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ロコドル論 その存在の根拠理由 序章

 2010年代の時代精神(と形容されるような何か)、人間という存在の形式を論ずるものの中に、AKBを導入するのは適切な方法だ。
 その論証に成功しているのは、濱野智史と宇野常寛というよく知られた者であろう。特に濱野氏の『前田敦子はキリストを超えた』は、新書というスタイルで荒削りなものの、非常に核心をついた良作である。

ここであえて、ポストAKBの時代精神を考察してみたい。その時論じる対象となるのはもちろんロコドル、今てんやわんやとなっている地方のアイドルたちである。

 実は、濱野氏と宇野氏はまだロコドルには正面きって論考をなしておらず、それは彼らのパフォーマンス地が東京という首都であることと大きく関係する。もちろん、東京にも地下アイドルは山ほど存在するが、それに濱野氏らが着目していないというのは少しヨワい。

 なぜなら、大衆の姿を描き出すのに、首都たる東京、全国だけを対象としては何も見えてこないからである。
というより、数的にも多くの人は、地方に住んでいる。ロコドルを論ずるとき、何よりも大切なのはまずこの点にある。

ロコドルは、AKBがヘビーローテーション以後の大ヒットを迎えるのに乗じて、それこそ虫の数ほど進出してきた。
ちなみに筆者は福岡在住である。後述するが、この福岡というのも、ほかに類をみないほど、地下アイドルの数が多く、決してそれらは一過性の、はたまたお遊びのレヴェルに終わっているものではなく、空気感そのものが異様なくらい盛り上がりを見せている。

 私事が続くのはためらわれるが、私はその福岡の箱崎地区を拠点とするHRというグループに深く浅くコミットしつつ、アイドルとは何だろうかという問いをずっと考え続けてきた。

その問いは、「なぜこれほどまでにアイドルは人を魅了するのか」という問いにも置き換えられる。

 全ての人がアイドルに魅了されるわけではない、ましてやアイドルを応援しているのはごく一部のオタクと呼ばれる人々だけだろうという反論はある。しかし私が言いたいのはそのようなことではない。

オタク文化、サブカルチャーを下敷きとして現代日本の文化精神をあぶりだすという手法も、だんだんメジャーになってきている。
 おそらく、上述の反論に完璧に応えるためには、そもそもオタクというものを今一度論じ直さなければならないのだろう。それを本稿では、間接的という形にせよ、答えていくことにもなろう。
 今簡単に言えば、オタクを論じるとき、その行為主体ではなく、もっぱら客体たるサブカルチャー作品の論になっているという面は否めない。
しかし当のオタクたる人たちそのものを考察対象にいれないで、オタクを媒介とした文化精神など語れるわけがない。

 本稿では、私という人間が、HRにハマった、そしておそらくこれほどまで強烈に感動を覚えて日々を生きている、その理由は何かが記述できる、ということを超えて、もう少し射程を広く、ロコドルの根拠理由を、ポストAKB時代というキーワードをもとにしながら、結論づける。

 今回は序章だが、まずいきなり結論の要約を提示しよう。

 ロコドルに若者オタクが感動できるのは、自己の生とアイドルたちの生とをその近接性により共感覚に結びつけることが可能であり、バラバラに寸断された個人が、他者とのゆるやかな結びつきの感覚を回復できる中で、まさに自己の生が実存的に拡張できる、そのことにある。

 細かい論証は後に譲るとして、以上の結論は、さらに次のことにより補強される。

ヘビーローテーション以後のAKBは、文字通り全国型のアイドルであった。このAKBの存在は、濱野氏の『前田敦子はキリストを超えた』が一番よく表現していると思われる。
 ロコドルを強調的に論ずるためには、この全国という対比に加えて、アーティストとの対比も必要不可欠になってくる。ももクロを加えるのもよかろう。

しかし、本稿の出発点は何よりも、世の多くの人たちは、地方に生きている、このことなのである。地方アイドルは、地方に存在する。確かに、彼女らはよりさらなる発展を目指して、上京ライヴを刊行したりもする。
 はっきりいってしまえば、東京でのライヴは、さらなる全国アイドルの再生産に過ぎない。しかし私が見たいのは、首都東京を基盤としない、いままでにない文化の形式である。
 それがロコドルの隆盛に深い次元でつながっているのではないかと確信しているのである。

(序章 終わり)


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不覚にも、また連載をはじめます←

今回は随筆です。

連載は、途中で構想が変わったりして、ポキリと折れて、なかなかうまくいかないが。
ある程度長い随筆を書くためにも、やろうかなと。。

小説Vague malの方も、ちょっと作業遅いですよね。すみません。
今テイタム・オニールでやってるほうの小説に力を注いでいるので、そっちがメインになっちゃうのです。

ということで随筆は久しぶり。
今日は第一回目です。



運動としての相対化

■基礎づけ

 絶対主義対相対主義という凡庸な問いに一応の答えを提示できると思われた。本論はその答え(というより、考えの傾き)を示し、そこからまだ先に進めるものである。
 絶対主義は、ある物事を事象の体系の中心に置く考えである。それに対して相対主義は中心性をずらす方向に働く。物語を語る際、絶対主義がもはや採用されないということについては、今さら説明を要することはないように思われる。というか、絶対主義はひとまず停止させたほうがよい。例えばあらゆる学は何らかの絶対的な真理を求めたものの、一つとして一般化=普遍化した定理にいたっていない。
 しかし相対主義にも限界はある。いわば相対主義の相対主義は一つの絶対主義になるという、一つの問題がある。あらゆるものを相対的とみなすのは、単なるニヒリズムにつながる。ニヒリズムとは絶対主義の変種である。
 ここではあらたな次元を、絶対主義を超えたものを見出さなければならない。それを私は「相対化」(の思考、哲学)と呼ぶ。絶対主義がある一定の中心点としてあらわされるのであれば、相対主義はそれを外延の方向まで動かすベクトルにあたる。外延(円周)そのものはニヒリズムである。



 実は、相対主義が死せるのは、その動きを停止させることにある。そうではなく、相対主義の有効な働きは、(絶対化された考えを)緩和させるその過程にある。Aだ、Aだという絶対主義者に対し、Aからいったん離れようと提示するのが有効な相対主義者である。それはひとつの運動、流れである。そして相対化は、まさしく止まることのない移動体としてある。相対化の思考は、物事を停止させない。常に動きの中にある。AからBへ、BからCへ、CからXへ…。定点を相対化の思考に求めてはならないのだ。
 考えもまた絶えず変更される余地を残すものである。変更が真理なのではない。そうではなく、変更されるということこそが、真理の条件なのである。

(続く)
@本を読むこと、文章を書くこと

 (本記事はエッセイなので、記述がやや適当です。)

 本を読むということが、ヨリ精神的なものに比重をおいた行為なのか、それとも身体的なものに比重をおいたものなのかという問いがあったとすれば、今の私は確実に後者を選ぶ。

 文章は、当然目でおっている。本を読むのは目の動きである。 たしかに、黙読というように、心の中で字句を反芻する。それはかなり精神的な行いのようにも思える。
 心の中で、字句を反芻するときは、シックリ感じていない時だ。難解な時とか、じっくり味わいたい時とか。
しかし、それ以外の場合は、文章はすっと、まさに自然に入ってくる。このとき、果たして言語は精神を経由するのだろうか?

私は日本人で日本語を母語として生きてきたから、日本語の作品を読むのに苦労はしない。そして、文章がすっと頭に入ってるなと感じている時のことを思うと、これはもう言語がダイレクトに身体に浸透しているのだと思うのだ。
言葉を浴びる、という表現があるが、まさにそれだ。

黙読と、ある意味での速読はそのような点において区別されるのだろう。つまり、黙読は精神を経由させる、速読は身体のみに関わってくる。
 物理的重みを持たない字句などというものがどうやって物体たるカラダに影響を及ぼすのか、と、物理=客観主義的科学は異を唱えるだろう。

 しかし、哲学を学ぶものとして主張するならば、速読とは優れて身体的行為であり、読む行為は身体に影響を与えるからこそいいのである。私たちは、いい本に出会ったとき、実にスピーディーに駆け抜け、文字通り体を震わせる。涙する。

 精神の存在を否定しているわけでない。精神というカテゴリは確実に存在するであろう。しかし、読む行為というのは現代の私たちが思う以上に、優れて物理的=身体的な行為なのだと思う。

こう私が力説するのは、(人間の)身体はまだまだ解明されていない、だから希望にも絶望にもつながるパワーを備えているからである。 奴隷のように扱われたら、人の体は本当に奴隷そのものになってしまう(爪はボロボロ、体はガタガタ)し、そこからの脱却を図るためには、祈りでなく、そう、精神的作用たる祈りでなく、身体的作用を伴った<祈り=革命>なのだ。

 それと、説明がとても面倒なのだけれども、精神をやや否定的に記述するのは、精神については哲学者は実に3000年もの間考え続けてきたのに、今となって<精神の哲学>はフーコーやドゥルーズらの現代思想によって終わりの鉄槌をくらっているからである。さしあたりヘーゲルの『精神現象学』やフッサールの著作を研究すればまた違うのかもしれないが、とにかく私の所感では、人間の精神だけをとりあげて人間社会の希望を考えるのは困難を極めているということ。

と、書きながら気づいたのだが、どうも黙読と速読は、本当に大変に違った行為だ。そして私たちは、何の苦もなく、それらを混合させて読書を行っていたりする。

ただ速読のみが、流行りの受験産業に専ら吹聴されているのもどうかなとは思う。しかし、速読は確かに何か驚異的な力をもっているのだろう。それを受験以外でどう使うのかが本当は問われるべきであるのに。
 スピードラーニングという言葉が流行る前から、人は黙読と速読を混合させ、有意な読書をしてきたに違いない。 佐々木中が『切り取れ、あの祈る手を』で力説していたように、本を読むということは、実に恐ろしいことなのだ。

 本が読めない、といっている人たちは、たぶん読書をもっぱら黙読、つまり精神的作用のみにかかわるものだと思っているのではないだろうか。 読書は身体的作用にも関わる。例えば、視野が広ければ広いほど、文字を読み取る能力、把握する能力は確実にあがるからである。

とまぁつらつらと書いたけど、このへんで。

(了)




君への欲望、失敗しても
 話を一度脱線させると、次のパラグラフは素晴らしい一節である。”悲しみの雨 打たれて足元を見た/土のその上に/そう確かに僕はいた” 僕はいたというのは存在(の定立)の再確認であるが、この悲しみの雨と確固たる土との対比は私たちの心を揺るがせる。このパラグラフでは「君」は登場せずとも、不確かな状況の中で何とか自分を確立させてやることのできる事柄を表している。やはりこれも「君」への感謝につながっていくだろう。
 
問いは、なぜ「君の名は希望」では、「君」と「僕」との恋は成就しないか、または、明確にその可否が描かれていないのかという点にも関わってくる。“一人では生きられなくなった”と感じた「僕」は、「君」をその能動性において欲する=恋愛を行う、つまり対象を欲望する。ここには、恋の気持ちの発展がある。というのも、かつて呼びかけをおこなった「君」へ、無意識的に反復するという受動性の契機から、私こそが「君」の存在定立をしたいという、能動性の契機に変化するのだ。詩の時間軸ではさかのぼることになるが、“僕が拒否してた/この世界は美しい”という字句に示されるように、存在定立のなされた「僕」は、自己の周りの事物への呼びかけすらしていこうと思うくらい、世界に対して肯定をおぼえていることになる。“未来はいつだって/新たなときめきと出会いの場”なのであるから。「君の名は希望」は理想を歌わない。存在の定立に関わる関係性は、いつも片方からもう片方へ、そしてそれが半永久的に続く連鎖(「存在の連鎖」)を示すものである。見返りを求めるものではない、ただしその求める欲求自体は否定されない。だから、それを希望と名付けられるのかもしれない。第一の希望は、自己が定立されたことによる、それを原動力としての世界参入(あるいは構築)への期待感であったが、第二の希望はさらなる理想=高みへの、つまり輝かしい生への接続への期待感としてある。
 このとき、第一の希望と第二の希望を綜合した、第三の希望とでも呼ぶべきものが出現する。“もし君が振り向かなくても/その微笑みを僕は忘れない”。この時、「君」への想いは続いたまた、原動力として「僕」はこれからも世界に積極的に関わっていき、あるいは傷ついていくだろう。それは感謝と希望のいりまじったものである。そして、「僕」は新たな恋にむけて、この恋を無限に将来に向かって反復=変奏していくだろう。決して届くことのない、しかし何回でもとどこうとする気持ち。これを、希望とはっきり定義できるのだ。
 
 “希望とは/明日の空”という字句はつまり、希望とはまったくもって不確かなものであるということも示す。ただ、それが、明日の空という言葉が抱かせるように、とても前向きで肯定感に満ちた可能性を大きく指すのは、生のもつエネルギーゆえである。
 サビではとくに、恋は生きることのエネルギーそのものとして措定されている。神聖さと肯定感と主題の恋愛の3つが絶妙に重なるのが、「君の名は希望」という作品なのである。
 
(了)


@呼びかけ、呼びかけられ―乃木坂46「君の名は希望」の考察1
 
 なぜ“君の名は希望”、あるいは端的に君が希望ということになるのだろうか。ここでは希望の起源、発生を大きく問うてよかろう。ある意味で、詩作者が用意した「僕」と「君」の物語は分かりやすい仕掛けになっている。(恋愛の)プロセスを時間軸をおいて図式的に描いているからだ。簡単にまとめれば、①「僕」は「君」に呼びかけられる(発見される)、②君を再度見つける、③君へ向かう(恋をする)、という前半の模様がある。

 1について。ここでは、何と言っても、他者たる「君」から呼びかけがあって、それを受け取る「僕」の呼びかけられがあって、「僕」が「呼びかけられる僕」という差異化した自己を見出すという点が肝要である。まるで自己の存在性は、そうしたプロセスにおいてのみ浮上するかのように。ここでは関係性は存在に先立つという関係主義のテーゼというよりも、存在の定立は自己―他者間における呼びかけ―呼びかけられの相互行為のプロセスの中で初めてなされるものだと考えるべきであろう。①は要するに、自己の再定立という側面を持っているのだ。自己の再定立、新しい自分(の存在性)。“こんなに誰かを恋しくなる/自分がいたなんて/想像もできなかったこと”という字句のように、恋の素晴らしさは何よりもまず差異化する自分(恋に落ちていなかった自分が恋に落ちている)という現象への気づきとして描かれるのは、そのような意味合いを持つ。恋愛とは何よりも自分にリフレクト=反射してくる。この時、注意しておかなければならないのは、(i)自己が自己の存在性に気づいてやれること、そして(ii)その発端となったのは、他者(「君」)の呼びかけであった、ということである。

 2について。自己の最定立がなされることにより、呼びかけー呼びかけられの関係性はひとまず消去する。そのとき、「僕」は、呼びかける存在としてでない、純粋な「君」をふたたび発見する。だが、実際、この呼びかけー呼びかけられ、の関係性(ないしは構造性)は本当に消去されるのだろうか。答えは否である。いわば、この関係=構造は亡霊となって再び現れるであろう。しかし、自己の再定立は少なくともかつて「呼びかけ」た「君」に十分対峙するほどの存在性を自己にもたらす。この次元において、「僕」は初めて「君」という他者と同じ地平に立つことができる。

 3について。いよいよ、「僕」は「君」に関係性を構築しようとする。しかし、このプロセスは作品中では必ずしも明確に描かれていない。恋と恋愛を区別するものは他者(相手)からの行為であるが、作品中では僕は片思いの気持ちをふくらませているに留まるだけのようにも見える。それでは、恋をすることの気持ちは何だろうか。これは思うに、「僕」は「君」に、かつて自分がそうされたように、今度は自分が「呼びかけ」をはかり、相手の存在の定立を導いているのではなかろうか。③は、「僕」の「君」への一方向性によって規定される。このときの原動力となるのは、かつては自分がその相手(「君」)によって自己の存在を呼びかけられたこと、その原初が想起され、無意識の領域において再―反復されようとしているのだ。なぜなら、存在の(再)定立とはかくも素晴らしいものであるから。自己が自己に居場所を幾度も見つけてやること―これこそは、世界参入への、つまり“出会いとときめき”の不断の発生への希望である。つまりこのとき、自己がたえまなく差異化していき、新しい自分をどんどん発生させることで、流れゆく世界に接続し、歩調を並行させ、生きていくことができるようになる。そのことを、確かに希望と呼んでもいいはずである。

 
 以上の記述は、希望の起源の半面を解明したものであり、また他者(「君」)について半面を解明したものである。まとめるならば、他者の呼びかけがあり、呼びかけられる自己が見出されることによって、自己は存在性を獲得し、世界に基盤を持つことができる。それは希望のひとつの名前である。
 存在を与えてくれたこと―その気持ちだけならば、それは「感謝」に終わる。希望とはもっと未来的な、前方向を向いた概念である。それらについて、残りを考察の2において記述していく。

(了)
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