- 11/01 [PR]
- 04/02 不良文学?
- 04/01 セリーヌ、フランス文学
- 02/27 性は生政治である 第三回
- 02/20 愛の―接合機械(散文)
- 02/20 性は生政治である 第二回
Title list of this page
レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読みはじめた。方言? 最初から俗語的表現のオンパレードで楽しい。
セリーヌの長編作品のそれは、完成度においても集大成といった形をなしているように個人的には思われるのだが、こういった作家の名前を思い浮かべて行くうちに、日本の作家の中上健次のことが思われた。
中上健次の小説においては、風景描写などは非常に淡白で少ない言葉で、キリッとさせるような効果があり、文体そのものは非常にドライである。しかし、『枯木灘』などの「路地」シリーズにおいて、物語そのものが、被差別部落といった、一般に想定されている社会状態の人々とは異なる社会の人間関係を展開している。
台詞の応酬も非常に独特で、紀州の方言に満ちている。そこからは、舞台は日本であるはずなのに、「どこか別の場所での物語」といったような想像性を産む。
中上健次の小説は、日本という場所や人物、表象を扱いながら、非常に世界的=遍在的なのである。それは、社会が困窮化したときに「現れてくる」、社会状態の必然の姿なのかもしれない。
セリーヌの幼児期から青年期へと至る自伝的エピソードを交えた「なしくずしの死」でも、主人公の家族が非常に逼迫した家庭環境を巧みに、執拗に描いている。そのため、主人公のなりふりや言動はどんどん荒んでいき、パリの汚い街並みそのもののように、不穏で、猥雑な世界観が形成されていく。
社会が非常に困窮・低迷化した状態を描いた、もしくはそういう設定のもとで舞台を演出している小説作品を思い浮かべたら、例えば椎名麟三の「深夜の酒宴」などがそうではないだろうか。戦後の非常に経済や衛生状態が悪い町の、ぼろアパートに住む青年の姿を描いたその作品は、頽廃という一言に尽きている。そういえば差別表現もばんばん出ていた(苦笑)
「深夜の酒宴」は、社会の不平等といった階級問題への問題意識が間接的に表れているという点では、レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」やセリーヌの作品群とは少し違うかもしれない。というのは、後者は、社会階級への問題意識という政治的問題は、直接にはあらわれてこないからである。対して「深夜の酒宴」は、物語の中に、民主主義・共産主義といった、戦後間もなくして非常に日本を湧きあがらせた戦後民主主義による復興への懐疑的眼差しをのぞかせている。椎名麟三の頽廃的ムードは、そうした社会の不平等への批判意識や対抗といったものすらせせら笑い、おとしめてしまうような暗さをたたえている。
それから、最近の日本の小説においては、西村賢太などがいる。そういう意味では、現代でもなおこの、「社会の不平等状態を間接・直接に描く文学作品」は古今東西を通して普遍的に存在し、さらにそこからの「不穏さ、猥雑さ、世間から外れたという頽廃的意識における描写」というものも、あるように思われてくる。
それは、もしかしたら「不良文学」とでも呼べるものなのかもしれない。
なお、不良文学を語るにあたって、昨今の日本の政治状況にひとこと付け加えずにはいられないと筆者は思った。自由民主党は長らくネオリベ的な、経済第一主義の政策をとっているが、そうしたネオリベラルな政策をとってる限りは、社会の不平等は絶対的に構成・維持されていくのである。だから、経済が仮に上向きになって、国家にお金が集まるようになっても、肝心の国民の側に大きな亀裂・分断線が走っていく。政府や国家は大きくなるかもしれないが、社会階級というマルクスが提出した問題がいつまでもゾンビのようにつきまとわり、国家としてはそこが統一の妨げになっていくのだと思われる。
それが続く限り、不良文学はずっと不良のままでいるであろう。不良はスターでもないし、望まれるべくして生まれた存在でもない。しかし、文学では不良を語れるだけの実に広範な、最大限に大きな自由がある。そうした文学が不良を実在的に構成していく限り、全体政治への警告以上のものが営まれていくであろう。
フェルディナン・セリーヌへの愛が止まらないこの頃である。
去年の冬~春ごろに頑張って?「夜の果てへの旅」を読んで、以来すっかり魅了されてしまっている。それより前に愛好していたヘンリー・ミラーの、長大な文章と自伝的な構成という類似点もあって、長らくこの二人の作家が僕の心の中心をしめるようになったが、ミラーもセリーヌも魅力のありあまる存在だ。
今、「なしくずしの死」を読んでいる。客観的に面白さを伝えるのが難しいかもしれないが、とにかくこの本は面白い。ギャグセンスもしかり、文章もますます畳みかけるような呻き、罵声、猥雑さに満ちていて、これ以上に自由な文学作品があろうかと思うくらいだ。
でも、二十世紀のフランス文学は、プルーストやセリーヌだけでなく、実に様々で豊富な内容を抱えているな、と気付いたのが最近だから、僕はいけない。
もともとフランス文学は一筋でも二筋でもいかないところがあるが、二十世紀のフランス文学に限ってみても、シュルレアリスム文学、実存主義、ヌーヴォー・ロマンと流行も多岐に渡る。
そして日本への紹介も非常に豊かになされている。澁澤龍彦などが主軸だったのだろうと思うのだが、ブルトンやクノー、ジャン・コクトー、哲学者でもあるバタイユや遡ってマルキド・サドやなど、フランス国内でもあまり評価のされていなかった小説家もいっしょくたにして輸入しているところが面白い。
僕は生田耕作さん訳の「夜の果てへの旅」が好きで、ジャン・ジュネの訳も幾つかされているし、まだレーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読んでいないので生田耕作訳をさっそく図書館に予約した。読むのが待ち遠しい。
二十世紀のフランスの哲学は、いま現象学のミシェル・アンリの本なども読んだりして、ここ一、二年でやっと概要を掴めた、という気もするのだが、文学はまだまだこれから。というか全体を見渡せそうもない。フランス文学、入門、案内などと検索してみると、幾つもそれらしき入門書や概説書が出てくるが、どれを読めばいいのか分からない……(がとりあえずどれか一冊を読んでみるつもりである)。
野崎歓さんの『フランス文学と愛』で、モリエールやディドロなどの「近代の前半」の古典作家、劇作家や小説家などの名前を知ることはできたのだが、十九世紀~二十世紀がまだ良く分からない。外国人が書いたフランス文学論などを読んでみても、知らない名前がけっこう出てくる。作品は無限の宝庫のようにあるようだ。
ただ、一つ思うのは、二十世紀のフランス文化は、ほぼ中心点の50年代に、サルトルが君臨しているということだ。サルトルは小説も戯曲も書いたし、もちろん哲学的にも多大な影響を与えた。その人以前と、以後で、様相は大きく異なっている。文学者・哲学者サルトルが誕生するまでの流れと、サルトルが亜流になってからの文学界/哲学界の流れという図式で整理するのが、一つ、フランス文学をより深く理解するうえでも重要かもしれないなどと思いはじめる。
そもそも、サルトルの現象学は非常に小説チックなところがある。だからというわけではないが、ミシェル・アンリも小説を三冊か四冊書いているし、他者論のレヴィナスなども実は小説の構想があったということだ(『現代思想 増刊号 レヴィナス』のエッセイによる)。現象学は文学に似ているのである。現象学を理解することで、フランス文学をもっと違う面から見ることができるかもしれない。ただ現象学は異常にむずかしい……。
最近の日本はますます翻訳文化が進み、特にアメリカ文学とラテン文学がものすごい勢いでその魅力を伝えているように思われるが、僕は逆にもっと過去を遡って、先人が探し当てた作品の光を後追いしたいと思う。
これから自分の愛読書をドゥルーズの『差異と反復』とセリーヌの『夜の果てへの旅』ですということにしよう。それでは。
「(ビ)カミングアウト」とはどういうことだろうか。それはとりもなおさず、外傷を経た後の行動・心理全体の〈過程〉のことを示している。〈レズビアン・アイデンティティーズ〉とは、アイデンティティを自分のものとするための強い宣言である。この生を、自己によって正しく生きるための。そのとき「カミングアウト」と呼ばれる一連の行為はしっかりと根拠を持ったものとなり、自分が新たに生きていくための宣言を告げることができる。〈ビカミングアウト〉で人はまた別の生への方向転換を宣言する。私は……である、私は……でない、ということで、自らの生を自らの言説の内に確保しなおすこと。それは戦略でもあり、見えざる大きな〈生政治〉の権力作用に対するこの上ない抵抗の策略を案ずる。
そのような地点から『レズビアン・アイデンティティーズ』の三つ目のポイントは語られるべきである。抵抗とは、異性愛主義や「名付けの作用」が効果する「権力と非権力」への体制への異議申し立てであるのだが、何よりも堀江が見た「抵抗」の可能性は、〈生政治〉へのダイナミックな撹乱作用として語られるべきである。そこでは次のようなことが有効となるだろう――繰り返し、自己の性や性的指向をとりあえず自己の力の及ぶところにまで領域確保させること。自己の言説(カミングアウトの行為などにより)などにより自己の有利な範囲においてこの〈生の―闘争〉を企てること。
性は身体に埋め込まれている。その点において、性は存在そのものなのである。あるいは、性は存在の核なのである。だけど誰がこの存在の核に適切に――何が適切、何が正義か?――関わっていくことができるだろうか?
〈(性的)存在者〉は、こうして単独者―社会領域―全体主義のトリアーデのもとに布置されることになる。
僕の大切な存在である人との〈愛の共同体〉は、〈愛の―接合機械〉とでも呼びうるかもしれない、そのようにたしょう変化して呼ぶことができるかもしれない。それはとりわけ、ベッドの中にいて、布団にくるまって彼女とぴとっと一体化している時に僕が思うことだ。僕は彼女と身体を合わせている時に、おそろしいほどの安堵を感じる……それは必ずしも性的な行為をやっている時に限らず、ただ抱擁したり、髪の毛をなでたり、ほっぺたを触ったりしている時にそうなのだ。僕らは〈愛の―接合機械〉なのだ、と思う。僕はその片っぽだ! と。〈愛の―接合機械〉なんてことはまだ彼女には一言だって言ってやしないが、彼女もおそらく、僕と身体を親密にさせている時に、安堵を感じているのではないか、と思う……というより、僕らが感じる安堵は、「僕が感じる安堵と彼女が感じる安堵」という風に別々のものではなくて、「僕らが感じる安堵」なのだ、と思う。これは傲慢ではない。その時、お互いの身体を親密にさせているとき、僕らは一つになると思う。それは、その限られた時間の中で、という条件付きでだ。僕らは〈愛の―接合機械〉に変化する。そして〈愛の―接合機械〉は安堵を感じるのだ。安堵を感じ、二つの部分が十全となって、あるべき姿で「在る」、という風に確認し、そしてまた離接する。離接して、また接合する。それが、例え一時的であるにせよ〈愛の―接合機械〉の姿なのだ。
第一回の内容は、別ブログ「アイドルを遠く離れて」で公開しています。
こちらからどうぞ
***
第二回 性は生政治である
堀江有里は『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015、洛北出版)の第一章で「レズビアン存在」という概念を紹介している。その本書での議論は後につづけるとして、まずはこの概念の名前のインパクトについて少し付言しておこう。「レズビアン存在」。それは「マイノリティ存在」とでも呼び変えうるだろう。そう、レズビアンやトランスジェンダーなどの「性的指向」とされているものは、本質的に、存在に属するもの(とみなされる)なのである。存在論の範疇にあるということである。レズビアン〈であること〉や、本書の議論の射程を不用意に広げて、例えば精神障害者〈であること〉等も、存在として己を見つめうる契機となるわけである。それはもっと言うと、存在の「核」に根ざしている。主体―存在が主体―存在であるための、本質的条件なのだ。ではどうして、〈レズビアン〉であることや、〈精神障害者〉であることが、主体―存在の核といえるのだろうか。
マイノリティは、まずもって経験的な事象でもある。過程といってもいい。そしてマイノリティは、何らかのマジョリティから区別されることを通して、大小の傷を受けるという外傷経験なのである。なぜならマジョリティはマイノリティを抑圧するからだ(この抑圧をもっと広範囲に論じる必要があるのだが今は簡単にこう記しておく)。その抑圧の過程で、マイノリティ存在は何らかの傷を体験する。マジョリティの空間の規範は、「同一性による承認」である。つまり、互いに(存在者が)同じであることを確認し合って、お互いの主体性(存在の核)を承認し合う、という構造になっている。このことは、次のことをも意味する。つまり、マジョリティ空間においては、「差異による排除」というからくりも随伴しているということだ。
人が右利きか、左利きであるかということは、科学がどれだけ調べ尽くしたところで、結局運命論的――先天的なところは残ってくる。つまり、人が右利きになるか、左利きになるか、どちらかになるかは、はっきり言ってほとんどどうでもよい。しかし、人はどちらかにはなるであろう(若しくは「両きき」か)。左利きになれば、あなたはその先人生において必ずこう言われることになる、「あ、君左利きなんだ、珍しいね」、と。しかも際限なく、いろんな右利きの人にだ)。統計学的には、右利きの人がマジョリティ権を獲得する。しかし、現実ではそれで終わらず、数の多数を得ることによってマジョリティとなる右利きの人たちは、「右利きの人が、数的に多い」ということで、互いに同一性に基づく自己確認をし合うのである。「自分は多数派である」と。そしてここから、左利きの人を、「珍しい」とまなざすようになるのである。
自分で選んだのではない理由で左利きになった人にとっては、以上の事柄が所与のミクロ政治として実態にあらわれてくる。つまり、「お前は少数派だ」と暗黙裡に伝えられる運命が待ち受けているのである。ここで、左利きの人は、「自分はマイノリティなのだ(この言葉づかいは必ずしも正しいとは言い難いが)」という自己認識を持ち、それがマジョリティからの差異という形で自己の存在を同定するのである。ただし、マジョリティからの差異の認識そのものでは、まだアイデンティティを獲得するには至らない。至ってはいない。
堀江有里の『レズビアン・アイデンティテーズ』においては、〈レズビアン存在〉は題目の中で「不可視性」というキーワードと共になっている(三十四―四十頁)。そこには、〈レズビアン存在〉という概念の名づけのアドリエンヌ・リッチと、著者の以下のような思いが込められている。すなわち、レズビアンというマイノリティの人々は、世間や社会から非常に見えずらい形で存在している。しかも、本書が明らかにしていくように、そこにはマジョリティ/マイノリティの構図の中でマジョリティによる抑圧作用を受けることによってだけでなく、ゲイ(男性)/レズビアン(女性)という集団ないし人の属性の非対称性によっても、二重に三重に見えずらい(不可視の)人たちとして在るのである。それは、彼/女たちが自分がレズビアンであることを公言する〈カミングアウト〉という行為をおこなうときにも、重荷となってのしかかってくる。これらの不可視性を認識し、それらがどうなっているのかと暴こうとする鋭い批判意識を持つのが、〈レズビアン存在〉とあえて「存在」の名前・概念をレズビアンに付したリッチと著者の共同戦略なのである。〈レズビアン存在〉はただ承認を得てそこに「傷のつかない」主体性を持って在「るわけでは一つもない」。