと探せばあるかもしれませんが、少なからずともこの辺で筆が滞ったのは間違いなく、このあたりにこの小説を書き続けていることの困難さもあったので、とりあえず、これはまたあとで書き直しです。

今回は、「第二部 スキゾフレニア γ黒い水、月」からはじめます。
そして、「β」か「第三部」のどちらかまでを公開したいと思います。

このVague malも、我ながらくっそ自分勝手にやりながら、書き始めたのは去年度の6月ぐらいからでした・・・。
 1年が経とうとしています。ぜひ、完成をさせたいです。

前置きが長くなりました。 本文は以下からです!!!
ちなみに筆名は蜜江田 初郎(みつえだ ういろう)です。
 
@Vague mal(連載小説) 第16回   第二部 スキゾフレニア γ 黒い水、月

[1] 青土社、200312月号。

[2] 柴田寿子「力の政治と法の政治」『現代思想 特集ホッブズ』(青土社、2003)。

[3] トマス・ホッブズ『リヴァイアサン(一)』(岩波書店、1992改訳)。

[4] ホッブズ、pp150

[5] 柴田寿子、pp63

[6] バリー・ヒンデス「あの死すべき神」『現代思想 特集ホッブズ』(青土社、2003)。

[7] ヒンデス、pp164

[8] ヒンデス、pp164

[9] ホッブズ、pp167

[10] 柴田、pp65-6

[11] ホッブズ、pp168-

[12] 柴田、pp65

[13] ちなみに、ここでのホッブズの合意に基づく社会契約の構造のパラドックスを的確に示したのが、上野修『精神の眼は論証そのもの デカルト、ホッブズ、スピノザ』(学樹書院、1999)「残りの者―あるいはホッブズ契約説のパラドックスとスピノザ」である。本論では特に立ち入らない。

[14] 柴田(前掲、pp70-1)は、カントの契約論の問題として他にも、法による構成員の線引きの問題をあげている。カントは自由・平等・独立を有する公民とそうでない公民とを分け、後者を受動的国家公民としてその選挙権を認められないとした。カントが具体的にあげた例としては、雇用者・未成年・女性・自活不能者などである。これは大いに昨今の人権論と関わりがあろう。スピヴァクが『ポストコロニアル理性批判』でカントの無意識的な人権意識を問題化したのも想起される。

[15] この論点については、ヒンデス論文(前掲)の後半部分(特にpp174-5)も参考にした。

[16] トマス・ホッブズ『市民論』第十二章第八節。

[17] 水嶋一憲「マルチチュードの恐怖 戦争に抗する闘いのために」(『現代思想 特集ホッブズ』)pp116の下段左からpp117の上段まで、ホッブズの恐怖論が整理されている。

[18]水嶋、pp117上段中央。

[19]水嶋、pp117上段・下段では、水嶋は恐怖論の中で、ホッブズが殺したterrorは、抑圧されたものの回帰という精神分析でお馴染みの概念を使って、恐怖が復活すると述べている。論点が細かく本論の流れには関係が薄いので叙述はおさえるが、水嶋が言うところの回帰したものとしてのterrorはどのようにして再―出現するのか、という点はもっと詳細に述べられてもいいように思われる。簡単に言えば、ホッブズ的国家ではfearが跋扈し、terrorはその発生の内的原因を奪われているはずなので、terrorが回帰し再出現する理論を補充する必要があるように思われる。

[20]水嶋、pp118上段中央。

[21] エチエンヌ・バリバール「スピノザ:大衆の恐怖」水嶋一憲訳(『現代思想』第十五巻五号、青土社)pp88

[22] ここでも注意が必要で、彼はマルチチュードがもたらす/うけるfearterrorを区別することなく同時に引き受けたのだった。だから、彼が無念にも残してしまったterrorをどうするかという問題については、十分な解答が与えられなければならないのである。

[23] 『政治論』最終部は絶筆のままスピノザは眠りについた。

[24]水嶋、pp119上段中央―pp120上段右。

[25]水嶋、pp119中央左。

続きです。


第三章 スピノザのマルチチュードと力

 スピノザの力の概念は、前述したホッブズ的な「諸力の集まり」、つまり群集(マルチチュード)そのものが力でもあるようなものである。もう一度整理をすれば、ホッブズは「諸力の集まり」に恐怖(戦慄、terror)を見てとったのだった。そのことは例えば以下のセンテンスに見出される。

 

 人民とは、一つの意志を持ち、一つの行動がそこに帰されるような、一つである何ものかなのである。これらのことをマルチチュードに関して述べることは、本来的に不可能である。あらゆる統治において支配しているのは人民なのである。…(中略)…(逆説的に見えるかもしれないが)王は人民なのである。[16]

 

「王」というワードが曲者ではあるが、ホッブズはここで、マルチチュード(群集)と対比される人民が、その力を群集のようには拡散させずに一つに安定化させる、その意味における人民の優位性を強調している。それはさしあたって国家の形式的/実質的な「王」である権力者でさえも、国家のアクターとして配置されている限りにおいて人民が有する力の安定性を担う、というくらいの事柄を指すのだろう。ホッブズは自分が考える国家政体にあたって、およそマルチチュードは採用できないと考えた。何故ならマルチチュードの有する拡散的=爆発的な力を封じ込めるためにかの強大な主権者が現出したのであるから。

 ホッブズとスピノザの国家論の差異を際立たせるために、もうひとつの補助線を引く。それは、「恐怖」という概念である。奇しくも、ホッブズは政治の原理(起源)が恐怖にあることを明確に察知し分析していた[17]。ホッブズによれば、恐怖には2種類ある。「恐れ、恐怖」の意味をなすfearと、「戦慄、震撼」の意味を指すterrorである。Fearは、どちらかというとポジティヴで、生産的な原動力である[18]。反対にterrorはネガティヴで、受動的な概念のものである。

 ここでホッブズは明らかに、群集(諸力の集まり)が引き起こす、例えば無限の暴力の連鎖に通じる「戦慄、震撼」すなわちterrorを忌み嫌ったのである。むしろ彼の国家論の狙いは、このterrorを封じ込めることにあった。すなわち、fearを人々に与える力(これこそが押さえ付ける力なのだが)を主権者の専属とし、正当化を与え、terrorは線を引き排除した。Fearterrorに線を引いたあとで、前者だけを正当化し存続せしめたのである[19]

 これに対してスピノザは、fearterrorを線引きしない。同時に保存しておくのである[20]。そのうえで、fearのもつ生産的な力に着目する。水嶋はバリバールの論文を引いてさらに議論を追加させるが、ここでもその意欲的なバリバールの解釈を引用しておく。

 

 「マルチチュードの恐怖」は、属格の二重の意味、つまり、主語属格と目的語属格の両方で解釈されるべきなのだ。この恐れは、マルチチュードが覚える恐れであると同時に、統治したり政治的に行動したりする立場にある何者か、ゆえに、そのようなものとしての国家に対して、マルチチュードが吹き込む恐れでもある。[21]

 

 ここでバリバールが形容している「マルチチュードが覚える恐れ」が先まで語ってきたところのterrorに、そして「マルチチュードが吹き込む恐れ」がfearに対応するのをみるのは容易いだろう。そしてスピノザは、fear、マルチチュードが吹き込む恐れを原動力とした、開放的で悪く言えば荒々しい政治形態の構想を作り上げようとしたのである(ホッブズはfearに更に正当性/正義の仮面を被せているから、この点についてもスピノザ的社会はホッブズのそれとの違いを見せるはずである)。

 

・ホッブズ的整理

諸力の集まり(力A) → terror

Terror → 押さえ込む力(力B、これは主権権力という形をまとって正当化される)

 

・スピノザ的整理

Fear → マルチチュード的力(力Aのヴァリアント)

 

以上、図式的にまとめれば上のようになる。ホッブズは、terror(戦慄)を原因とした力を構想したが、それはスピノザから言わせると禍々しいものである。スピノザはマルチチュードの積極的・生産的な側面を重視した。それは結局、恐れ(fear)を原動力とする諸力の集まりに他ならない[22]

それでは、恐れを原動力とするマルチチュード的力は、どのような社会を構想するか?これについての具体的な考察の展開が必要であるが、これは端的にスピノザ自身の『政治論』の政体分析の章が未完のままになっている[23]ことにより、スピノザ自身から答えを聞くのは不可能である。

すれば私たちに残された理路は、スピノザ主義者―現代にまで連綿と続く―の声を追うか、もう少しスピノザ自身の声を聞くかであるが、前半については本論の目的の範囲外である。従って、スピノザの権利=力論を最後に検討しておく。

 

 スピノザはマルチチュードを論じるにあたって、「マルチチュードの力能」といったテーマを導出する[24]。スピノザはそこで、「力能」potentiaと「(法)権利」jusの厳密な等値を図る。スピノザによれば、「力(能)」とは、可能的な潜在力や、法制的に保証された権能または正当化された権力を指示するのではなく、現働的・実効的な活動力を指示するものである[25]。そして、権利=力(能)とは、権利によって力(能)、つまり法制度によって私は日本国民として活動することができる、といったことではなくて、逆に力(能)によって法権利が規定されるような状態を指す。その意味においては、法権利(法体制)は、あくまで二次的なものにしかすぎない。世界の中心、本質は力(能)にあり、この力(能)が法権利を二次的に創出する。かなり大胆な議論ではあるが、もうお分かりのように、ここにはカント的法治主義のような法の政治をも脱する契機が含まれていると言えるのではなかろうか。スピノザは、明らかにホッブズ、そしてカントの両方の困難に応えるために、現れてきたのだ。

 

 

結論 スピノザ以後

 

 ホッブズの社会(国家)論は、押さえ込む悪しき力を正当なものと仮装する一方、他方では群集の可能性をそっくりそのまま排除したものだった。カントは臣民の自立性を尊重し、法による政治(カント的法治主義)を構想したが、それは結局ホッブズが全面化した押さえ込む力を再び浮き上がらせるものであった。この両者の困難を救うために援用したのがスピノザであった。スピノザはマルチチュードの有する開放的な恐怖を原理とした政治をかかげることにより、また法権利・法制度を二次的なものとして力(能)から産出されるというアクロバティックな論を打ち立てることにより、ホッブズもカントも越えようとした。

 スピノザは、おそらくジル・ドゥルーズやアントニオ・ネグリなどのポストモダンの思想家が再び見出したこともあって、今もっとも再評価されている哲学者/政治哲学者の一人であろう。本論では記述することのできなかったスピノザ主義者たち、ネグリや(含めていいなら)バリバールらの理論も検証していくことが本論をさらに発展させるものになろう。

 蛇足ではあるが、本論が扱えなかった、しかし続けるべき課題を2点。本論で大雑把に扱ってしまった法の排除/包摂の暴力的問題に関しても、さらなる立ち入った検討が必要であると思われる。デリダの『法の力』の読解を通じてデリダ理論を検討することが必要である。2つ目は、スピノザとカントの法に関する問題。スピノザの力能=権利論は、カントの法論にどのように関係しえるかについての包括的な検証が必要である。(了)



 1月に完成した小論文「法を超えるために ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学」を公開します。

政治文章に興味のある方はご覧下さい。 この記事では第二章までです。第三章と注は次の記事に掲載しています。
 


法を超えるためにホッブズ、カント、スピノザの政治哲学

蜜江田初郎

 

(目次)

序章

第一章 ホッブズ的“力”の概念

第二章 カント的法治主義と押さえ込む力

第三章 スピノザのマルチチュードと力

結論 スピノザ以後

 

 

序章

 政治哲学者の柴田寿子は『現代思想 特集ホッブズ』[1](以下、『現代思想』)へ寄稿した論文において、ホッブズの社会契約論に見られる政治観を「力の政治」、カントのそれを「法の政治」と呼んだ上で、その内容を検証していく[2]。実際以下で記述される通り、ホッブズの政治理論における「力」の概念だけでも議論はかなり複雑なものとなっている。しかし例えば、昨今の安倍第二次政権の行動とその報道陣による伝えられ方は、しばしば派手なパフォーマンス性を強調するだけのものとなっている。それも受けてか、政権への批判の論調は、じつに一枚岩的な「力の政治」の観念をベースとしてしまっているものが多いのである。

 ちなみに、上の『現代思想』においてホッブズが特集された背景には、9.11に端を発してアメリカが仕掛けたイラク戦争の混迷や、政治記者のロバート・ケーガン氏による政治論争の引き起こしがあった。現代日本の政治は10年前のアメリカ政治とますます似通っているということなのだろうか? だとすれば、子ブッシュ政権的な断行主義が勢いを失って、代わりに話し合い/合意の政治により舞台にあがったオバマ政権が今再びそのスマートさを失っているということは、法の政治(カント的法治主義、話し合い/ルールの原理)を力の政治に優越させるだけでも問題解決にはならないということを示唆している。

 本稿ではそのような「法か力か?」といったような 二項対立的な政治(原理)の見方を再考するよう促し、法と力の共犯関係をいかに乗り越えるかを実際的に検討していこうとするものである。第一章ではホッブズを扱う。ホッブズの「力」をめぐる記述を検討し、整理しなおす。第二章ではカントの法論を扱う。その際カント的「法の力」がいかにアポリアに直面するかを描くであろう。第三章はホッブズもカントも乗り越えるためのスピノザの政治哲学を検討する。結論として3人以後の地平にどのような政治哲学が描かれるべきかが少しでも示せればいいと考えている。

 


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