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- 03/09 [PR]
- 02/27 性は生政治である 第三回
- 02/20 性は生政治である 第二回
- 08/20 動物としての人間に批判を加えること――アイドルと性愛(4)
- 08/18 昏く強い場所―アイドルと性愛(3)
- 07/22 (小説) 哀しみのこと 2
Title list of 連載
「(ビ)カミングアウト」とはどういうことだろうか。それはとりもなおさず、外傷を経た後の行動・心理全体の〈過程〉のことを示している。〈レズビアン・アイデンティティーズ〉とは、アイデンティティを自分のものとするための強い宣言である。この生を、自己によって正しく生きるための。そのとき「カミングアウト」と呼ばれる一連の行為はしっかりと根拠を持ったものとなり、自分が新たに生きていくための宣言を告げることができる。〈ビカミングアウト〉で人はまた別の生への方向転換を宣言する。私は……である、私は……でない、ということで、自らの生を自らの言説の内に確保しなおすこと。それは戦略でもあり、見えざる大きな〈生政治〉の権力作用に対するこの上ない抵抗の策略を案ずる。
そのような地点から『レズビアン・アイデンティティーズ』の三つ目のポイントは語られるべきである。抵抗とは、異性愛主義や「名付けの作用」が効果する「権力と非権力」への体制への異議申し立てであるのだが、何よりも堀江が見た「抵抗」の可能性は、〈生政治〉へのダイナミックな撹乱作用として語られるべきである。そこでは次のようなことが有効となるだろう――繰り返し、自己の性や性的指向をとりあえず自己の力の及ぶところにまで領域確保させること。自己の言説(カミングアウトの行為などにより)などにより自己の有利な範囲においてこの〈生の―闘争〉を企てること。
性は身体に埋め込まれている。その点において、性は存在そのものなのである。あるいは、性は存在の核なのである。だけど誰がこの存在の核に適切に――何が適切、何が正義か?――関わっていくことができるだろうか?
〈(性的)存在者〉は、こうして単独者―社会領域―全体主義のトリアーデのもとに布置されることになる。
第一回の内容は、別ブログ「アイドルを遠く離れて」で公開しています。
こちらからどうぞ
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第二回 性は生政治である
堀江有里は『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015、洛北出版)の第一章で「レズビアン存在」という概念を紹介している。その本書での議論は後につづけるとして、まずはこの概念の名前のインパクトについて少し付言しておこう。「レズビアン存在」。それは「マイノリティ存在」とでも呼び変えうるだろう。そう、レズビアンやトランスジェンダーなどの「性的指向」とされているものは、本質的に、存在に属するもの(とみなされる)なのである。存在論の範疇にあるということである。レズビアン〈であること〉や、本書の議論の射程を不用意に広げて、例えば精神障害者〈であること〉等も、存在として己を見つめうる契機となるわけである。それはもっと言うと、存在の「核」に根ざしている。主体―存在が主体―存在であるための、本質的条件なのだ。ではどうして、〈レズビアン〉であることや、〈精神障害者〉であることが、主体―存在の核といえるのだろうか。
マイノリティは、まずもって経験的な事象でもある。過程といってもいい。そしてマイノリティは、何らかのマジョリティから区別されることを通して、大小の傷を受けるという外傷経験なのである。なぜならマジョリティはマイノリティを抑圧するからだ(この抑圧をもっと広範囲に論じる必要があるのだが今は簡単にこう記しておく)。その抑圧の過程で、マイノリティ存在は何らかの傷を体験する。マジョリティの空間の規範は、「同一性による承認」である。つまり、互いに(存在者が)同じであることを確認し合って、お互いの主体性(存在の核)を承認し合う、という構造になっている。このことは、次のことをも意味する。つまり、マジョリティ空間においては、「差異による排除」というからくりも随伴しているということだ。
人が右利きか、左利きであるかということは、科学がどれだけ調べ尽くしたところで、結局運命論的――先天的なところは残ってくる。つまり、人が右利きになるか、左利きになるか、どちらかになるかは、はっきり言ってほとんどどうでもよい。しかし、人はどちらかにはなるであろう(若しくは「両きき」か)。左利きになれば、あなたはその先人生において必ずこう言われることになる、「あ、君左利きなんだ、珍しいね」、と。しかも際限なく、いろんな右利きの人にだ)。統計学的には、右利きの人がマジョリティ権を獲得する。しかし、現実ではそれで終わらず、数の多数を得ることによってマジョリティとなる右利きの人たちは、「右利きの人が、数的に多い」ということで、互いに同一性に基づく自己確認をし合うのである。「自分は多数派である」と。そしてここから、左利きの人を、「珍しい」とまなざすようになるのである。
自分で選んだのではない理由で左利きになった人にとっては、以上の事柄が所与のミクロ政治として実態にあらわれてくる。つまり、「お前は少数派だ」と暗黙裡に伝えられる運命が待ち受けているのである。ここで、左利きの人は、「自分はマイノリティなのだ(この言葉づかいは必ずしも正しいとは言い難いが)」という自己認識を持ち、それがマジョリティからの差異という形で自己の存在を同定するのである。ただし、マジョリティからの差異の認識そのものでは、まだアイデンティティを獲得するには至らない。至ってはいない。
堀江有里の『レズビアン・アイデンティテーズ』においては、〈レズビアン存在〉は題目の中で「不可視性」というキーワードと共になっている(三十四―四十頁)。そこには、〈レズビアン存在〉という概念の名づけのアドリエンヌ・リッチと、著者の以下のような思いが込められている。すなわち、レズビアンというマイノリティの人々は、世間や社会から非常に見えずらい形で存在している。しかも、本書が明らかにしていくように、そこにはマジョリティ/マイノリティの構図の中でマジョリティによる抑圧作用を受けることによってだけでなく、ゲイ(男性)/レズビアン(女性)という集団ないし人の属性の非対称性によっても、二重に三重に見えずらい(不可視の)人たちとして在るのである。それは、彼/女たちが自分がレズビアンであることを公言する〈カミングアウト〉という行為をおこなうときにも、重荷となってのしかかってくる。これらの不可視性を認識し、それらがどうなっているのかと暴こうとする鋭い批判意識を持つのが、〈レズビアン存在〉とあえて「存在」の名前・概念をレズビアンに付したリッチと著者の共同戦略なのである。〈レズビアン存在〉はただ承認を得てそこに「傷のつかない」主体性を持って在「るわけでは一つもない」。
打ち間違いとか、単に「私」でいいのに「〈私〉」となっていたりと、原稿を読み返すだけでたくさんの間違いがあります。。
承前 (前回は 直前記事)
僕は音を聞いていた――様々な音を集めたその一枚のCDが、当時中学生の僕をよくある音楽好きの少年に育て上げた。さきほどいつもの用事を済ませて何の気なしにかけた九トラック目にさしかかって、その曲は僕にとても執拗な感情を迫ってきた。つまり、哀しみについて、考えろ、と。そう言われてみればそれは哀しみについての曲、でもある気がした。ある気がしたと言うのは、その曲は単純な言説では説明できなかったからだ。僕はその音の理解にいたってなかった、と言うべきなのだろう。そして、それの解明に、解明などと大それたことを言わずともできれば寄り添うことに、僕の思考と身体は向けられた気がした。それ以来、この“問い”について、考えている。
絶望。絶望、絶望がおそいかかってくる。はっと気づけば私は絶望そのものとすり替わっている。例えば、あの時は何もかもが終わりだった。そう思う時があった。そしてこのせまくるしい身体からこのちっぽけでむせび泣いているたましいを、何とか解放してやりたかった。それには鋭利な刃物と、それからすこしばかりの勇気が足りなかった。苦しみ。生きていることが苦しいということ。苦しみは確実に私たちを蝕んでいく、醜い蟻の大群が死んだ蝉をどこまでも食いつぶしてやがて蝉は文字通りもぬけの殻になる。身体は痙攣しやせ衰え、魂は活気をなくして呆けてしまう。諸悪の根源は、いつだって人は人から生まれてくるということなのだろうか? 私はいつまでたっても血縁から要請される、お気楽な期待のかかった、規範的な同一性を身につけて生活をしなくてはならないのだろうか。
「それは無理だ・‥・‥。」 ひとつの声が応じる。私を見てくれ、余所を見るんじゃなくて、この私の有様をもっとよく見てくれ・‥・‥お願いだ・‥・‥。などと。
やってくる絶望とセットになるものに、いったい幾つもの形容がつけられるだろうか、ヘンリー・ミラーの恐ろしいまでのリストアップのように? それは例えば堕落でもありうるし、うつ、自己倦怠、メランコリー、ノイローゼ、ヒステリア、困惑、葛藤、ジレンマ、衝動、発作、動悸、いやもういい……。大切なものから、見放されたら、誰だって悲しくなる。それが度を過ぎると、物事はもっと大きくなる。そういうものだ。そこにおいて、人はある程度の人間関係を制度的にも、それから心理構造的にも、植え付けられている。条件なしの人間など経験上ではなかなかありえないということだ。
だとすると、重要なことは、そうした幾つかの前提――生まれてきた年、生んだ人、祖父祖母、親戚、もちろん生まれてきた場所、その環境、瑣末なことには生んだ人の頭脳知数といったものまでも……どこまで前提の対象として含むかは程度の差もあろうが――をとりもなおさずいったん受け止めて、そこから物事を思考すること。当たり前のように聞こえるが、そんな作業もこうやって経験上のことをテキストにしたり、とにかくこの身から引き離して対象として捉えるということ――それが必要である。
(続く)