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- 04/27 [PR]
- 11/20 アベノミクスについて
- 11/03 溶け合うこと―朝吹真理子『きことわ』
- 11/02 よしもとばなな『すばらしい日々』―死と生について
- 10/29 卑しき人間(1)―資本主義=現実のあらわれかた
- 10/21 経済的生統治―無関心的労働者の倫理?
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実際、アベノミクス、ないしイギリスのサッチャーが敢行したような新自由主義政策は、一貫していて、物分りが良い。競争原理主義は、シンプルな考えに裏打ちされている。
人は、スタート地点で、みな平等である。この分かりやすい思想は、平等の概念を使っている(改めて確認されるべきことがらである!) それを『差異と反復』のドゥルーズならば、悪しき同一性に根付いたものと厳しく批判するであろうが。
人は皆平等だから、あとはみなを分かつもの(差異づけるもの)は、努力と少しばかりの才能である。努力は誰の前にも公平に広がっている―それをするかしないかは、従って完全に君の自由(責任)だ。 また、ちょっとばかしの才能とあっては、誰しもがそれによる差別=差異化を認めざるを得ないだろう。
這い上がりたくば、努力しろ。 これがこの思想の原理である。
安倍政権は、じつにこの1年間の間、それまでの短命政権を覆すかのように、ある程度の支持率を得てきた。
適菜収『B層の正体』は、小泉政権下で行われた郵政民営化政策が、一定の文化的・知能的傾向性を示す「B層」国民を主なターゲットにして勧めたことを仮説している(詳しくは同書を参照)。 単純明快なアベノミクスも、同じように分かりやすい理想主義で、大衆の追認を獲得していっているのだろうと思われる。
簡単なスローガン、簡単な支持。私が何を言いたいかはもう分かるだろう。
そのような政治が過去にいったいどれだけの悲惨を招いてきたか、もはや私たちは忘れたのだろうか?
(了)
人は、スタート地点で、みな平等である。この分かりやすい思想は、平等の概念を使っている(改めて確認されるべきことがらである!) それを『差異と反復』のドゥルーズならば、悪しき同一性に根付いたものと厳しく批判するであろうが。
人は皆平等だから、あとはみなを分かつもの(差異づけるもの)は、努力と少しばかりの才能である。努力は誰の前にも公平に広がっている―それをするかしないかは、従って完全に君の自由(責任)だ。 また、ちょっとばかしの才能とあっては、誰しもがそれによる差別=差異化を認めざるを得ないだろう。
這い上がりたくば、努力しろ。 これがこの思想の原理である。
安倍政権は、じつにこの1年間の間、それまでの短命政権を覆すかのように、ある程度の支持率を得てきた。
適菜収『B層の正体』は、小泉政権下で行われた郵政民営化政策が、一定の文化的・知能的傾向性を示す「B層」国民を主なターゲットにして勧めたことを仮説している(詳しくは同書を参照)。 単純明快なアベノミクスも、同じように分かりやすい理想主義で、大衆の追認を獲得していっているのだろうと思われる。
簡単なスローガン、簡単な支持。私が何を言いたいかはもう分かるだろう。
そのような政治が過去にいったいどれだけの悲惨を招いてきたか、もはや私たちは忘れたのだろうか?
(了)
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***
昔書いた短い文章ですが、ふと思ったので、再掲。
この頃はたぶんドゥルーズの『批評と臨床』を読み終わって深く影響していて、ドゥルーズの文体・思想ともども多く引きづられています笑
***
昔書いた短い文章ですが、ふと思ったので、再掲。
この頃はたぶんドゥルーズの『批評と臨床』を読み終わって深く影響していて、ドゥルーズの文体・思想ともども多く引きづられています笑
***
溶け合うこと―朝吹真理子『きことわ』
物と物との間の区別、あるいは2つの領域の間がどうでもよくなるくらいに曖昧になって、或いはそれらが一つの<場>を形成していく、そのことのカタルシス。たとえば、夢/現実の区別。永遠子の夢は、現実の現実性(レアリテ)そのものに対して強い楔を打ち込み、その夢もまた消去して/されて、2つの領域をどうでもよくさせる。現実にいったい何の力があるというのか(そして夢とは何と強力であるか)。また、この物語は記憶をめぐる系列(セリー)にも関わっている。二人が再会する葉山町の家は完全に時間軸を狂わせる。そこでは断片化された記憶が交互に展開され、狂おしい生を余儀なくさせる。狂気と表裏である美しさ。
それにしても何と朝吹氏の文章はきれいであることか。彼女の美学としてのエクリチュールが『きことわ』でも全面に展開されている。
(了)
生と死ではない。死と生である。あるいは、生の中に死が含まれている。
大切なのは、よしもとばななは必ず「生」を肯定する作家だということである。生の中に死が含まれている、「だからこそ」彼女は生の世界に開かれたあらゆる輝かしいものの空気を胸いっぱいに抱く。
最新エッセイ『すばらしい日々』では主に、「老いていく人」、「死んでいく人」が語られる。それと同時に、よしもと氏の若かりし頃から子供を持つ大人へと至る、「なりつつbecoming」あるいは変化が挿入される。しかしこれは端に、「老い」について書きました、「死」について書きました、というものではない。人が変化すること、生命がその姿を変えつつあること。それらの喜びと悲しみ、途方もない感情を素朴な語りで描写していく。
本書では、よしもと氏の短い文章に、一つ一つ綺麗な写真が付される。構成上の装飾か、と思って最後まで読み進めると、それらについての理由が明かされる(それについては後に書く)。
印象的なパッセージの中から一つ引用してみよう。
…人がいちばん恐れているのはきっとあの夜が来ることなんだと思う。だからみな宗教にすがったり、お祈りしたり、健康診断に行ったりするんだろう。
さっきまで、昨日までなんでもなかったのに、病気が、事故が、突然に生活の全てを終えてしまう。
まるで楽しいことをしている間は、こわいことに目をつぶっていなくてはいけないと思っているかのように、私たちは生きている。(『すばらしい日々』pp100-1)…
「あの夜」とは、象徴的にいえば、(家族やもしかしたら私自身の)「病気」や、震災や台風、自動車衝突などの「事故」がやってきてしまう、そのことである。哲学者のドゥルーズはこういったものを「出来事」と呼ぶ。私たちの思考(…には備えておこう、~に準備しておこう)とは何の関係もない所で断絶的に起こる出来事。
出来事はいつも常に事後的にやってくる。私たちはだから、それが「起こってしまった」あとしか目にできない、理解できない。突然の老いや死は、いつもそんな形で私たちの前に姿をあっけもなく表す。
だから、私たちはそれのあまりの唐突さと怖さ(暴力、とも言い換えられるだろう―)に蓋をするかのように、宗教に入ってみたり、あるいはそうでなくとも健康診断に神経症的にすがってみたりする。そこでは宗教も健康診断も違いはないのだ。出来事のあまりの恐ろしさに、弱い人間はそれ自体でたちうちできない。
そうした弱い人間である私たちは、「出来事」に、どうやって構えていれば良いのだろうか。よしもとばななは、最終章の「歳を取る」で、じつに驚異的なまでに圧倒的なパッセージを連ねていく。長くなるが引用しよう。
…この本の中には淋しい話題が多かったから、きらきらした写真を撮ってほしかった。きらきらして、地に足がついていて、この世の美しさを祝福するような写真を。ちほちゃんはその期待の全てを理解し、すばらしい写真をいっぱい撮ってくれた。全部の写真を振り返ると、ここ数年の、いろんなことがあったふたりの思い出もみんなつまっていて、胸がいっぱいになった。
最後にはいっしょに九州に撮影の旅に行き、由布岳を望むでっかい露天風呂に大の字になってつかったり、いっしょに道に迷いながら山奥の秘湯に行って、私の家族とみんなで湯上りに涼しい風に吹かれたりした。最終日には高速を飛ばして大都会博多に降り立ち、中洲の屋台街のイケメンたちを眺めたり、まだ陽がある夕暮れの明るい川に映るネオンを見たり、鉄鍋餃子を食べに行ったりした。(中略)
どれもが思い出深い幸せな時間だった。(『すばらしい日々』pp111)…
終わりは、出来事は、変化は、いつやってくるか分からない。やってきたときには、もう時すでに遅しだ。だから私たちがそれでもできることといえば、そういった死や変化のことを正面から捉え、そして目の前にある小さな幸せを存分に引き伸ばすことだ。それだけで、日々はこんなにも素敵なものになる。輝かしい、びっくりするくらいに生命力と感動に溢れたものになる。
装飾でしかないと思っていた本書の数々の写真がばなな氏の友達(でもあるフォトグラファー)が、氏のそんな意向を理解しつつ作品に綴じたと分かったとき、写真のあまりのまばゆさに私は大泣きしてしまった。あまりにも綺麗すぎるのだ。そして切ない。
死を想い、それでも残された生を存分に引き受ける―それはこんなにもたくましいことなのだ。
最後に。『すばらしい日々』の表紙となっているのは、父の吉本隆明氏の血糊のついた手帳である。父・吉本隆明氏の家族としての姿の描写としても、本書は大きなものを提示しているだろう。
(了)
大切なのは、よしもとばななは必ず「生」を肯定する作家だということである。生の中に死が含まれている、「だからこそ」彼女は生の世界に開かれたあらゆる輝かしいものの空気を胸いっぱいに抱く。
最新エッセイ『すばらしい日々』では主に、「老いていく人」、「死んでいく人」が語られる。それと同時に、よしもと氏の若かりし頃から子供を持つ大人へと至る、「なりつつbecoming」あるいは変化が挿入される。しかしこれは端に、「老い」について書きました、「死」について書きました、というものではない。人が変化すること、生命がその姿を変えつつあること。それらの喜びと悲しみ、途方もない感情を素朴な語りで描写していく。
本書では、よしもと氏の短い文章に、一つ一つ綺麗な写真が付される。構成上の装飾か、と思って最後まで読み進めると、それらについての理由が明かされる(それについては後に書く)。
印象的なパッセージの中から一つ引用してみよう。
…人がいちばん恐れているのはきっとあの夜が来ることなんだと思う。だからみな宗教にすがったり、お祈りしたり、健康診断に行ったりするんだろう。
さっきまで、昨日までなんでもなかったのに、病気が、事故が、突然に生活の全てを終えてしまう。
まるで楽しいことをしている間は、こわいことに目をつぶっていなくてはいけないと思っているかのように、私たちは生きている。(『すばらしい日々』pp100-1)…
「あの夜」とは、象徴的にいえば、(家族やもしかしたら私自身の)「病気」や、震災や台風、自動車衝突などの「事故」がやってきてしまう、そのことである。哲学者のドゥルーズはこういったものを「出来事」と呼ぶ。私たちの思考(…には備えておこう、~に準備しておこう)とは何の関係もない所で断絶的に起こる出来事。
出来事はいつも常に事後的にやってくる。私たちはだから、それが「起こってしまった」あとしか目にできない、理解できない。突然の老いや死は、いつもそんな形で私たちの前に姿をあっけもなく表す。
だから、私たちはそれのあまりの唐突さと怖さ(暴力、とも言い換えられるだろう―)に蓋をするかのように、宗教に入ってみたり、あるいはそうでなくとも健康診断に神経症的にすがってみたりする。そこでは宗教も健康診断も違いはないのだ。出来事のあまりの恐ろしさに、弱い人間はそれ自体でたちうちできない。
そうした弱い人間である私たちは、「出来事」に、どうやって構えていれば良いのだろうか。よしもとばななは、最終章の「歳を取る」で、じつに驚異的なまでに圧倒的なパッセージを連ねていく。長くなるが引用しよう。
…この本の中には淋しい話題が多かったから、きらきらした写真を撮ってほしかった。きらきらして、地に足がついていて、この世の美しさを祝福するような写真を。ちほちゃんはその期待の全てを理解し、すばらしい写真をいっぱい撮ってくれた。全部の写真を振り返ると、ここ数年の、いろんなことがあったふたりの思い出もみんなつまっていて、胸がいっぱいになった。
最後にはいっしょに九州に撮影の旅に行き、由布岳を望むでっかい露天風呂に大の字になってつかったり、いっしょに道に迷いながら山奥の秘湯に行って、私の家族とみんなで湯上りに涼しい風に吹かれたりした。最終日には高速を飛ばして大都会博多に降り立ち、中洲の屋台街のイケメンたちを眺めたり、まだ陽がある夕暮れの明るい川に映るネオンを見たり、鉄鍋餃子を食べに行ったりした。(中略)
どれもが思い出深い幸せな時間だった。(『すばらしい日々』pp111)…
終わりは、出来事は、変化は、いつやってくるか分からない。やってきたときには、もう時すでに遅しだ。だから私たちがそれでもできることといえば、そういった死や変化のことを正面から捉え、そして目の前にある小さな幸せを存分に引き伸ばすことだ。それだけで、日々はこんなにも素敵なものになる。輝かしい、びっくりするくらいに生命力と感動に溢れたものになる。
装飾でしかないと思っていた本書の数々の写真がばなな氏の友達(でもあるフォトグラファー)が、氏のそんな意向を理解しつつ作品に綴じたと分かったとき、写真のあまりのまばゆさに私は大泣きしてしまった。あまりにも綺麗すぎるのだ。そして切ない。
死を想い、それでも残された生を存分に引き受ける―それはこんなにもたくましいことなのだ。
最後に。『すばらしい日々』の表紙となっているのは、父の吉本隆明氏の血糊のついた手帳である。父・吉本隆明氏の家族としての姿の描写としても、本書は大きなものを提示しているだろう。
(了)
卑しき人間がいる。いつの時代でも彼らは、世間に多くの空間を占め、のみならず我々が人間の代表であると嘘の表象=representeをしてきた。彼らは主に資本主義体制や堕落した政治システムの再生産を支えて「しまう」立場を自ら積極的に引き受けている。そこに彼らの帰責性がある。
他方で、個人主義時代の責任のたらい回しの理路は煩雑を極めている。責任に対する考え方は、責任が如何にあるのかという構成的=法学的な理路から、じょじょに責任の所在の配分をどうするかというエコノミー的な理路へとその重心を移しつつある。卑しい人間がそもそもの事の発端であるかもしれないのに? 問題はあまりにも山積みになり、それはすでに瓦解しているというのに、卑しき人間はそれを自己のものとして引き受けない。貧しい精神はどこまでも貧しい。
ここでは闘うこの私は誰か、及びこの私の立ち位置はどこかという問いは後々追補的に語られるということにしよう―。私たちは認識を改めなければならない。
他方で、個人主義時代の責任のたらい回しの理路は煩雑を極めている。責任に対する考え方は、責任が如何にあるのかという構成的=法学的な理路から、じょじょに責任の所在の配分をどうするかというエコノミー的な理路へとその重心を移しつつある。卑しい人間がそもそもの事の発端であるかもしれないのに? 問題はあまりにも山積みになり、それはすでに瓦解しているというのに、卑しき人間はそれを自己のものとして引き受けない。貧しい精神はどこまでも貧しい。
ここでは闘うこの私は誰か、及びこの私の立ち位置はどこかという問いは後々追補的に語られるということにしよう―。私たちは認識を改めなければならない。
無関心的労働者の倫理と言ってみるものの、階級としての労働者の倫理などというものがあるのかどうか分からない。というのは、日本においては階級意識は最近になってますます曖昧なものになってきているのだ。
もちろん、階級と階級意識は違う。階級が構造的なのに対し、階級意識はあくまで個人が読み取りうるものぐらいのものであって、階級意識がないからといって階級が構造として存在していないとはいえない。
日本において階級、とくに使用者(資本家)と労働者の階級の主題をどう考えればよいだろうか?
というのは、私は日本の労働者はますます自身の<労働者>という構造ないし立場に絡め取られてしまっているがあまり、階級としての問題構成=闘争への権利を打ち立てることができないように感じるのである。
上野千鶴子の近著『女たちのサバイバル』で見事に描かれているような、抑圧・従属を強いられるものとしての労働者(階級)は強調しても強調しすぎることはない。
私は思うのだが、マルクスはあえて階級という概念を使うことで、この階級そのものを武器として労働者側に持たせたかったのだ、という風に考えていたのではなかろうか。
しかし日本においては、階級を意識する場面が減ってきている。それはひとえに、表面的個人平等主義の思想が平板化したことによるものなのかもしれない。
疎外論には、それに追加されるべきもうひとつの段階がある。それは、疎外された状態が常態化ないし再生産されるという段階だ。
<疎外される>(労働から、政治から)という悲劇的な状況が、なおも繰り返し再生産されることによって、人はたんに疎外されたというのではなく、無<力>として位置づけられる。
無関心的政治市民とは、もはや政治市民ではない。同じように、自己の労使の過酷さとそれを問題視することができない「無関心的」労働者は、もはや労働者とはよべないのではなかろうか?
これを闘争する労働者と、<無力>の人たち、と区別することもできる。 闘争する労働者の倫理は、マルクス主義にとっての要の武器である。
しかるに、疎外とそれの常態化を必然的に・偶然的にもたらす政治・経済の場面においては、歴史から排除される<無力の人たち>をも同時に生み出してしまうのだ。
もはや<無力の人たち>にとっては、階級意識の不在はそもそも問題とすらなっていない。彼らは端的に人間ではないのである。 ここに現代の労使ー経済空間における、最高度の生統治の姿を見て取ることができる。 人は、人間(資本家、闘争する労働者)と、非人間(<無力の人たち>)に、構造的に分割されてしまうのだー。
(了)
もちろん、階級と階級意識は違う。階級が構造的なのに対し、階級意識はあくまで個人が読み取りうるものぐらいのものであって、階級意識がないからといって階級が構造として存在していないとはいえない。
日本において階級、とくに使用者(資本家)と労働者の階級の主題をどう考えればよいだろうか?
というのは、私は日本の労働者はますます自身の<労働者>という構造ないし立場に絡め取られてしまっているがあまり、階級としての問題構成=闘争への権利を打ち立てることができないように感じるのである。
上野千鶴子の近著『女たちのサバイバル』で見事に描かれているような、抑圧・従属を強いられるものとしての労働者(階級)は強調しても強調しすぎることはない。
私は思うのだが、マルクスはあえて階級という概念を使うことで、この階級そのものを武器として労働者側に持たせたかったのだ、という風に考えていたのではなかろうか。
しかし日本においては、階級を意識する場面が減ってきている。それはひとえに、表面的個人平等主義の思想が平板化したことによるものなのかもしれない。
疎外論には、それに追加されるべきもうひとつの段階がある。それは、疎外された状態が常態化ないし再生産されるという段階だ。
<疎外される>(労働から、政治から)という悲劇的な状況が、なおも繰り返し再生産されることによって、人はたんに疎外されたというのではなく、無<力>として位置づけられる。
無関心的政治市民とは、もはや政治市民ではない。同じように、自己の労使の過酷さとそれを問題視することができない「無関心的」労働者は、もはや労働者とはよべないのではなかろうか?
これを闘争する労働者と、<無力>の人たち、と区別することもできる。 闘争する労働者の倫理は、マルクス主義にとっての要の武器である。
しかるに、疎外とそれの常態化を必然的に・偶然的にもたらす政治・経済の場面においては、歴史から排除される<無力の人たち>をも同時に生み出してしまうのだ。
もはや<無力の人たち>にとっては、階級意識の不在はそもそも問題とすらなっていない。彼らは端的に人間ではないのである。 ここに現代の労使ー経済空間における、最高度の生統治の姿を見て取ることができる。 人は、人間(資本家、闘争する労働者)と、非人間(<無力の人たち>)に、構造的に分割されてしまうのだー。
(了)