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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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整理したらでてきました。この作品だけではまったく完成しておらず、もっと別のものを書く段階でできたもの。


スナップ女
              光枝 初郎
「じゃあ、ちょっとそこにかがんでくれるかな――うんそうそう」
膝までしかない裾のスカートでかがむのには相当注意をしなくちゃならないな、カメラマンさんにだって見られたくないし、と飯島夏美はうまくスカートの裾を集めて自分の下着が見えないようにかがみこんだ。
「はい、目線―。笑顔でお願いします」「片手、前に持ってこようか。うん、そんな感じで」
 あぁでも下着が見えたって、結局カメラチェックの時に編集で弾かれれば問題はないか、と思いはじめてポーズに徹することに決めたのは、撮影がはじまって僅か十分くらいの頃だった。五月。市内の緑の多い公園で待ち合わせた大学生の夏美と、カメラマン二人――一人は若くておしゃれな風貌で、もう一人はもっと年齢を重ねた人――は、世間話もそこそこに、割とたんたんとスナップ撮影に臨んでいった。ベンチに腰かけたり、公園に植えてあるポプラの樹に手をかけたりして、シャッターが小刻みに切られる。テンポが良かった。誰かに求められて写真を撮るということは気持ちが良いことだ、と夏美は感じた。カメラを持っているのは若いカメラマンの方で、デニム生地のジャケットを羽織った暑苦しいもう一人のカメラマンは、私たちの後方でアップルマークのついたハードウェアをいじくっていた。若い男性はカジュアルな服装で、顔も可愛げがある。夏美は少なからずときめいてしまった。夏美は、うすい黄色のカーディガンに、真っ白のフレアスカートを着て、靴は紅のパンプス。色のバランスが王道すぎるか、と思ったけれども、スナップ撮影の場所は公園で、と聞いていたので明るい色が映えそうな原色で固めてみたというのが夏美の本音だった。夏美の友人たちは、いつも彼女の容姿とそのいでたちに憧れていた。彼女の瞳はひときわ大きく、くっきりとした二重で、人に凛とした印象を与えた。なのに、彼女には異性も同性も分け隔てなく人を惹きつける何かがあった。例を挙げるなら、元AKBの戸島花に似ている気もする。
 公園には燦々と照りつける太陽の光が降って、時折頬から流れる汗をさらってくれるような小風が吹いた。夏美は、目の前の若いカメラマンが首につけている銀のネックレスを注視した。見たところ、そこまで派手な意匠ではなく、ペア・タイプで販売していそうな代物である。この人には彼女がいるのかな、奥さんかもしれない、いたらちょっと残念だな、と思った。
 「夏美さん、表情がいいですね」そう言われて、夏美はスナップ撮影の最中であることにあらためて気がついた。彼女の、そうとは見えない愛想笑いが振られる。
 「じゃあ、ちょっと次は、後ろから――夏美さん、後ろを振り返ってみるような感じで、お願いできます?」
夏美はすぐさま求められたポーズを矢継ぎ早にこなしていった。
 その日撮られた写真は全部で二百五十枚くらいで、そのなかから向こうが三、四十枚を選んで後日夏美のパソコンに送られた。それぞれの写真には一から四十までの数字番号が振ってあり、この写真はダメ、というのがあったらその番号を教えてくれ、というものだった。最も彼らはトータル枚数から四十枚に厳選する過程で手ブレ、影、障害物の写り込みなどの基本的な確認はしているのであり、夏美が見ておきたかったのは、あのしゃがんで何枚か写真を撮った時に、「見えていないか」だった……しかしどの写真も自分とは思えないほどよく撮れていて、自分が心配していたものなど一枚も見つからなかった。夏美がこのメールに返信をすると、確認作業は終わりで、撮影当日に撮った写真のデータは私に全てくれるという(最もそんなものをもらっても困るのだが)。私は「全て大丈夫です。おかしいものは見当たりませんでした」とだけ返信した。スナップ写真の公開は二、三日後になるという。
 後ろの方から、扉が開く音がした。ゴローだ。夏美の一つ下の学年の、吾郎という男だった。夏美は、この男はいつでもゴロゴロしてるからゴロー、吾郎ではなくゴローだ、とからかっていた。
 吾郎は「ただいま……」と弱った声を出して、そのまま夏美のベッドにばすんと潜り込んだ。「また君はすぐにベッドにへばる!」 夏美は注意した。吾郎はブランケットの薄い生地の毛布を自分の顔いっぱいにかけると、そのまま眠りにつくような静けさに入っていった。
 「これじゃペットを飼ってるのと変わらないね……」夏美はきわめて小さい声で独りごち、ノートパソコンの画面に向き直った。夏美は自分のクーラーのよく効いた部屋で大学の課題レポートなどをし、吾郎はひたすらブランケットにうずくまって静かに寝息を立てていた。夏美はレポートに集中した。一時間半ばかりがすぎた頃、ようやく吾郎が起きてきた。
 「……夏美さん、写真撮られてきたんだ」吾郎は静かに、夏美の後姿を見つつ言った。
 「うん」レポートも程よく終わりかけで、タイミングが良かった。
「どうだった? 被写体体験」
 「どうだったと思う?」「……分からない。僕には分からない」
 「まぁね。でも特に問題はなかったよ。写りもとてもいいし」
 「そういうものなんだ」吾郎は興味があるのかないのか分からない曖昧な返事をした。それに夏美はムッとくるものがないわけではないが、もう少し話をしたかった。
 「それよりさ、私、またよかったら、写真撮らないか、て誘われたの」
 「また?! それは、カメラマンさんから?」
 「そう、こないだ撮影してもらった人から。今度は、もっと別の感じでいこうか、みたいな」
 「別の感じってどういうこと?」吾郎はやけにつっかかってきた。
 「だから、今回のは割と清楚チックだったから、私、モデルとかそういうの興味は特にないんだけど、こないだの写真撮影は良かったな、て思ったから、今度はちょっと水着とかで」
 「え?! ……」夏美の話を遮ったっきり、吾郎は黙ってしまった。何を一人で大声あげたり苛々したりしているのだろう。
 「……なにか、不満でも?」夏美は静かに聞いてみた。
 「水着とか……自分の彼女が水着で写真撮ってきまーす、なんて言われて、いい顔する彼氏なんかいないでしょ……」
 吾郎は夏美に背を向けて、またベッドの中に入っていった。夏美は、吾郎が言ったことを心の中で反芻した。分からなくはないかもしれない、なぜならゴローは私の恋人だから。でも、と夏美は思った。私が前から興味のあること、好きなこと、もうちょっとやりたいんだ。ゴローは私のもの。そんな人に私のあれこれを言わせない。夏美は吾郎の身体ごとのっぺり覆ったブランケットを焦点を合わせるでもなく見つめた。
 出来上がった写真は、とても輝かしいもので、少なくとも現実の自分ではないような気がした――そう夏美は感じた。有名なSNSサイトに投稿された十五枚の写真は、どれも透明感があり、カメラの光線がよく活かされていた。こうやってネットに投稿されることで初めて自分のおこなったことが重みとして伝わってくるようでもあった。目の前の画面の女は口を開けて快活に笑っており、誰かに向けて愛想を振りまいているようだった。思わずゾクッとした。あの時、写真を撮っていた時にイメージしていた自分とは全く違っていた。私は別人になれるのだ! 投稿された写真の傍に、目を引くフォントでこう書かれていた……
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 「これか!」
夏美が目をあげると吾郎がいた。吾郎も夏美もしばらくSNSに投稿された写真を眺めていた。夏美は少し恥ずかしい気がした。ここに写っている写真は自分とは別の姿で、恋人である吾郎にその姿を見せたことはなく、ということは私は少なくとも吾郎にはこのようなイメージでの自分を見せたくなかったのかもしれない、ということに気がついた。それはどういう自分だろうか。写真には、顔面を大きくアップしてくりくりとした目の輝きが強調されるものから、公園の池の前に座ってしばし昼間の物思いに耽る妙に甘美的な写真まで、いろいろあった。一通り見たあと、夏美がいたたまれなくなって、
 「もうよくない? 十分見たでしょ」と吾郎に声をかけた。
 吾郎はしばらく放心しているようだった。それから何やら一人で考え事に耽っているようだった。夏美の半ば散らかった部屋を、一人で往ったり来たりしている。夏美はそんな恋人の姿をどこか可笑しいと思った。どうしたの、と声をかけても、一向に聞く気配がない。ついに吾郎は声をあげた。
 「……チックショー! 俺、修行してくる!」
彼は大声でそう言うと、大股で玄関まで行き、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 「ちょっとゴロー!」
ガンガンガン……とアパートの階段を降りる音だけ響いた。まったくゴローの奴は分からない。修行? 何を考えているのだろうか。夏美は、でも、と思った。でも、やがてゴローは戻ってくるだろう、と。やがてゴローは戻ってきて、私の元に居続けるだろうと。今日だけでなく、明日も。明後日も。ゴローは私のペット。私の為だけに行動するのが彼の務め。
 次のスナップ撮影は明後日。自前の水着を持ってきてもいいし、向こうが用意してくれるのもあるという。夏美は小さく嗤った。(了)

misty
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「夏の夜に語るは夢々」という中編~長編予定の作品を、形式を改めて最初から書き直しています。いま12枚くらいで、このまま順調に書き進めていけそうです。
 最初の部分からどうぞ。


夏の夜に語るは夢々

 杏子(あんず)が幼少のとき、杏子の実家の周りは田んぼがぼちぼちとあった。そこは開発途上の住宅街だったのである。最もそのことに杏子が気がつくまでに高校の教育課程で地理を選択するまでの経過が必要ではあったが。実家には広い庭があって、杏子はこの庭に小さい頃から彼女なりの愛を注いだ。杏子の周りには命を愛でる環境が整っていた。とても気の利く賢い柴犬を一匹飼っただけだったが、広い庭には四季を通して様々な生命があちこちに住み着いていた。例えばハコバ草。何百何千とある種類の雑草の中でもこのハコバ草とセイタカアワダチソウだけは幾つになっても忘れなかった。ハコバ草は小さく、葉っぱは大根のそれのような濃い緑色をしている。ハコバ草の一番の特徴は根がしっかりしているということだ。それが一度地中に根付くと、引っこ抜くのはかなり難しい。ふつうに引っ張ると、葉っぱが抜けて、地中に深く突き刺さった中心の根っこだけ残る。その小ささも、根付きの強さに一役買っていた。ハコバ草を処理するのは大変だ。杏子の父が夏の草むしりに、決まって杏子に教えることだった。杏子は父のハコバ草の話が好きだった。まず、ハコバ草という名前が好きだった。その小ささも。小さいくせに、まったく引っこ抜けないというのは、なんとしぶといことであろうと、幼いながらに思ったことだ。ハコバ草は強く生きていた。
 杏子には五つ年の離れた姉がいた。名前を奈緒と言った。奈緒は彼女なりのやり方で、というかたった一人の妹である杏子をひどく愛した。二人はよく彼女たちのための部屋でよく遊んだ。杏子が五つで奈緒が十のとき、彼女たちのあいだで流行った遊びがあった。おはじきである。ある日、姉の奈緒はいくつものガラス玉のおはじきを買ってきた。それは透明な円の形をしたガラスに、橙色や緑、青といった絵具がなかに差し込まれたきれいなものであった。杏子は一度だけこのおはじきを口の中に入れて飲み込んだことがある。しかもそれは奈緒の面前で行われたので、姉はひどくびっくりして、杏子を吐かせようとし、それがうまくいかないと分かると、慌てて親を呼びにいった。結局おはじきは杏子の口から出ることはなかった。しかし何かの異常が杏子の身に起きることもなかった。それくらい杏子はおはじきを羨望していた。きっと、おいしいだろう、と思ったのだ。おはじきは何の味もしなかった。ガラスの冷たいひんやりとした感覚が喉の水分が多い箇所にぺろりと貼りつき、歯にあたるとカチッという不適切な音がした。えいやっと呑みこんだら、おはじきを自分が確実に手に入れたような気がした。呑みこむときも少しも痛くはなく、おはじきも私の方を拒んでいないと感じた。
 おはじき遊びは簡単なやり方で行われた。奈緒と杏子は毛糸や裁縫の糸を用意して、半径が三十センチくらいの円を床に作った。そこに自分のおはじきを用意し、相手のおはじきと戦わせて、相手のおはじきを円外に全て飛ばせば勝ちというゲームだった。おはじきは重みを持っているので、うまく指で飛ばさないと相手にぶつけることができないし、小さいおはじきよりもちょっと大きめのサイズの方がちょうどよかった。だいたいの勝負は奈緒の勝ちだった。杏子は負けが悔しくて何度も何度も勝負を挑んだ。そのうち奈緒が飽きて、他のことしよーよ、とか、宿題があるから、とか言って杏子を放っておくのが常だった。なぜ姉はあんなにおはじきが強いんだろうと今でも杏子は思う。姉はおはじきをはじくスピードが凄かった。杏子はどちらかというと受けに回って相手を交わしたり相手の失敗を誘ったりする作戦に追いやられたのだが、姉の攻撃力がいつでも勝っていた。おはじき遊びは姉が中学生になって自然と行われなくなっていった。
 杏子の父は、水道会社に勤めていた。平日は規則正しく出社し、ねずみ色の制服を着て夜に帰ってくるのが常だった。父というと杏子はいつもそのねずみ色の制服を着た彼のことを思い浮かべる。いつもその制服に、何の汚れか分からない色のシミを作って、遅い晩御飯を一人で食べていた。子どもには寛容な父だったが、母には手厳しい人だった。母が何度罵声を浴びせられたか知れない。杏子は父が母をまるで馬や牛のように扱っているとき、自分も心から震えた。杏子や姉には決してそのような態度を取らなかったからだ。杏子が大学受験を諦めて専門学校に行くことを相談したときも、怒られなかったし、お前の好きなようにやればいいと言ってくれて、杏子は父のその言葉が大きな味方となって自分の進路を最終的に決めたのだった。母は今から思えば可哀そうな人だった。家族内で強い力をふるう父に何もできなかった。母は新聞配達のパート仕事をやっていた。深夜に一人で目覚めて真っ黒の原付で家を出発し、帰ってくると私たちの朝ごはんを作っていた。それ以外は基本的に家事に勤しむ人だった。杏子は母か父かどちらか選べ、と言われたら、かなり迷うが最後には母を選ぶと思う。父にはまったく抵抗できないが、何よりも人を思い遣ることのできる人だった。基本的に家のことは何もしない父には何も言わずにせっせと働いたり、私たちの面倒を見てくれるのが母だった。

misty

・ドゥルーズ的(哲学的)分析
古井由吉「杳子」新潮文庫pp163-4 より
「いいえ、あたしはあの人とは違うわ。あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰り返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、御飯の食べかた……、毎日毎日、死ぬまで一生……、恥ずかしげもなく、しかつめらしく守って……。それが健康というものなのよ。それが厭で、あたしはここに閉じこもっているのよ。あなた、わかる。わからないんでしょう。そんな顔して……」
(中略)
「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じ込められているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。お姉さんだってそうだろう。そうでなくては、一家の切りまわしなんかできないもの」
 
ドゥルーズの『差異と反復』によると、世界は「差異」と「反復」の原理から成り立っている。例えば、時計は私たちの生活の基盤だが、その「チックタック、チックタック」という音の中で、「チック」を聞くことによって次の「タック」を推測し、それが繰り返されることで、「ハビトゥス」が形成され、人は生きていくことができる。
「チックタック」のようなハビトゥス(慣習)は至る所にある。
 しかし、ドゥルーズは「差異」をヨリ重視している所がある。反復は、同じものの反復ではなく、真の反復とは「違ったもの(差異)の反復」だと言う。
例えば、「毎朝コーヒーを7時に飲む」(仮にこの事象を事象Aとよぼう) というものの繰り返しの生活の中でも、
 「今日は砂糖少なめのコーヒー」(A’) 、「今日はちょっと冷めたコーヒー」(A”)、といった風に、「違ったやり方で」事象Aが繰り返されているのだ。

それが真の反復である。
 古井由吉の上記会話文の中では、杳子は、同じものからなる反復(同一なものの反復)をかたくなに嫌悪していることが伺える。杳子は、たとえば三文字からなる喫茶店の店の名前を、この前とは名前の響きが違うといって同じ店に感じられないことがある。そう、<病気>の(この言葉には注意が必要だ)杳子は、「完璧なる差異ばかりの世界」の中で生きているのだ。
差異と反復は対立しているかに見える。
 しかし、ドゥルーズをここで思い起こそう。彼の本のタイトルは、差異『と』反復、なのである。彼は確かにこの本によって「差異哲学」といったものを完璧に作り上げたと評価されているが、
ドゥルーズはむしろこの『と』、andというバランスのほうを考えていたのではないか。
 「杳子」Sの発言は、真の反復の存在に気付いている。真の反復は、「微かな差異からなる反復=世界」、と差異と反復をうまく和解させているのだ。
差異と反復をその場の発言とはいえうまく和解させたSと、反復を拒絶し極限の差異の世界を標榜する杳子と、どちらが「善い」のだろうか。
misty

視覚体験1

 瞳を閉じると黒色のせかいの真ん中に色とりどりの昆虫たちがあらはれてずいぶん艶めかしい色つやをしてどんどん視覚を構成していく。まるでしんせんなアスパラガスのような体躯をしたキリギリスが次には赤色のテントウムシがノコギリクワガタがハンミョウがムラサキアゲハが。この色つやはまるでレプリカの寿司のようだな。あまりに艶めかしくてその色つやがワタシの目前まで張って圧迫してくるかのようだ。ドクンドクン。とにかく次から次へと視覚は構成される。その前に、テキストとして文字が聴覚にひびきわたるのだ、つぎはテントウムシかつぎはノコギリクワガタかというふうに。テキストが横並びになるワタシは聴診器。テキストを左から右へよみこんでいくだけの。テキストを読みこんだら画像が処理されるわけ、艶めかしい昆虫たちの、これは今気付いたんだが色が爆発しているんじゃないのかい色とりどりの虫たちはさ。虫はよく分からないよ君がテキストを打ったから虫が出てきたんだそれだけのことさ。瞳を閉じる、テキストが流れる、虫があらはれる目前に色つやが迫る。ワタシこういう世界好き。確実にヴぁあちゃる。

説明:視覚に強烈な印象が与えられ、各感官の機能が比較的弱まった状態にあると、ひとつひとつの動作の諸連結がスローモーションになり、まるで一つの感官で処理されていくかのように錯覚をおぼえる。テキストは視覚に残った残像から読み取った素直な印象。そのテキスト情報が聴覚に伝わり、それが新たな視覚イメージを作る。おそろしいほどの立体感は、視覚イメージに空間性と生々しさ(リアルさ)を与えているものと思われるが、その感官は何か?(シックス・センス?) こういった視覚イメージの構成が次々と現れるので、身体は受動的な機械のような感じを受ける。
 昆虫は実例。なぜ昆虫なのかは分からず。強烈な印象とは人工の光である。


misty

バランスと平衡感覚。平均台。バランスを崩した人、平衡感覚を失った人。無重力。偏り。肥大化。バランスの先はない。しかしバランスといったものに実体はない。私のバランスとは何か、私は一つの軸から成っているのではないか……。平衡感覚を失ったランナーは真夏の太陽に酔って死んだ。狂いやすい熱だ。熱病が今年も流行りすぎている。君も死なないように。熱病と死者…………。

 保安組織は一つの巨大イデオロギーである。怪物的イデオロギー、イデオロギーの怪物たる化身。「明治の公安はモウ崩壊しちまったよ」――。

 自分が偉人ではない、むしろ自分は酷い人間である、と気付くことはとても爽快なことなのだ。諦念とはまた違う。反対に、優秀な人間にとって自尊心の高さは、ほとんど必要条件だ。なぜなら、優秀な人間の個体性を守るため、優秀な人間が荒い世の中を生きていくためには、自己尊厳の高さが保たれなければならないからだ。しかし、自分はとりたててすごい人間ではない、と気付くことは、凡庸な安心感をもたらす。自戒はこのためにある。プライドから距離を取ること。私は安心。

 憂鬱な気持ちがやがてやってきた、それは私にとって何故か新鮮な出来事であった――。憂鬱は、自責と絡まりあっていた。自責はほどよい大きさだった。自分を責めることによって、ある種のマゾヒズム的安心感が得られたのであった。それから憂鬱は私の昔の姿であった……。憂鬱な感情をしばし忘れていたが、私は少なくとも憂鬱と共に時を過ごしていたわけだ。憂鬱や自責が、忌まわしいものでなくなった。自戒は誰にでも必要な事柄である。自戒によって人は本来の生活に戻ることができる。自戒もたまにはいいということだ……ところで自戒とはキリスト教由来のものなのだろうか。ドイツ人の精神的なもの……魂を戒めること……。ある種の節制。節制された魂は健康な人生を送るきっかけになるのだ。あまりに自己セミナー的だろうか? しかし正しい自己啓発にいたるのがどれだけ難しいことか……。

 自責の受忍、憂鬱へ陥ることの勇気。それがあれば大丈夫だ。私は魂の節度を語っていたのだ!

 誰も死なない。誰も、何も、言葉も、塵のひとつでさえ……。

(「In rhythm3」 これで了)


******あとがき  In ryhthm 3 とは

 「インリズム3」とは、断章形式の哲学文、詩です。
いったい何に影響を受けてこういう作品を書いたのか、と聞かれた時、ジャック・デリダの散文や、カフカの日記、ジッドの日記などを挙げたのですが、意外にもこういう形式は多い。
 今日発見したのでいうと、日本の哲学者(死んでいる)の大森荘蔵なんかも、断章形式の書物を遺しています。

 個人的には、詩と哲学の中間だと思っています。切り分けられない。
こういうのを書くのはたまらなく楽しかった。 ここにも発表できたことをうれしく思います。
 「In rhythm」じたいは続いていくのかもしれません。

misty 

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