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第四回目

(前回からの続き)

中身のないものをエンハンスするというのはどういうことか。これは、アイドルがかつて時代と親和的になったときを思い返せば良い。
 
1980年代は、中森明夫的な意味合いにおいても、浅田彰の言葉を借りても、”ネタ”や”シラケ”の時代であった。ボードリヤールのシュミラークル論が下敷きするように、いろんな価値が混迷しある意味において馬鹿馬鹿しくなったものを、「敢えて」取り上げて脱臼化させる、という態度決定が文化の中心的なモードであった。価値が希薄だからこそ、その希薄さを気軽に取り扱えるというわけだ。そこには理念も目的もない。あるのはシラケという態度だけだ。
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”ロコドル論”と題していた連載のタイトルを変えて、3回目である。

idols relativityとは、別に”アイドル戦国時代”でもよい。近況の、日本の2010年から現在までの、文化態様におけるアイドルと名指されるものの占める空間を指す。

 そこには私の一つの、まだ明確になっていない大雑把な見方がある。それは、アイドルというものの概念が価値変容を起こし「つつ」あるということ(多義的になりつつかつ一つの共通項をもっているように思われること)でもある。

 例えば、秋元康が真の卓越したプロデューサー、<起業家>であるかどうかは懐疑にかけられてよい。なぜなら、彼はおそらく彼の持ち前の勘とタイミングのみによってしばしばAKBグループを牽引し、しかし結果としてはAKBの空前的ヒットとその持続をもたらしめた。
 面白いのは、私たちの時代は、あたかも偶然のひと振りを歓迎しているかのようなのだ。神経症的な資本主義社会の原理からすれば、緻密なリスク計算と事前把握のみが、経済的成功をもたらすに違いない、と考えるのが普通であろう。彼はその常識を覆しているのである。
 とすれば、いったいぜんたい、私たちの時代はいったいどんな姿をしているのであろうか? 神経症的=資本主義的原理が必ずしも妥当しない範囲とは一体どんなものであろうか?

○ アイドルの内在的価値=意義

中森明夫が指摘するように(注:参考文献欠落)、アイドルの語源的意味は「偶像、空転」である。アイドルを応援するとは、偶像崇拝と等しいものであり、それでは偶像崇拝とは何かといえば、究極的には、中身がからっぽなものをエンハンスするということである。

(9/3 執筆)







(哲学的断片 8/31)

・他者への共感=理解の諸形態


他者を共感=理解することにおいて、第一の形態、推測によるものがある。推論ではない。「おそらく~であろう」という心情の記述を採ることが多い。
 この第一の形態は、一言でいって、その姿が曖昧である。というのも、後に述べるように、真の共感=理解の見せかけというかたちをとることがある。 第一の形態は、普遍的であり、大衆的ですらある。

第二の形態は、もっぱらこれを把握することが重要であるのだが、自己による理解の二重化、理解の波及とでもいうようなものである。自己の内において経験をし、その深みをする。

 私の考えでは、自己の哲学は、今までの西洋哲学の含蓄のなかである程度の完成をみていると思われるので、自己理解の詳細なパラフレーズは省く。しかし、この深化した自己理解が、他者の出現=発生のきっかけを与えることについては、更なる探求が必要であると考えられる。
 ともかく、第二の形態においては、それは見かけ上は自己ーのー内における、自己ーのー内の理解にすぎないのだが、他者と「根の芽」を発するような何かがある。「これはこういうことだったのかもしれない」という心情がなされるであろう。

 第三の形態、これが真の他者への理解=共感の姿である。それは、前述のように、見かけは第一の形態、すなわち推測によるもの、のかたちをとる。しかし、それは圧倒的に他者を包み込み、やがては世界=理解にも至るような、圧倒的理解である。

 以上のすべての形態は、観察、経験可能なものであり、分かっていることだけを記述したにすぎない。
そこで各々の形態がどのように関係しているかについて考察するに、やはりそれは第一の形態と第二の形態との綜合によって、第三の形態が得られるように思われる。
 真なる理解=共感への道のりを、だから、段階的、ステップとして捉えることも可能であるように思われる。

以上

日本のロックバンド、THE NOVEMBERS。

この記事はもっぱら主観的になることをお許しいただきたい。
ノーヴェンバーズは前から大のお気に入りだったのだが、最近、僕の中では、このバンドこそ今の日本ロックの頂点だと強く感じるようになった。

対比として出したいのが、ミッシェル・ガン・エレファントだ。
TMGEの影響力は、国内にとどまるものの、誰も否定できないのではなかろうか。彼らの登場、活躍、そして華麗すぎるさり方、その挙動の全てに、魅了されたファンは多いはずだ。

それだけではない。ミッシェルの登場は、一バンドが活躍していたという事柄を超えるものがあった。
それは皮肉にも、彼らの解散後、ミッシェルが神格化されていくということに証拠を見出す。
遡及的な視点においては、彼らは神そのものであった。 というか、あれほどまでに独自のスタイルをもって音楽を表現したバンドは、ついぞほかに類を見ない。

THE NOVEMBERSは、私の中で、いまそういったミッシェルと、似た立場にある。

一つは彼らの天性だ。ノーヴェンバーズのフロントマン・小林祐介がかく歌、それをアレンジするバンド音は、百歩譲っても、非常に複雑な構造であることが多い。
 彼らが初期の頃から一貫して使っている変拍子。しかもそれらは毎回新作を出すごとに進化をしている。
ギターの掛け合いもまた、このバンドサウンドの魅力の一つになっている。音の重なりを大変重視している様子が伺える。

難しいことの中に、バンドのグルーヴを出したり、キメを作ったりと、ライヴバンドとしての大事なこともやってのける。
天性に加えて、それをきっちりやってのけるという真摯さが、彼らを唯一無二のものにしている。

思えば、ミッシェルの曲はノーヴェンバーズのそれと比べると、曲の構造が複雑とか、そういうことはない。
しかし、あそこまでキリキリにダウナーで漢気のある表現にたどり着いていることを勘案すると、それはもう彼らの天性によるものでしかないと結論づけることがせいぜいだ。

それから彼らは、ともに新作を出すごとに深化、変容をとげているという点でも共通をしている。

ミッシェルについては、初期のポップで若さが前面に押し出された感じの曲調から、中期でミッシェルの代表期を作り上げ、後期ではガレージ・ロックを超えて音楽的な挑戦に挑むという語りが一般的である。

 ノーヴェンバーズはまだフルアルバムもミッシェルほどは多くないのだが、一つ、小林祐介自身が示した彼らの作品の区別が参考になる。

「THE NOVEMBERS」「picnic」 /「paraphilia」「Misstopia」/「To melt Into」「Two (holy)」/「GIFT」「Fourth Wall」

現時点でのノーヴェンバーズの作品区別は、今まで出されてきたミニアルバム・フルアルバムを、2作品ごとにわけているということになる。

私見では、To Melt Intoを特にミストピアの時期の作品と区別する必要はないと思うので、ここでは彼らがpicnicを初期の作品としていることに注目しよう。

picnicは彼らのアルバムの中でも人気が高い作品だが、それにはもちろんそれなりの理由がある。このアルバムは、すでに完成度が高すぎるのだ。当時彼らが持っていた技術や表現能力を、余すところなく発揮して作ったのがこのアルバム、であると思う。

それは裏を返せば、ノーヴェンバーズは「picnic」を超える作品を創り出すことができるのか? という問いが要求されることにもなる。しかし、彼らはその問いをいとも簡単に回避してみせた。 というか、次作のparafhiliaで、彼らはそれまでの既存のノウハウを使いながらも、ほとんど違う、別の表現の道へと至ったのである。

そしてその進化、変容は、現在のところの新作である「Forth Wall」にいたっても、ずっと続いている。彼らの作品はまったく予想できないのだ。それなのに、いつの間にか彼らの新しい世界観に強烈な感動をおぼえていることになる。つくづく不思議なバンドである。

類を見ない天性をもっていること、その使用をきっちりこなしていること、それから音の追求に貪欲でありバンドの進化、変容を考えていること。 これらは、別に必要条件なわけではない。

しかし、00年代のミッシェル・ガン・エレファントと、10年代のノーヴェンヴバーズを比較してみたとき、それらの点が共通点として浮かび上がってくるというのはなかなか面白い事である。

ミッシェルは、アベ氏の痛ましい死により、物理的にサウンドが現動化することはないが、ノーヴェンバーズはこれからも生き続ける。

(了)
 






ロコドル論

(承前)

 それでは、第一の比較対象としての全国型アイドルを見ていこう。

前にも紹介した濱野氏の『前田敦子はイエスキリストを超えた』が参考になる。

 内容に入る前に、このタイトルのもっともらしい説明だが、これは濱野氏が結論としてシステム的AKBは、宗教という枠を超えた、超宗教として捉えたことを意味している。イエスキリストを預言者とするキリスト教は世界宗教であるが、AKBはさらに一歩踏み出した、概念を超えた産物であるという。
 濱野氏のこの主張に対しては、是非読者のみなさんがそれぞれこの本を手にとって最後まで読んで判断を下して欲しい。それくらい面白い主張である。


 さて、AKBの特徴として、濱野氏は以下のことを強調する。

 
隔たりがあるにもかかわらず、近接性(「会いに行けるアイドル」)を有するというパラドクス

 どういうことかといえば、要するにアイドルという存在は遠いのに、しかし同時に近すぎる存在でもある、その逆説的な様相がいっそう魅力的だ、ということである。

 AKBがヒットする前ならまだしも、大ヒットを迎えた後のAKBは確かに遠い存在として活躍していた。大衆に対する主たるイメージ作りの場が、テレビや広告などのマス・メディアだったことは指摘しておいて良い。

さらにこの隔たりというのは、空間的な意味合いに加えて、心理的な意味合いもある。

 これは全国型アイドルに限らないのだが、アイドルはファンとリアルの愛を交わしてはいけない。 ファンはリアルなつながりを欲望しても、その回路は構造として断ち切られている。構造として、というのは、決まりとして、という意味である。
 その証拠が、アイドルとファンが実際に私的交流をもった場合は、スキャンダルとして扱われる。そのアイドルは厳しいバツを与えられ、ファンも応援することから撤退させられる。

隔たりとは、立ち位置としてファンとアイドルとのキョリが遠い、そして心理的にも両者が一つに結びつくことはあらかじめ禁じられていることを差す。

 それでは、パラドクスを形成する近接性とは何だろうか。

(続く)

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