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- 03/10 [PR]
- 06/07 これは日記ですわん。
- 05/30 【連載】Vague mal 5
- 05/24 【連載小説】Vague mal 4
- 05/23 小説「たいくつ」について;中途自著解題
- 05/22 【連載】フェミニズム、光り輝くマイナー
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ジュデイス・バトラー「自分自身を説明すること」を借りて読んでいるのですが、面白い。というより、読みやすい。
フーコーの、主体化=従属化というテーゼを理解しておくと、バトラーのこの書物の議論はそれと共同戦線を張っているので、分かりやすいと思います。いっけん、なにものかに従属することによって、主体となるというのは、逆説ですからね。その過程を、フーコーなら規律権力論で示すだろうし、バトラーなら”呼びかけと呼びかけられ”という図式で示すだろうし、さらにこのあたりの現代思想を優れてまとめた佐藤さんなら「権力の内面化」として説明する、それらを理解することが大事かと思われます。
しかし、第二章でバトラーはレヴィナスをたくさん引き合いに出し、新たな”責任”、しかも”他人との関係においての”といった、誤解を引き受けるような?、方向へ記述を進める。僕も、まだ十分には分かっていない。
レヴィナスを読んだことが無いので、彼はどちらかというと暗くて、こう受動性の中にある人間、てきな暗い考えなのかなーと思っていたので、バトラーのレヴィナス引用は驚きでした。
第三章で、「責任=応答可能性」について長々と論じられるので、「自分自身を説明すること」の読書はこれからいよいよ佳境に入っていきそうです。
さて、今後の勉強の方向性として、ちょっと思いついたのがあります。
というのは、どうせ僕はドウルーズを勉強するのだから、直球で入っていくというより、他の思想家を並行して勉強するのがいいかなと。
アルチュセールか、デカルト、あるいはカントはどうだろうか、と考え中。
デカルト、カントは現代思想との絡みだからやり尽くされている感じがはんぱないけど、アルチュセールは僕に取っては新鮮。
「再生産のために」はむずかしそうだから、まず概説書で掴んでから、みたいな順序も立てれるし。
今、アルチュセール論を2冊くらい借りています。
デカルト、カントは、新しい読み方をできたらと思って、「方法序説」、それから「永遠平和のために」を買おうかなと検討中。
それから、フェミニズム研究は、まだ基礎理論のレヴェルです。 バトラーも入ってくるけど、タイムリーには上野千鶴子氏の「ナショナリズムとジェンダー」を借りています。
フェミニズム/ジェンダー論は、国内ではいっぱい高いレヴェルの論文集が読めるようになっているし、様々な分野にも発展しているから、勉強のためにも非常に貴重な分野。
まあ、そんな感じか。
アルチュセールやデカルトやジェンダー論で、新しい読み方が出来るようになったら、いいかな。
以上ー
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Vague mal
第五回
*
例えば、だ、ある一つの物体を多方面から視線のようなものが釘指しているとしよう。それを俯瞰している。物事は多面的である。この視線もたくさんの視線の中の一つでしかないわけだから、この物体の全体像もいわば仮想されたそれでしかない。しかし一部分ははっきりと見える。何かを引き受けるということは、同時に全体性あるいは一般性を捨てるということ。
かざぐるま。水がたくさんの方向から飛び跳ねて、一つのかざぐるまが気持ちよさそうにそれを浴びている。
そうだからあの日紅子が持っていたかざぐるまも、私か若しくは私の記憶のイメージという一つの個別的な視線で引き受けて、全体としての紅子を捨象しているといったことなのか。あの日――ひどく暑い、まだ夏に至っていない午後の炎天下、君はただ何となく着たいといって美しい浴衣を羽織っていた。深緑にピンクや赤の花柄模様が印象的だ。後ろで束ねた白のシュシュもうなじも愛らしかった。
かざぐるまをもらったの、この子、お隣のタイチくんって言うの、ありがとうね、タイチくん、こんにちは、お兄さんお姉さん。今日はあまり風が吹かないね、いやそれより暑い暑い。蝉がうるさかった。とにかく和風女子よろしく紅子は家の縁側で両足をぴったりくっつけて右手でそのかざぐるまをぶらぶらさせて、その姿がとても可愛い。パタパタパタ。紅子は何でも似合ってしまう。
そのうち誰が言いだしたのか、庭からホースを持ってきて水をまいた。あぁ、冷たい。気持ちいいねぇと君は言う。靴脱ごっと、そう言って紅子は靴を脱ぎ、靴下もひっぱたぐとびっくりするくらいの白くて弱々しい下足が露わになる。おそるおそるホースに足を近づけ、あー冷たい!気持ちいい稲これ、ひー。炎天下の昼。
その時、かざぐるまは紅子があやまって水浸しにしてしまったのだった。勢いよくかざぐるまに水があたってあたり一面にしぶきを上げる、私も紅子もタイチくんも被害を被って、私たちは3人で大爆笑した。ごめーん!あ、せっかくのかざぐるまが…。かざぐるまはホースから流れる水に従ってくるくる回り続けた。タイチくんがきゃあきゃあ嬉しそうに、でもこの方が涼しくなったね!と言い、私はそのとおり、と答えた。紅子も最高に笑って、顔にかかった水を手でぬぐいつつ、両足を縁側から外に向かってぶらつかせた。
その時のかざぐるまを今でも私は憶えているのだ。
*
第五回
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例えば、だ、ある一つの物体を多方面から視線のようなものが釘指しているとしよう。それを俯瞰している。物事は多面的である。この視線もたくさんの視線の中の一つでしかないわけだから、この物体の全体像もいわば仮想されたそれでしかない。しかし一部分ははっきりと見える。何かを引き受けるということは、同時に全体性あるいは一般性を捨てるということ。
かざぐるま。水がたくさんの方向から飛び跳ねて、一つのかざぐるまが気持ちよさそうにそれを浴びている。
そうだからあの日紅子が持っていたかざぐるまも、私か若しくは私の記憶のイメージという一つの個別的な視線で引き受けて、全体としての紅子を捨象しているといったことなのか。あの日――ひどく暑い、まだ夏に至っていない午後の炎天下、君はただ何となく着たいといって美しい浴衣を羽織っていた。深緑にピンクや赤の花柄模様が印象的だ。後ろで束ねた白のシュシュもうなじも愛らしかった。
かざぐるまをもらったの、この子、お隣のタイチくんって言うの、ありがとうね、タイチくん、こんにちは、お兄さんお姉さん。今日はあまり風が吹かないね、いやそれより暑い暑い。蝉がうるさかった。とにかく和風女子よろしく紅子は家の縁側で両足をぴったりくっつけて右手でそのかざぐるまをぶらぶらさせて、その姿がとても可愛い。パタパタパタ。紅子は何でも似合ってしまう。
そのうち誰が言いだしたのか、庭からホースを持ってきて水をまいた。あぁ、冷たい。気持ちいいねぇと君は言う。靴脱ごっと、そう言って紅子は靴を脱ぎ、靴下もひっぱたぐとびっくりするくらいの白くて弱々しい下足が露わになる。おそるおそるホースに足を近づけ、あー冷たい!気持ちいい稲これ、ひー。炎天下の昼。
その時、かざぐるまは紅子があやまって水浸しにしてしまったのだった。勢いよくかざぐるまに水があたってあたり一面にしぶきを上げる、私も紅子もタイチくんも被害を被って、私たちは3人で大爆笑した。ごめーん!あ、せっかくのかざぐるまが…。かざぐるまはホースから流れる水に従ってくるくる回り続けた。タイチくんがきゃあきゃあ嬉しそうに、でもこの方が涼しくなったね!と言い、私はそのとおり、と答えた。紅子も最高に笑って、顔にかかった水を手でぬぐいつつ、両足を縁側から外に向かってぶらつかせた。
その時のかざぐるまを今でも私は憶えているのだ。
*
Vague mal
第四回
(今回から小見出しは事情により削除させていただきます)
痛み。痛みを伴うこと、それに引きずられること。これは紛れもなく私の一部だ。私の一部が悲鳴を上げている。
そう何もかも表象を忘却した朝だから。
ふわふわしたギター音が空間を浮遊する。朝の喧騒。別に私は楽しんでいたわけではない。どちらかというと孤独で、みじめでもあった。みじめな存在。自己が小さくなっていく状態。
黄色い太陽が背の高いビルの諸側面を照らす。向かいの一軒家では騒がしい犬がワンワンと誰に向かってでもなく吠え続けている。
私の目の前には一冊の本がある。白に、明るい緑のチェック模様がついた表紙の本。その本をめくると、何も書かれていない。白紙の未来?いや、この本は記憶を持たないのだ。メモリーが存在しません。
*
(つづく)
第四回
(今回から小見出しは事情により削除させていただきます)
痛み。痛みを伴うこと、それに引きずられること。これは紛れもなく私の一部だ。私の一部が悲鳴を上げている。
そう何もかも表象を忘却した朝だから。
ふわふわしたギター音が空間を浮遊する。朝の喧騒。別に私は楽しんでいたわけではない。どちらかというと孤独で、みじめでもあった。みじめな存在。自己が小さくなっていく状態。
黄色い太陽が背の高いビルの諸側面を照らす。向かいの一軒家では騒がしい犬がワンワンと誰に向かってでもなく吠え続けている。
私の目の前には一冊の本がある。白に、明るい緑のチェック模様がついた表紙の本。その本をめくると、何も書かれていない。白紙の未来?いや、この本は記憶を持たないのだ。メモリーが存在しません。
*
(つづく)
自分は今、アメブロで「たいくつ」という小説を連載しているのですが(http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/entry-11444492881.html)、まぁ今回はそのことについて。
この話は、次穂という主人公、それから姉の亜紀、ともすると友達のさきちゃん、大体この2面もしくは3面関係のお話です。次穂の1人称によって語られるので、彼女からの眺め、彼女からの世界の見え方が問題となります。
どこかで書いた気もするのですが、次穂は過去の想起をしている- 当時の姉はハタチで(ちなみに亜紀と次穂の年齢差は8歳です)、それを今ハタチである次穂が回想する。
あの時ハタチだった姉は、今自分が抱えているようなことを思っていたのだろうか?
妹たる次穂は、姉に絶大な信頼・愛着を抱いており、それは年齢差が手伝っているからかもしれませんが、そのことが逆説的に彼女らの距離を絶対的なものとする、ということ。
いわば、次穂は、回想をすることで、解体をはかろうとしているわけです。
もちろん、回想行為は、よき過去を忍ぶこともあれ、非常にロマンチックなものです。 ただ、あの時彼女が見えていなかったものを、20歳の次穂はそれとなく見つけ出そうとする-。
次穂は過去をはからずも再構成していることになります。 過去は過去としてそれ自体があるのではなく、いつも想起されることによって再ー現前化されること。
彼女が、小説舞台の夏のことを回想するまでは、それは土かぶって、いわば抑圧、忘却の隅へ追いやられていたことになる。
そう、言わずもがな、彼女は回想をすることによって、当時を再び生きている。何重にも。 あの夏は一回きりのものでなく、偽装されながら、何回もやってくる。
そして、その偽装と繰り返しの中から、何か、秘密めいたものを、隠されていたものを探そうとする。
それが次穂がはからずもやろうとしていることになります。
まぁ、まだ小説は続いていきますし、正直、次穂と亜紀はこれから面白くなる予定です笑
乞うご期待。
この記事は、アメブロ「テイタム・オニール」と、当サイトの接続として書かれました。
(了)
この話は、次穂という主人公、それから姉の亜紀、ともすると友達のさきちゃん、大体この2面もしくは3面関係のお話です。次穂の1人称によって語られるので、彼女からの眺め、彼女からの世界の見え方が問題となります。
どこかで書いた気もするのですが、次穂は過去の想起をしている- 当時の姉はハタチで(ちなみに亜紀と次穂の年齢差は8歳です)、それを今ハタチである次穂が回想する。
あの時ハタチだった姉は、今自分が抱えているようなことを思っていたのだろうか?
妹たる次穂は、姉に絶大な信頼・愛着を抱いており、それは年齢差が手伝っているからかもしれませんが、そのことが逆説的に彼女らの距離を絶対的なものとする、ということ。
いわば、次穂は、回想をすることで、解体をはかろうとしているわけです。
もちろん、回想行為は、よき過去を忍ぶこともあれ、非常にロマンチックなものです。 ただ、あの時彼女が見えていなかったものを、20歳の次穂はそれとなく見つけ出そうとする-。
次穂は過去をはからずも再構成していることになります。 過去は過去としてそれ自体があるのではなく、いつも想起されることによって再ー現前化されること。
彼女が、小説舞台の夏のことを回想するまでは、それは土かぶって、いわば抑圧、忘却の隅へ追いやられていたことになる。
そう、言わずもがな、彼女は回想をすることによって、当時を再び生きている。何重にも。 あの夏は一回きりのものでなく、偽装されながら、何回もやってくる。
そして、その偽装と繰り返しの中から、何か、秘密めいたものを、隠されていたものを探そうとする。
それが次穂がはからずもやろうとしていることになります。
まぁ、まだ小説は続いていきますし、正直、次穂と亜紀はこれから面白くなる予定です笑
乞うご期待。
この記事は、アメブロ「テイタム・オニール」と、当サイトの接続として書かれました。
(了)
昨日はフェミニズムに関する記事を書いたわけだけど、
私は私なりのある直観で、フェミニズム研究をすることが、この2010年代にあっても、世界的に重要だと思っている。
とはいっても、本棚にあるジェンダー学やフェミニズムは従来の方法でやり尽くされていて、残りを補完していくことに意義はあるだろうが、それは現時的インパクトを欠く。
私としては、哲学とフェミニズム思想・理論・運動を結びつけたい。とくに、マイナー哲学(ドゥルーズ、スピノザ、ヒューム、、)を深く分析し、あるいは展開することにより。
ここでひとつの難題が発生する。 マイナーの括りとすることに問題はないのかと?
たしかにマイナー研究と称することで、一定の社会の上位ー下位、もしくは抑圧―被抑圧構造としての図式をあてはめ、マイナーとしての戦いを考察することは可能である。
しかし、マイナーをマイナーとして自覚することの問題はまた別問題である。マイナーを自覚することはいつも困難を伴う。
私も、社会の色々な面で、当事者として、幾つかのマイナーたる存在を引き受けてきた、今も引き受け続けている、という自認がある。
そこに共闘をはっていくこと、あるいは共闘をはっていかなくても、「共に苦しんでいるよね!」とお互い呼応できること―。
これが何より大切である。
こうした困難を打ち明けていかなければならない、しかも研究対象はしばしば自分の支配してきたものとされる女性についての学であるから、そう一筋縄では行かないと思う。
だから私のフェミニズムに対する大まかな態度は、
男性が女性を支配・抑圧するという社会構造が社会を規定している
という点を大前提とする。 そして私はあくまで観察者の視点にたちつつ、最終的には既存の社会構造を敵とし、それを打ち砕き新たな世界を細かく描写しさらにそれを作り上げる実践をも、目指す。
既存の社会構造が敵だというのは、フーコーが非常に明らかにしてくれたきがする。
あとはそれを僕の中できちんと言葉にするだけである。
フーコーから先の問題は、まさに手探りで始めなければならない。
ゆえに、私はその手探りとして、まずフェミニズムを選択する。