![]() |
- 03/10 [PR]
- 10/19 time is money/「本を読む」時間を奪うことについて
- 10/03 連載 第五回 第二次アイドル時代とその哲学
- 10/01 ホッブズ論 続き
- 09/30 ファッションの原理
- 09/27 ホッブズの国家とアーキテクチャ論
Title list of this page
Time is money. という文章をテクストとして解釈しよう。
その際、通常の読みでは、これは比喩を表す文章であるということになる。
つまり、Time is like money、時間とはお金のように貴重なものだ、ということを含意している言葉ということになる。
おそらく私たちはこの”普通の読み方”を忘れてしまっている。というのも、このテクストは第二の読み方ができるのである。つまり、isは本来的な等価関係を示す記号として働くということである。第二の読みでは、まさに「時間とはお金のことである」という(単純だが恐ろしい)読みになるのだー。
時給という考え方は、時間を計量化し、さらに私たちの身体を労働力の源泉として組み込むことを前提としている。じっさい、人々は時間によって縛られるのではない。時間=お金、時間=貨幣という後期キャピタリズムの恐ろしき要素によって脅かされているというわけだ。
この<時間=貨幣>は、時間というカテゴリと貨幣というカテゴリを生統治という名のもとに結びつける。時間が貨幣をうみ、貨幣が時間を産むというこの悪魔のスパイラルは、いったんはじまると、その規約が破壊されないかぎり永遠に続いていく。
じつに昨今の社会人は、例えば本を読むという、仕事以外の時間の過ごし方を奪われてしまっている。本を読む行為は貨幣を直接的にもたらさない。また、間接的にもたらすとしても、それは本を読むという行為を資本という概念に還元してしまうという、いささかも資本の支配する領域から超え出ないことになるだろう。
このとき、時間は仕事によって貨幣を生み出すためのものだ、という定式を、相対化させることが何よりも大切なのではなかろうか。
それは上の、Time is money.の第一の読みを復活させることにもなる。 時間とはお金のことではない。時間は例えば一つはお金のように、われわれにとって大切なものなのだということだ。
フーコーが『ヘテロトピア』で示したように、墓場や図書館では異質の時間/空間性が規定されている。 もっと突き詰めていうと、本を読むという行為は時間と空間を改変させる可能性を多く孕んでいるのだ。一冊の本を読んでいたらいつの間にか真夜中だったとか、私の心は読書中は我ここにあらずだ、とかいったものだ・・・。
その時私たちは、時間の使い方が決して一様ではないことを思い知るだろう。そのとき、Time is money、すなわち”時間はお金のように貴重なものである”ということの真の意味が分かるだろう。 時間の使い方の多様性ゆえ貴重であるということを。
小旅行、ネットへのこもり、消費行為、私たちの日常から解放をうながす闘争=逃走行為はたくさんあるが、中でもこの<本を読む>という行為は、比較的行いやすい。案外、わずかな決心さえあれば簡単なものだ。
本を読むビジネスマン。ヘーゲルを読むビジネスマン、上野千鶴子を読むOL、ブランショを読む経営者。
(了)
その際、通常の読みでは、これは比喩を表す文章であるということになる。
つまり、Time is like money、時間とはお金のように貴重なものだ、ということを含意している言葉ということになる。
おそらく私たちはこの”普通の読み方”を忘れてしまっている。というのも、このテクストは第二の読み方ができるのである。つまり、isは本来的な等価関係を示す記号として働くということである。第二の読みでは、まさに「時間とはお金のことである」という(単純だが恐ろしい)読みになるのだー。
時給という考え方は、時間を計量化し、さらに私たちの身体を労働力の源泉として組み込むことを前提としている。じっさい、人々は時間によって縛られるのではない。時間=お金、時間=貨幣という後期キャピタリズムの恐ろしき要素によって脅かされているというわけだ。
この<時間=貨幣>は、時間というカテゴリと貨幣というカテゴリを生統治という名のもとに結びつける。時間が貨幣をうみ、貨幣が時間を産むというこの悪魔のスパイラルは、いったんはじまると、その規約が破壊されないかぎり永遠に続いていく。
じつに昨今の社会人は、例えば本を読むという、仕事以外の時間の過ごし方を奪われてしまっている。本を読む行為は貨幣を直接的にもたらさない。また、間接的にもたらすとしても、それは本を読むという行為を資本という概念に還元してしまうという、いささかも資本の支配する領域から超え出ないことになるだろう。
このとき、時間は仕事によって貨幣を生み出すためのものだ、という定式を、相対化させることが何よりも大切なのではなかろうか。
それは上の、Time is money.の第一の読みを復活させることにもなる。 時間とはお金のことではない。時間は例えば一つはお金のように、われわれにとって大切なものなのだということだ。
フーコーが『ヘテロトピア』で示したように、墓場や図書館では異質の時間/空間性が規定されている。 もっと突き詰めていうと、本を読むという行為は時間と空間を改変させる可能性を多く孕んでいるのだ。一冊の本を読んでいたらいつの間にか真夜中だったとか、私の心は読書中は我ここにあらずだ、とかいったものだ・・・。
その時私たちは、時間の使い方が決して一様ではないことを思い知るだろう。そのとき、Time is money、すなわち”時間はお金のように貴重なものである”ということの真の意味が分かるだろう。 時間の使い方の多様性ゆえ貴重であるということを。
小旅行、ネットへのこもり、消費行為、私たちの日常から解放をうながす闘争=逃走行為はたくさんあるが、中でもこの<本を読む>という行為は、比較的行いやすい。案外、わずかな決心さえあれば簡単なものだ。
本を読むビジネスマン。ヘーゲルを読むビジネスマン、上野千鶴子を読むOL、ブランショを読む経営者。
(了)
PR
第五回
間奏エッセイ 愛と抵抗なる場
縮減していく親密圏、といったイメージがある。かつての公私二分論が下敷きとしていたような、豊富な私的領域というのが、今現在とても私にはイメージできない。
本当に気の置ける、<公>publica には影響を及ぼすことの無い場というのは、その定義を明確にすればするほど、それに該当するものは縮減する。あるいは、<公>と<私>の範囲が極端に分離している。そしてそのあいだに、まだ理論にいたらない場ができつつある。
例えばアイドル現場(という空間=場)は、その経済学的機能をかんがみると、市場の一つなので<私>の領域に当たる。しかし、私たちはそこで自己の欲求のみによって動いている訳ではないのだ。
そこには、運営ーメンバーーファン(水平的関係)、ファンの内部( 垂直的関係)といった実に複雑なアクターが絡んで働いている。そこで自己は、自己以外の他のアクターの言動との関係の中で、行為を振る舞うということに成る。
アイドル現場は、総体として、半ー公共的な性格を帯びることに成るのである。
さて、最近は”リア充”、”非リア充”といった言葉がもてはやされている。
これは、親密券におけるロマンチシズムの過剰台頭に他ならない。
(続く
間奏エッセイ 愛と抵抗なる場
縮減していく親密圏、といったイメージがある。かつての公私二分論が下敷きとしていたような、豊富な私的領域というのが、今現在とても私にはイメージできない。
本当に気の置ける、<公>publica には影響を及ぼすことの無い場というのは、その定義を明確にすればするほど、それに該当するものは縮減する。あるいは、<公>と<私>の範囲が極端に分離している。そしてそのあいだに、まだ理論にいたらない場ができつつある。
例えばアイドル現場(という空間=場)は、その経済学的機能をかんがみると、市場の一つなので<私>の領域に当たる。しかし、私たちはそこで自己の欲求のみによって動いている訳ではないのだ。
そこには、運営ーメンバーーファン(水平的関係)、ファンの内部( 垂直的関係)といった実に複雑なアクターが絡んで働いている。そこで自己は、自己以外の他のアクターの言動との関係の中で、行為を振る舞うということに成る。
アイドル現場は、総体として、半ー公共的な性格を帯びることに成るのである。
さて、最近は”リア充”、”非リア充”といった言葉がもてはやされている。
これは、親密券におけるロマンチシズムの過剰台頭に他ならない。
(続く
今手元にあるのは『現代思想 特集ホッブズ』、それから長谷部恭男『法思想史』等なのだが、前者はまだ1、二論文を読んだばかりなので、後者から扱う。
後者の長谷部によるホッブズ理解をすすめると、やはりそこには自然状態におけるホッブズ的人間観がとりわけ大切になっている。
ホッブズは個としての人間を主眼におき、人間論を完成させたかもしれない。
しかしその個としての人間は、他の人間との相互作用によって、つまり関係性によって、危機つまりはコンフリクトを生み出す。
生命の奪い「合い」、財産の奪い「合い」になるのも、そうした人間のネットワークが想定されているからに違いない。
万人の万人に対する闘争・・・。いったいこの文言は何を意味しているのであろうか?
ところで人間の関係(性)といったものは、コンテクスト(文脈)やシステム(体系)といったものと等値で考えることができる。
その証拠に、前述の長谷部によるホッブズ理解については、かの有名なゲーム理論の単純図式が用いられている。これは一つの視点による全体理解を避け、総合的な視点から現象を読み解こうとするものである。
ホッブズはそういった意味でも、誰にも先立つシステム論者であったと言えるかもしれない。
(続く)
@ファッションの原理
衣服は、いつの間にか与えられるものとなってしまった。「衣食住」の概念(それは「衣服」が根本的に人間生活にとって必要不可欠物であることを示唆する)は、現代にこれほどまでに多岐にわたった様々な差異から成るファッションの世界を語り尽くせるだろうか? 答えは否である。文化記号論が指すように、商品としての衣服は浮遊する記号として機能する。そして私たち消費者は記号を消費しているのだ。例えばほとんど身に付けているとは言い難いファッションをどう理解すべきなのだろうか。
記号は偶然性の所与として機能する。つまり、衣服は、他の人みんなが着ているから、そして自分も着させられているから・・・という風にだ。第一段階として、衣服は私たちの外部である。それは外からやってくる。とってつけたような生来説が適当な正統化理由として存立し、私たちは記号の消費に戯れる。
ここで、『抵抗の快楽』等の著者・フィスクの説を取り上げるならば、それは多分に消費社会の原理には、消費への欲望と消費そのものに内在する抵抗的要素とが入り交じっているということである。
人はやがて理解するであろう。そもそも、この衣服が、絶対的に必要不可欠なものとする理由は、何も無いことに。
私たちは、二段階目に至って、抵抗への序章として、衣服を剥ぎ取る。それはもっぱら抽象的な意味合いにおいてである。私たちは自分そのものの起源、オリジナルティを探求する過程において、記号たる衣服が果たす役割をゼロにする。少なくとも、ゼロを目指す。
ファッションは、真にこの第二段階からはじまる。つまり、真の意味で、自分と衣服との関係を問うのである。私たちは、ひつ当然的に、いわば内から要請される衣服を、探し求め、自分とともに構築する。それは自分への新たなる見直しといったいである。このとき、衣服は自己の一部として、新たなる自己の一部として生成変化を遂げるであろう。
ファッションとは、衣服を着る自分とは何かと根源的に問い直すことでもある。そしてその問い直しは、積極的実践として、生涯を通じて行われるものになるだろう。だからといって常成る差異の内に戯れる訳でもないということはお分かりだろう。ファッションはいつも一つの自己への批評である。
(了)
衣服は、いつの間にか与えられるものとなってしまった。「衣食住」の概念(それは「衣服」が根本的に人間生活にとって必要不可欠物であることを示唆する)は、現代にこれほどまでに多岐にわたった様々な差異から成るファッションの世界を語り尽くせるだろうか? 答えは否である。文化記号論が指すように、商品としての衣服は浮遊する記号として機能する。そして私たち消費者は記号を消費しているのだ。例えばほとんど身に付けているとは言い難いファッションをどう理解すべきなのだろうか。
記号は偶然性の所与として機能する。つまり、衣服は、他の人みんなが着ているから、そして自分も着させられているから・・・という風にだ。第一段階として、衣服は私たちの外部である。それは外からやってくる。とってつけたような生来説が適当な正統化理由として存立し、私たちは記号の消費に戯れる。
ここで、『抵抗の快楽』等の著者・フィスクの説を取り上げるならば、それは多分に消費社会の原理には、消費への欲望と消費そのものに内在する抵抗的要素とが入り交じっているということである。
人はやがて理解するであろう。そもそも、この衣服が、絶対的に必要不可欠なものとする理由は、何も無いことに。
私たちは、二段階目に至って、抵抗への序章として、衣服を剥ぎ取る。それはもっぱら抽象的な意味合いにおいてである。私たちは自分そのものの起源、オリジナルティを探求する過程において、記号たる衣服が果たす役割をゼロにする。少なくとも、ゼロを目指す。
ファッションは、真にこの第二段階からはじまる。つまり、真の意味で、自分と衣服との関係を問うのである。私たちは、ひつ当然的に、いわば内から要請される衣服を、探し求め、自分とともに構築する。それは自分への新たなる見直しといったいである。このとき、衣服は自己の一部として、新たなる自己の一部として生成変化を遂げるであろう。
ファッションとは、衣服を着る自分とは何かと根源的に問い直すことでもある。そしてその問い直しは、積極的実践として、生涯を通じて行われるものになるだろう。だからといって常成る差異の内に戯れる訳でもないということはお分かりだろう。ファッションはいつも一つの自己への批評である。
(了)
学生時代、ホッブズが動乱の社会の中で主著「リヴァイアサン」などを書かざるを得なかったことを紛争管理論の教授から力説されたことを思い出す。
コンフリクト(争い、紛争)を最小限にすること―。ホッブズの社会契約論の目的は、そこにあったと、私は考える。
前国家的な戦争状態には、おそらく生命の奪い合い、すなわち殺し合いや、財産の奪い合いといった事態がメインで考えられていたと思うが、この”戦争状態”は究極的には、絶えざるコンフリクトの発生を指すものと考えられる。
生命の奪い合い、財産の奪い合い、人間社会におけるコンフリクトの内的原因は、人間関係の不調和である。人間社会はおよそあらゆるコミュニケーションから成り立つ。ディスコミュニケーションがコンフリクトの内的原因となる。