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- 03/10 [PR]
- 11/18 環境管理型支配の弱点(1)―ヲタ卒をめぐる問題
- 11/16 上野千鶴子のマルクス主義フェミニズム
- 11/15 女性への優しい視線
- 11/15 ジャック・デリダ「バベルの塔」について
- 10/29 【第六回】バイロジクック総論【仏教から仏教へ】
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”育成型アイドル”と呼ばれる環境において、ヲタクたちは指導者のような地位をふるまう。何を指導するのだろうか。
一般には、アイドルたちの魂を、というものかもしれない。しかし、そこを詳細に観察する必要がある。
アイドルたちは、立派なアイドルたちを目指す。しかしその具体的なゴールが常に明確とは限らない。思えば、”育成型アイドル”とは、ゲーム的リアリズムの産物なのかもしれない。とにかく、アイドルたちは、迷える子羊のように呈している必要がある。一方で、ヲタクたちはお金を払えば、そのアイドルたちを自由にプロデゥースするという権利を最終的に持つ。育成型アイドル産業の、法的性格を窮極的につきつめれば、お金とそうした権利の交換である。劇場を見る、握手会に参加する、確かにそれはそうなのだが、それもまたあくまで派生的なものにすぎない。お金を払えば、オタクはアイドルを自由に指導できる―。 これは、かのミシェル・フーコーが指摘していた、司牧型権力の現代的姿なのではあるまいか。
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筆者は以前、上野千鶴子の『家父長制と資本制』を読んだときに、不満を感じて低評価を下したのだが、それを撤回しなくてはならないと感じている。
というのは、彼女は同書において、「家族」という新たなカテゴリー、大きな物語、巨大システムを理論的に告発していることに成功しているからだ。
当時での彼女の理論は、国家というカテゴリを含めるのを怠っていたので、自著解題でそれを自ら反省してもいる。
修正された後の、彼女の世界理論は注目に値する。
それは、3つのカテゴリからなる。国家、市場、家族の3つだ。純粋なマルクス主義の世界理論は、上部構造と下部構造の二つに分けて、下部構造を経済構造とし、経済構造が上の市場、国家を規定すると位置づけた。
上野の世界理論においては、上部/下部という構造はただちにあらわれない。
それは、国家、市場、家族という3つの範疇が、それぞれの位置から円環をなし、それぞれから疎外された領域を形成している。
例えば市場であれば、市場=資本主義は資本家(ブルジョワジー)を中心に取り囲み、労働家(プロレタリア)を疎外する。労働者は、市場という場にいながら、決してその中心に坐することができない。
同じように、国家においては、国民(というあやふやなもの)を中心に取り囲み、外国人などを疎外する。
上野の理論が新しいのは、この市場=資本主義システムと国家=帝国システムと同列に、家族システムをおいたことである。
家族システムにおいては、主に男性が中心を取り囲み、子供や女性が疎外されることになる。
そしてこの3つのシステムは、互いに影響もしている。例えば、家族システムからは、「一家の大黒柱」などとして、男性が市場に送り出される。そこでは男性は、労働者という疎外されたものになるだろう。市場システムが持続する条件として、労働者は絶えず送り出されなければならない。そこで、家族システムが市場システムにおける労働者の供給源の役目を果たしていることが発見されるのだ。
このように、家族と市場というカテゴリは、一つの共犯関係を築いているのである。
国家と市場においては、市場から送り出された戦士が、国家において戦争兵士として犠牲になる例が20世紀には多々みられた。
国家と家族においては、家族政策という名のもと、国家が積極的に国民を作成する圧力をかけ、女性に負担をかけた。
国家、市場、家族という3つのカテゴリと影響関係、疎外を見ると、どこのだれが何から疎外されているのかが明晰に見えてくる。中でもフェミが主題とする女性は、この3つのカテゴリのいずれもから疎外されやすく、2重にも3重にも構造的に苦しんでいるということが明らかになった。
『資本制と家父長制』は上で見てきた見取り図をさらにくわしく分析しているが、このマルクス主義フェミニズムは今日においても妥当している。同理論の深化が問われるところだろう。
(おしまい)
というのは、彼女は同書において、「家族」という新たなカテゴリー、大きな物語、巨大システムを理論的に告発していることに成功しているからだ。
当時での彼女の理論は、国家というカテゴリを含めるのを怠っていたので、自著解題でそれを自ら反省してもいる。
修正された後の、彼女の世界理論は注目に値する。
それは、3つのカテゴリからなる。国家、市場、家族の3つだ。純粋なマルクス主義の世界理論は、上部構造と下部構造の二つに分けて、下部構造を経済構造とし、経済構造が上の市場、国家を規定すると位置づけた。
上野の世界理論においては、上部/下部という構造はただちにあらわれない。
それは、国家、市場、家族という3つの範疇が、それぞれの位置から円環をなし、それぞれから疎外された領域を形成している。
例えば市場であれば、市場=資本主義は資本家(ブルジョワジー)を中心に取り囲み、労働家(プロレタリア)を疎外する。労働者は、市場という場にいながら、決してその中心に坐することができない。
同じように、国家においては、国民(というあやふやなもの)を中心に取り囲み、外国人などを疎外する。
上野の理論が新しいのは、この市場=資本主義システムと国家=帝国システムと同列に、家族システムをおいたことである。
家族システムにおいては、主に男性が中心を取り囲み、子供や女性が疎外されることになる。
そしてこの3つのシステムは、互いに影響もしている。例えば、家族システムからは、「一家の大黒柱」などとして、男性が市場に送り出される。そこでは男性は、労働者という疎外されたものになるだろう。市場システムが持続する条件として、労働者は絶えず送り出されなければならない。そこで、家族システムが市場システムにおける労働者の供給源の役目を果たしていることが発見されるのだ。
このように、家族と市場というカテゴリは、一つの共犯関係を築いているのである。
国家と市場においては、市場から送り出された戦士が、国家において戦争兵士として犠牲になる例が20世紀には多々みられた。
国家と家族においては、家族政策という名のもと、国家が積極的に国民を作成する圧力をかけ、女性に負担をかけた。
国家、市場、家族という3つのカテゴリと影響関係、疎外を見ると、どこのだれが何から疎外されているのかが明晰に見えてくる。中でもフェミが主題とする女性は、この3つのカテゴリのいずれもから疎外されやすく、2重にも3重にも構造的に苦しんでいるということが明らかになった。
『資本制と家父長制』は上で見てきた見取り図をさらにくわしく分析しているが、このマルクス主義フェミニズムは今日においても妥当している。同理論の深化が問われるところだろう。
(おしまい)
哲学者の千葉雅也氏が「あなたにギャル男を愛してないとは言わせない」『思想地図B3 日本2.0』(ゲンロン社、2012)が提示した分析モデルをちょっと応用して、男女論に応用できるのではないかと考えている。
というか、思いつきなので、応用というより転用となっていると思う。
まずは、男性が女性を支配していたという典型的な社会理論の位置づけである。この位置づけでは、性別の担い手は男女というよりも、男性のみに限られる(女性は、男性ではないということによって定義づけられてしまう)。
男性のみが存在し、女性を隠ぺいするという学問発の従来の構造。これを、「単なる排除」と呼ぶ。男性が女性を排除するのである。
そこで、次に現代における男女間の様相を考えてみよう。
フェミニズムの運動のおかげで、殊に日本では、「女性を大切にしよう!」というスローガンだけは大きくなっている。そして、現状は、フェミが訴えた世界の変革ということはとりあえず置き去りにして、世の男性たちは、女性を優しく扱っているかのように見える。扱っている限りでは、上の「たんなる排除」ではない。
しかし、よく観察しなければならないのはここだ。
優しい男性とは、そのような男性社会とは、例えば、ギャグで「女性に支配される男性」といったような関係性を描く。女性優位の、女性が上位にあるような社会関係(オニヨメ、凶暴なフェミなどなど)だ。そのような関係は「倒錯」である。
もちろん、「倒錯」が現代の社会の姿だと早合点してはならない。倒錯しているかのように見えるが、しかし女性優位の社会が現にあるわけではない。では何があるのか。
ギャグということはどういうことか。笑いが起きる、自虐的とは。それは、「本来は」「男性優位」というテーゼがあるはず「なのに」、「あえて」女性を優位に置き換えてその様にある自分といった風におちゃらける、という意味である。
現代に生きる優しい男性像とは、そのようなものだと思う。女性に気を配る男性は、そういうギャグをスマートにかまして女性関係を作る。
彼らはその笑いが起きる原因を知らない。忘却いている。忘却しているということは、前に何かがあったということである。忘却は、無(はじめからなにもない)と等値ではない。では、なにがあったのか。
「男性優位」の社会である。優しい男性は、そのことを完全に忘却しているのだ。そして、あたかも自分は女性優位の社会に生きているかのようにふるまう。
これは、「倒錯的な排除」、「否定的な排除」である。 彼らは倒錯しているかのように見えるのだが、しかしそれは忘却という名のあの排除である。つまり、男性優位の社会像は、いまだ存在しているのだ。どこに。彼らの奥底に、構造にである。
以上、たんなる排除、倒錯、倒錯的な排除の3類型を通して、現代の男女関係は、3番目の倒錯的な排除型にあるということを結論付けておく。
(おしまい)
というか、思いつきなので、応用というより転用となっていると思う。
まずは、男性が女性を支配していたという典型的な社会理論の位置づけである。この位置づけでは、性別の担い手は男女というよりも、男性のみに限られる(女性は、男性ではないということによって定義づけられてしまう)。
男性のみが存在し、女性を隠ぺいするという学問発の従来の構造。これを、「単なる排除」と呼ぶ。男性が女性を排除するのである。
そこで、次に現代における男女間の様相を考えてみよう。
フェミニズムの運動のおかげで、殊に日本では、「女性を大切にしよう!」というスローガンだけは大きくなっている。そして、現状は、フェミが訴えた世界の変革ということはとりあえず置き去りにして、世の男性たちは、女性を優しく扱っているかのように見える。扱っている限りでは、上の「たんなる排除」ではない。
しかし、よく観察しなければならないのはここだ。
優しい男性とは、そのような男性社会とは、例えば、ギャグで「女性に支配される男性」といったような関係性を描く。女性優位の、女性が上位にあるような社会関係(オニヨメ、凶暴なフェミなどなど)だ。そのような関係は「倒錯」である。
もちろん、「倒錯」が現代の社会の姿だと早合点してはならない。倒錯しているかのように見えるが、しかし女性優位の社会が現にあるわけではない。では何があるのか。
ギャグということはどういうことか。笑いが起きる、自虐的とは。それは、「本来は」「男性優位」というテーゼがあるはず「なのに」、「あえて」女性を優位に置き換えてその様にある自分といった風におちゃらける、という意味である。
現代に生きる優しい男性像とは、そのようなものだと思う。女性に気を配る男性は、そういうギャグをスマートにかまして女性関係を作る。
彼らはその笑いが起きる原因を知らない。忘却いている。忘却しているということは、前に何かがあったということである。忘却は、無(はじめからなにもない)と等値ではない。では、なにがあったのか。
「男性優位」の社会である。優しい男性は、そのことを完全に忘却しているのだ。そして、あたかも自分は女性優位の社会に生きているかのようにふるまう。
これは、「倒錯的な排除」、「否定的な排除」である。 彼らは倒錯しているかのように見えるのだが、しかしそれは忘却という名のあの排除である。つまり、男性優位の社会像は、いまだ存在しているのだ。どこに。彼らの奥底に、構造にである。
以上、たんなる排除、倒錯、倒錯的な排除の3類型を通して、現代の男女関係は、3番目の倒錯的な排除型にあるということを結論付けておく。
(おしまい)
以下では、ジャック・デリダ「バベルの塔」(『他者の言語』法政大学出版局、1989 所収)を下敷きにして考えられた論文である。
「バベルの塔」は、デリダの文学論として読める。 そこでいう文学の範囲が問題となる。 それは、いちおう結論として、西洋のあらゆるテクストにおける一般理論としてデリダが考えたもの、となるのだが、これはデリダの他の論考との関係や、文学=広くテクスト、という枠を疑うもっと深い研究によって、覆されるかもしれない。
しかし、この「バベルの塔」ではともかく、彼は聖書に出てくるバベルの塔の言及によってはじめる。バベルとは、とりもなおさずBabelという固有名としての意味と、もうひとつ「混乱」という意味を持つという指摘をする。
固有名を翻訳することは不可能である(「本田太郎」という名前は、せいぜい音声を多言語によって置き換えられるぐらいで、その意味を問うことはほとんど不可能である)。 同様に、もともと混乱したものを翻訳することもまた不可能である。翻訳とは、なにかを確定させることなのだから。
そのことからして、まずもってバベルという語を翻訳することは無理に近い。
ところで、バベルの塔を建てたのは誰か。聖書の記述によると、それは神である。しかし、この建てるという意味を、制定するという意味に捉えてはならない。
ここでは、あのテクスト論をめぐる基本テーゼが打ち出される。すなわち、あるテクストを産出する主体が何であれ、テクストの意味を決定付けるのは作者ではないということ。
バベルの聖書における意味が翻訳不可能なのは、とりもなさず、神が作者だからである。ということは、神は、翻訳不可能なバベルを生み出してしまったのだ。
バベル、聖書は、西洋キリスト教社会の、始原である。そこからすべてははじまっている。聖書の記述が、そのまま社会の下敷きになっているといってもいい。
聖書の解釈、およびあらゆるテクストは、そうした世界の始原としての聖書を解釈=翻訳する作業に他ならない。テクストとはある意味、バベル=聖書の翻訳である。
しかしデリダはそこに楔を打ち込む。その始原としてのバベルそのものが、神という作者によって作られたひとつのテクストなのだと。 だから、神はそのテクストの意味を決定付けることに失敗したのであり、そのテクストとしてのバベル=聖書は、彼によって翻訳不可能である。
意味づけられないテクストは、要求する。何を要求するか。「翻訳」を。その場合の翻訳とは、意味を「復元する=返す」ものではないとデリダはいう。では、翻訳するとは、いったいなになのか?
そこには翻訳されるべきものがある。・・・それは、本質的には、伝達したり再現したりすることへと拘束するのではないし、すでに署名ずみの契約の履行へと約束するのでもない。むしろそれは契約の設定へ、協約の誕生へ、言い換えればシュンボロン[割符]の誕生へと拘束するのである。 (「バベルの塔」『他者の言語』34ページ)
テクストは、翻訳を要求する。その意味において、あらゆる作者=翻訳者(そこでは、バベルを建てた神でさえも翻訳者である)は、債務を負うものである。そしてその債務は、意味を返すことではない。ではなにかというと、割符の誕生へ向かうのである。割符とは少し単語が専門的だが、契約の設定へ立ち戻るのである。
この場合の契約とは、双務契約であり、原作(オリジナル、つまり聖書=バベル)と翻訳者との契約である。そして翻訳とは、常に新しく契約を設定することになるのだ。原作と翻訳者との絶えざる契約設定。その意味において、デリダは翻訳という作業が、「原作が成長するもの」「原作は種子」という意義を持つと述べる。
翻訳とは、テクストを翻訳するとは、撒かれた趣旨を育てていくことなのだ。それは限りなく続く。新たな種子を撒くと言うより、常に種子は育てられているのである。
この意味で、西洋社会とは、絶えず翻訳されていく社会、つまり種を成長させる社会に他ならない。文学=テクストは、そのような歴史の流れとの関連抜きには語れない。そして最初にあるのは、いつも意味を決定しそこねたテクストがあったのだ。
ここまで言うと、次のように語れるのではないか。デリダは、文学と歴史の関係を、ある独特な視点によって語っているのではと。
西洋社会においては、あらゆる人は翻訳者であり、文学者である。そうした人は、社会の始原との結びつき(契約)をそれぞれ持つのだ、と。そうして、人々の文学的な営みは、それぞれの契約において撒かれた種を成長させることにあるのだ、と。 文学は、そうした歴史との関係において立ち現れるのである。
そしてここでもう一つ指摘しておかなければならないのが、社会素描である。つまりあらゆる翻訳者であるところの人々は、みなそれぞれ始原との契約関係をもっているのだ。そうした意味では、人々は同じところに根本的な根を持つが、しかし互いにそれぞれの契約設定を行うという風に、なんとも不思議な構成をしているのだ。
この見地からいくと、西洋社会は単なる共同体としては語れないし、完全に別個の個人社会とも言い切れない。そこには屈折した構造が見える。
さて、「バベルの塔」が描写した事柄は、彼の理論において、どこまで範囲を持つのだろうか。
(おしまい)
早いものでこのエッセイも第六回となった。
エッセイ集ということで、筆者もかなり思いつくままに連載しているし、内容も雑多なので、非常にまとまりが悪いと思う。
ここまで簡単にまとめておくと、
仏教の祖シッダールタは、世界真理に到達し、悟りの境地に達してからも、その後の仏教団をどうするか、混乱したインド情勢は、自分の死は、というふうにさまざまな課題に追われていた。
それはなぜか?
シッダールタが達したのは、自己の世界についての真理だったからだ。自己は最大限に肥大化され、世界理解にまで押し広げられた。
しかし、自己世界以外の世界もある。
ならば、現代に生きる私たちは、自分とは何かという第一の問いを超えて、次のステージに進まなければならない。
自己というものをなお理解しても立ち現れる、世界とは何だろうか、と。
そこで、唐突ではあるが、前回、中沢新一を引き受けて、世界理論の構築を宣言したのだった。
前回は軽く触れて終わったが、前回の記述はやはり、ルーマンの社会システム理論とかなり似ているのである。
ならば、ルーマン理論とどのように違い、どのように似ているのか、そして社会(世界)を記述するよりよい方法とは何かを考えていかなければならない。
ところで社会学者ルーマン受容は、ここ最近になって花開いてきている。ルーマンを専門的に研究した学者たちが、自分たちの理論や応用を積極的に展開しだしたからだ。
しかし、ルーマン研究は、ルーマンの初期の著作に限られがちである。宮台は、「彼の主張はいつも同じだ」と言って、著作をずっと読んでいると言いながらも、後期著作については何も触れていない。
それは正しいのだろうか? 特に、社会シリーズは、膨大な言説と難解な言葉廻しで有名である。あれは、本当に初期のテーゼの繰り返しにすぎないのだろうか?
バイロジック各論では、思い切って、そうした後期ルーマン著作の研究もしてみたい。ルーマンのテーゼをはっきりさせることで、私たちの足取りも同時にはっきりさせることができるからである。
もう一方で、第五回に端を発した、独自のテーゼも、ゆっくりと展開させたい。この両方を開始することで、私たちのとりあえずの目的が達せられるであろう。
.1、世界の受容
ここでは認識論に立ち戻ろう。 世界とは何か、世界を認識する自己とは何か。実はこの二つの問いは同時に答えが導き出される。
自己/世界 と区別をするのであれば、そこには「自己と他(世界)とは何か違う」という意識が前提のもとに置かれていることになる。
だが、注意をしなければならないのは、区別とは一通りのものではないということだ。区別にはいくつかやりかたがある。
ここでは、形式的区別・実質的区別の二者を呼び出そう。
すると、先ほどの、「自己と世界とは何か違う」の「何か」には、特段の内容は含まれていないのであるから、形式的区別ということになる。形式的区別とは、とりあえず線を引いておく、ということである。
私たちは、とりあえず形式的区別を引いて生活をする。それはおそらく、自己を守るためであろう。
自己を守るため、とは、自己が理解不能の領域に達しないようにする、ということである。
自己が理解不能になってしまったら、人は絶えず精神病に悩まされることになる。もちろんここには医学的な研究が必要不可欠であるが、それにしても私たちは、自己をある程度持っていないと、生きることがむつかしくなるのである。
ということはだ。世界とは違う自己を守るということは、自己には自己なりの世界が成り立っているということだ。言葉を変えて言えば、自己の中には乱気流みたいな世界とは区別された、独特の世界観があるということである。
この世界観のことをシステムと呼び換えておこう。システムとは、あるまとまりをもった体系、くらいの意味である。
とすると、自己を前提とする限りで、自己/世界 の二つが区別されることになる。その区別とは言えば、自己には自己流のシステムが備わっている、一方で世界は乱気流である、という風にだ。少なくとも、自己は乱気流のようにはなっていない、ということが確認されれば、自己/世界 の区別は達成されたことになる。
では、乱気流ではない自己とは、仮の姿に過ぎないのだろうか? おそらく、そうである。私たちは、主体という見方にはまっている。主体とはかくあらねばならない、主体が明確になってはじめて、世界は整然としたものになる、云々。
言ってしまえば、自己が本当に乱気流でないのかどうかはどうでもいい。 そもそも、乱気流をどう説明すればいいのだろうか? 本稿の真の問いはそこにある。
A / Aでないもの
と二つに分けるのが論理学の伝統のやり方であるが、これでは例えば
B
という要素を完璧に見失ってしまう。
Aでない、つまり理論的ではないからといって排斥されたものが、実はBという要素によって新たな論理を与えられたら。
Aではないから、という証明があるだけでは、実は何も言ってないに等しいのである。
かなり記述が乱雑になったので、次回まとめよう。
エッセイ集ということで、筆者もかなり思いつくままに連載しているし、内容も雑多なので、非常にまとまりが悪いと思う。
ここまで簡単にまとめておくと、
仏教の祖シッダールタは、世界真理に到達し、悟りの境地に達してからも、その後の仏教団をどうするか、混乱したインド情勢は、自分の死は、というふうにさまざまな課題に追われていた。
それはなぜか?
シッダールタが達したのは、自己の世界についての真理だったからだ。自己は最大限に肥大化され、世界理解にまで押し広げられた。
しかし、自己世界以外の世界もある。
ならば、現代に生きる私たちは、自分とは何かという第一の問いを超えて、次のステージに進まなければならない。
自己というものをなお理解しても立ち現れる、世界とは何だろうか、と。
そこで、唐突ではあるが、前回、中沢新一を引き受けて、世界理論の構築を宣言したのだった。
前回は軽く触れて終わったが、前回の記述はやはり、ルーマンの社会システム理論とかなり似ているのである。
ならば、ルーマン理論とどのように違い、どのように似ているのか、そして社会(世界)を記述するよりよい方法とは何かを考えていかなければならない。
ところで社会学者ルーマン受容は、ここ最近になって花開いてきている。ルーマンを専門的に研究した学者たちが、自分たちの理論や応用を積極的に展開しだしたからだ。
しかし、ルーマン研究は、ルーマンの初期の著作に限られがちである。宮台は、「彼の主張はいつも同じだ」と言って、著作をずっと読んでいると言いながらも、後期著作については何も触れていない。
それは正しいのだろうか? 特に、社会シリーズは、膨大な言説と難解な言葉廻しで有名である。あれは、本当に初期のテーゼの繰り返しにすぎないのだろうか?
バイロジック各論では、思い切って、そうした後期ルーマン著作の研究もしてみたい。ルーマンのテーゼをはっきりさせることで、私たちの足取りも同時にはっきりさせることができるからである。
もう一方で、第五回に端を発した、独自のテーゼも、ゆっくりと展開させたい。この両方を開始することで、私たちのとりあえずの目的が達せられるであろう。
.1、世界の受容
ここでは認識論に立ち戻ろう。 世界とは何か、世界を認識する自己とは何か。実はこの二つの問いは同時に答えが導き出される。
自己/世界 と区別をするのであれば、そこには「自己と他(世界)とは何か違う」という意識が前提のもとに置かれていることになる。
だが、注意をしなければならないのは、区別とは一通りのものではないということだ。区別にはいくつかやりかたがある。
ここでは、形式的区別・実質的区別の二者を呼び出そう。
すると、先ほどの、「自己と世界とは何か違う」の「何か」には、特段の内容は含まれていないのであるから、形式的区別ということになる。形式的区別とは、とりあえず線を引いておく、ということである。
私たちは、とりあえず形式的区別を引いて生活をする。それはおそらく、自己を守るためであろう。
自己を守るため、とは、自己が理解不能の領域に達しないようにする、ということである。
自己が理解不能になってしまったら、人は絶えず精神病に悩まされることになる。もちろんここには医学的な研究が必要不可欠であるが、それにしても私たちは、自己をある程度持っていないと、生きることがむつかしくなるのである。
ということはだ。世界とは違う自己を守るということは、自己には自己なりの世界が成り立っているということだ。言葉を変えて言えば、自己の中には乱気流みたいな世界とは区別された、独特の世界観があるということである。
この世界観のことをシステムと呼び換えておこう。システムとは、あるまとまりをもった体系、くらいの意味である。
とすると、自己を前提とする限りで、自己/世界 の二つが区別されることになる。その区別とは言えば、自己には自己流のシステムが備わっている、一方で世界は乱気流である、という風にだ。少なくとも、自己は乱気流のようにはなっていない、ということが確認されれば、自己/世界 の区別は達成されたことになる。
では、乱気流ではない自己とは、仮の姿に過ぎないのだろうか? おそらく、そうである。私たちは、主体という見方にはまっている。主体とはかくあらねばならない、主体が明確になってはじめて、世界は整然としたものになる、云々。
言ってしまえば、自己が本当に乱気流でないのかどうかはどうでもいい。 そもそも、乱気流をどう説明すればいいのだろうか? 本稿の真の問いはそこにある。
A / Aでないもの
と二つに分けるのが論理学の伝統のやり方であるが、これでは例えば
B
という要素を完璧に見失ってしまう。
Aでない、つまり理論的ではないからといって排斥されたものが、実はBという要素によって新たな論理を与えられたら。
Aではないから、という証明があるだけでは、実は何も言ってないに等しいのである。
かなり記述が乱雑になったので、次回まとめよう。