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- 03/10 [PR]
- 12/19 一杯のコーヒーの哲学
- 12/13 マイナーとしての自分
- 12/05 日本政治の見方
- 12/04 「市民主権」という言葉について
- 11/19 ハイデガー×ドゥルーズ 省察(1)
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一杯のコーヒーの哲学
香りがたちこめる。暖かくて、どこまでの深みのあるそれ。冬のリヴィングは、だいぶ寒くて、空気がパリッとしている。やかんがキューと音を立てる。スイッチを止め、マグカップにお湯を注ぐ。コポコポコポ・・・・・・・。たちまちにコーヒーの匂いが私の鼻を誘い、少し眠たい朝を優しく出迎えてくれる。
いろんなコーヒーがある。なるほど、それは確かに物質的には同じだろう。似たりよったりのコーヒーの豆があり、ちょっとの砂糖と、それからミルクがあれば、同じものができる。それは、化学的にはそうである。コーヒーの豆を変えてはどうか。確かに、豆を変えるとだいぶ味も違ってくるが、科学者たちは、それでもある種類についてのコーヒーならば、同じ味を何度も再現できると言い張るだろう。
だがそれは本当だろうか。私は違うと思う。一杯のコーヒーの味は、注意してみると、その都度その都度だいぶ違う。なぜか。それは、その時のコーヒーを飲んだ自分の気分、目の前にあるモノ、直前にあった出来事、その日の天気、時間帯、周りの環境、などの要するに日々の記憶と、一体になっているからだ。
私は、ここで強く主張してみたいと思う。コーヒーを飲むとはそれすなわち、その時その時の生きた瞬間を一緒に味わうことなのだ、と。
ベルクソンという哲学者は、持続という観念で新鮮な時間論を創り上げた。いわく、思考から空間という概念を捨象してみると、そこにあるのは持続という観念にほかならず、ある対象xがn乗反復しているのだ、と。
少し難しいので、用語の説明から始めよう。持続というのは、続く、というくらいの意味である。空間という考え方は、ある場所に、例えば建物Aがあって、Bがあって・・・という説明になる。しかし、それは時間という契機を軽視してしまいがちになる。はじめに場所(空間)があるのではなく、建物Aが1回、2回、3回・・・n回、建物Bが1回、2回、3回・・・n回と繰り返されることによって、むしろ世界は成り立っているのだ。ベルクソンはそう考えた。
彼は言う。反復とは、同じものの繰り返しを意味する一般性とは区別されるべきであると。本当の繰り返し、反復とは、毎回毎回同じものを異なったふうに繰り返していくのだと。そこでは、確かに繰り返される対象は(xという)定量的なものである。しかし、それは単なる機械的反復を意味しない。同じ対象(対象x)が、毎回違ったふうに繰り返されるのだ。それが反復の真なる意味である。
一杯のコーヒーがある。それは、1回、2回、3回・・・n回と繰り返される。しかも、毎回毎回違ったふうに。よくよく注意してみたら、毎回のコーヒーの味はいつも微妙に違っているのだ。何故か。それは、あなたの生きる瞬間が、実に多様で何一つとして同じものはないからである。
機械的にしかコーヒーを飲めてない人は残念である。そのような人は、ベルクソンから言わせたら、一般性の方の機械的反復をしてしまっている、と言うだろう。いつも同じ味、すなわちコーヒー豆と砂糖とミルクが混ざった味、がするだけで、その人は永久的に同じ味を味わい続けるだろう。それはすなわち、生きている日常がほとんど同じ意味しか持たず、ただひたすら同一の日々を繰り返すという無限の修行のようなものである。
ベルクソンなら、笑うだろう。なぜ、君は同じ毎日を繰り返している。それよりも、生きている日常の、いろんなことに気がついてご覧。庭に咲いている花は、一度たりとして同じように見えていないのだ。いつも見るたびに、新しい発見、新しい姿が立ち現れるだろう。それと同じように、君が飲むコーヒーも、昨日とは違った味、違った匂いがするはずである。何よりも、君が生きた日々の多様性を反映しているのだから。
映画『魔女の宅急便』に出てくる、おサトさんが初めての街に迷い込んだキキを優しくもてなす時のコーヒーは、私にとって絶妙である。おサトさんのコーヒーの入れ方は、ちょっとがさつで乱暴だが、あの時のコーヒーほど人の心を安心させ、優しくしてくれるものはないだろう。とっての大きいマグカップ、かき混ぜるためのスプーン。
私は、いつかそのようなコーヒーを飲みたい。いや、もう飲んでいるのかもしれないし、まだ飲んでいないのかもしれない。永遠回帰だ。そのようなコーヒーに向かって、私の人生はただひたすら、前を向いているのである。
(終わり)
香りがたちこめる。暖かくて、どこまでの深みのあるそれ。冬のリヴィングは、だいぶ寒くて、空気がパリッとしている。やかんがキューと音を立てる。スイッチを止め、マグカップにお湯を注ぐ。コポコポコポ・・・・・・・。たちまちにコーヒーの匂いが私の鼻を誘い、少し眠たい朝を優しく出迎えてくれる。
いろんなコーヒーがある。なるほど、それは確かに物質的には同じだろう。似たりよったりのコーヒーの豆があり、ちょっとの砂糖と、それからミルクがあれば、同じものができる。それは、化学的にはそうである。コーヒーの豆を変えてはどうか。確かに、豆を変えるとだいぶ味も違ってくるが、科学者たちは、それでもある種類についてのコーヒーならば、同じ味を何度も再現できると言い張るだろう。
だがそれは本当だろうか。私は違うと思う。一杯のコーヒーの味は、注意してみると、その都度その都度だいぶ違う。なぜか。それは、その時のコーヒーを飲んだ自分の気分、目の前にあるモノ、直前にあった出来事、その日の天気、時間帯、周りの環境、などの要するに日々の記憶と、一体になっているからだ。
私は、ここで強く主張してみたいと思う。コーヒーを飲むとはそれすなわち、その時その時の生きた瞬間を一緒に味わうことなのだ、と。
ベルクソンという哲学者は、持続という観念で新鮮な時間論を創り上げた。いわく、思考から空間という概念を捨象してみると、そこにあるのは持続という観念にほかならず、ある対象xがn乗反復しているのだ、と。
少し難しいので、用語の説明から始めよう。持続というのは、続く、というくらいの意味である。空間という考え方は、ある場所に、例えば建物Aがあって、Bがあって・・・という説明になる。しかし、それは時間という契機を軽視してしまいがちになる。はじめに場所(空間)があるのではなく、建物Aが1回、2回、3回・・・n回、建物Bが1回、2回、3回・・・n回と繰り返されることによって、むしろ世界は成り立っているのだ。ベルクソンはそう考えた。
彼は言う。反復とは、同じものの繰り返しを意味する一般性とは区別されるべきであると。本当の繰り返し、反復とは、毎回毎回同じものを異なったふうに繰り返していくのだと。そこでは、確かに繰り返される対象は(xという)定量的なものである。しかし、それは単なる機械的反復を意味しない。同じ対象(対象x)が、毎回違ったふうに繰り返されるのだ。それが反復の真なる意味である。
一杯のコーヒーがある。それは、1回、2回、3回・・・n回と繰り返される。しかも、毎回毎回違ったふうに。よくよく注意してみたら、毎回のコーヒーの味はいつも微妙に違っているのだ。何故か。それは、あなたの生きる瞬間が、実に多様で何一つとして同じものはないからである。
機械的にしかコーヒーを飲めてない人は残念である。そのような人は、ベルクソンから言わせたら、一般性の方の機械的反復をしてしまっている、と言うだろう。いつも同じ味、すなわちコーヒー豆と砂糖とミルクが混ざった味、がするだけで、その人は永久的に同じ味を味わい続けるだろう。それはすなわち、生きている日常がほとんど同じ意味しか持たず、ただひたすら同一の日々を繰り返すという無限の修行のようなものである。
ベルクソンなら、笑うだろう。なぜ、君は同じ毎日を繰り返している。それよりも、生きている日常の、いろんなことに気がついてご覧。庭に咲いている花は、一度たりとして同じように見えていないのだ。いつも見るたびに、新しい発見、新しい姿が立ち現れるだろう。それと同じように、君が飲むコーヒーも、昨日とは違った味、違った匂いがするはずである。何よりも、君が生きた日々の多様性を反映しているのだから。
映画『魔女の宅急便』に出てくる、おサトさんが初めての街に迷い込んだキキを優しくもてなす時のコーヒーは、私にとって絶妙である。おサトさんのコーヒーの入れ方は、ちょっとがさつで乱暴だが、あの時のコーヒーほど人の心を安心させ、優しくしてくれるものはないだろう。とっての大きいマグカップ、かき混ぜるためのスプーン。
私は、いつかそのようなコーヒーを飲みたい。いや、もう飲んでいるのかもしれないし、まだ飲んでいないのかもしれない。永遠回帰だ。そのようなコーヒーに向かって、私の人生はただひたすら、前を向いているのである。
(終わり)
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人間とは、河の流れのようなものだと思う。ゆるやかに、しかし確実にこくこくと流れていく河だ。このことは、いくら強調しても、いつの時代にも抑圧され見過ごされるので、強調しすぎることがない。
反対に、人間とは確固とした岩のような、大地のようなものであるのだろうか? 私はそうは思わない。あるものは移りゆく今だけだと思う。
どの人間にも、メジャーなもの(ある程度共通している、<理性>や<掟>といったモノ)と、マイナーなもの(自分だけに特有の、感情や性)なものが混合している。
大多数の人間は、自分がマイナーなものを抱えているということに気がつかない。自分は当たり前、言い換えれば普遍的存在だと認識している。
しかし、マイナーなものは確実に存在する。自分に特有のもの、この感情、この瞬間、この生――。自分だけにしか把握することのできない痛みや、快楽が確かに存在するのだ。
人は怖いのだろう。突き詰めれば、自分は誰とも違う、特異な存在であるということに。だから、安定を、確定を求める。メジャーなものたらんとする。そして、マイナーなものを抑圧する。
ドゥルーズは懸命にもそういった特異性を積極的に肯定し、くよくよしている主体に、それがなんだと笑い飛ばす。それが自分、それが人生なのだと、だから楽しめ、と。
いつも、少数の人は虐げられながら、真理を手にし、それからどうやってこの世界と折り合いをつけるのかを考えていく。真理に気づいたのは誰のせいでもない。
社会の、変革を目指しながら。
(終わり)
1、 日本政治の見方
50年代以来、日本の政権は自民党が担ってきた。とすれば、戦後以来日本が抱えてきた問題は、自民の政治運営に基づくといっても過言ではない。
例えば、自民党の経済政策は、基本的に競争を促進し、税を一定程度とりあげ、社会保障にまわすという図式になっている。ところどころ変わることもあるが、基本が今述べたことにあるのは間違いない。
平たく言えば、自民はあまり経済的弱者を保護しようとしない。仕方ないというのが彼らの理論である。経済的弱者をおいておいても、国際的な競争力を高め、もって日本の力とすることに主眼が置かれている。
しかし、そのような見方は、90年代ではバブル経済が終焉し、00年代には経済格差が明らかになった現代政治においては、説得性を持たない。 そういう意味では、自民は強い人向けの政党ということになる。
私のツイッターでは、自民党の、性的マイノリティやいじめ問題への否定的態度、といった事案がよく流れ込んでくる。 近年、性的少数者問題や、児童のいじめ問題が70~80年代には隠蔽されていたということが告発されるようになってきているが、これも基本的に自民党の運営に基づくものといってよい。
ここまでが自民の記述だが、したがって、反対勢力としての他党は、まずこれに対するアンチテーゼとして意味があったのである。
それは、従来の政治構造から脱却し、問題解決を目指すということに他ならない。
今、この選挙のタイミングで、自民が政権をとるということになると、それはゆれ戻しに他ならない。
それから私が強調しておきたいのは、自民党から幾つか離反して新たに立ち上がった党も、基本的にはさきほど述べたラインをはなれていないのではないかと疑いにかかるのが大切だということである。
今は民主党からの離反が大きいが、民主からの離反は、自民/アンチテーゼとしての民主/アンチテーゼからのゆれ戻し、いずれにも組していないので、どこに位置づけるかが非常に難しい。
民主は、長らくの自民党の政治運営への批判として始まったが、この3年ではそれを果たせなかった、という見方が正しいであろう。
とすれば、何をすればより正しくなるかは、個々の政策によって違うのであって、それはかなり考え方が割れる。政党がたくさん勃発するのもうなずける。
私の希望では、いぜんとして、まだ成されていない、自民へのアンチテーゼをコンティニューしてくれる、というのがポイントである。 その点を見ると、自民は今回の総選挙においては、まだ自らの基本路線は脱していないし、民主もこれまでの3年間を十分に反省しているかといったら微妙である。
そういう意味では、いずれにせよ自民党以外のどこかが政権をとったとしても、連立して広く政策関与していくことになるのではないかと思われる。
その点、そもそも議員数を大胆に減らそうとする維新の会は、もってのほかである。
以上、自民/自民へのアンチテーゼ、第三極 を図式で示し、最後に私の希望と政治予想を立ててみた。
(終)
50年代以来、日本の政権は自民党が担ってきた。とすれば、戦後以来日本が抱えてきた問題は、自民の政治運営に基づくといっても過言ではない。
例えば、自民党の経済政策は、基本的に競争を促進し、税を一定程度とりあげ、社会保障にまわすという図式になっている。ところどころ変わることもあるが、基本が今述べたことにあるのは間違いない。
平たく言えば、自民はあまり経済的弱者を保護しようとしない。仕方ないというのが彼らの理論である。経済的弱者をおいておいても、国際的な競争力を高め、もって日本の力とすることに主眼が置かれている。
しかし、そのような見方は、90年代ではバブル経済が終焉し、00年代には経済格差が明らかになった現代政治においては、説得性を持たない。 そういう意味では、自民は強い人向けの政党ということになる。
私のツイッターでは、自民党の、性的マイノリティやいじめ問題への否定的態度、といった事案がよく流れ込んでくる。 近年、性的少数者問題や、児童のいじめ問題が70~80年代には隠蔽されていたということが告発されるようになってきているが、これも基本的に自民党の運営に基づくものといってよい。
ここまでが自民の記述だが、したがって、反対勢力としての他党は、まずこれに対するアンチテーゼとして意味があったのである。
それは、従来の政治構造から脱却し、問題解決を目指すということに他ならない。
今、この選挙のタイミングで、自民が政権をとるということになると、それはゆれ戻しに他ならない。
それから私が強調しておきたいのは、自民党から幾つか離反して新たに立ち上がった党も、基本的にはさきほど述べたラインをはなれていないのではないかと疑いにかかるのが大切だということである。
今は民主党からの離反が大きいが、民主からの離反は、自民/アンチテーゼとしての民主/アンチテーゼからのゆれ戻し、いずれにも組していないので、どこに位置づけるかが非常に難しい。
民主は、長らくの自民党の政治運営への批判として始まったが、この3年ではそれを果たせなかった、という見方が正しいであろう。
とすれば、何をすればより正しくなるかは、個々の政策によって違うのであって、それはかなり考え方が割れる。政党がたくさん勃発するのもうなずける。
私の希望では、いぜんとして、まだ成されていない、自民へのアンチテーゼをコンティニューしてくれる、というのがポイントである。 その点を見ると、自民は今回の総選挙においては、まだ自らの基本路線は脱していないし、民主もこれまでの3年間を十分に反省しているかといったら微妙である。
そういう意味では、いずれにせよ自民党以外のどこかが政権をとったとしても、連立して広く政策関与していくことになるのではないかと思われる。
その点、そもそも議員数を大胆に減らそうとする維新の会は、もってのほかである。
以上、自民/自民へのアンチテーゼ、第三極 を図式で示し、最後に私の希望と政治予想を立ててみた。
(終)
「市民主権」という言葉は、辻村先生が使っている言葉だ。私は辻村先生の書かれた『憲法』のテキストは持っているのだが、「市民主権」が具体的に論じられているのは他の書物で、それは持っていない。
『憲法』に書かれていることから読み取れる「市民主権」という言葉には、どうも違和感を感じる。
というのは、まず大前提として、「市民主権」の対には国民主権があるのだが、
市民、国民という言葉はそれぞれ、
市民ー市民社会
国民ー国家
という言葉が対応しているのが常である。辻村先生が市民という言葉を使っているからには、市民社会を想定されているのであろう。しかし、国家と市民社会とは必ずしも同一ではないはずだ。
辻村先生が、こともあろうに、憲法(国家を縛る法規)から市民主権の概念を取り出すとは、相当ラディカルな試みだと思う。 というのは、それは国家を否定し、市民社会を積極的に認めていこうとする立場からだ。
辻村先生の論法に従うと、おそらくそれは、主権を持った市民からなる社会が、見えざる権力たる国家機関――それは人が不在の――が常駐する国家を、凌駕するという思想だと思う。
とすると、それは市民の理念が、権力構造を作り多くの人を従属せしめる国家というものを、否定していく試みにほかならない。
しかし、国民主権が、そこまでラディカルな概念だろうか? つまり、国民はいずれ自分自身を否定し、国家を否定し、あらたに市民社会を構想する、言い換えれば憲法は自分自身を破棄することになる条項を持つことができるのだろうか。
具体的には辻村先生が考えられている、国家と市民社会の関係を知らないとわからないが、私見では国家と市民主権=市民社会は相反するものである。
というのは、市民が主権を持った場合、それを損なうことなく発揮するためには、例えばある機関を作り出してそれに委任するといったようなことは、社会契約を結んで成立する国家の誕生の繰り返しにしかならないはずであり、国家は必ずしも国民主権を保障しない――直接民主主義制度を取らない限りは――ので、それではダメである。
市民社会とは、歴史的に見れば、国家とは別の形で、理念を持たされたはずだ。
市民社会を作ろうとすれば国家がジャマになるし、国家を作ろうとすれば市民社会がジャマになる。
だから、およそ国家の制限法規たる憲法から、市民社会の根幹を萌芽する「市民主権」の理念を取り出す辻村先生の読みは、一般的に不可能だと思われる。
それでも好意的に先生の解釈を肯定しようとすれば、どうなるか。
私は、東浩紀の、国民;住民+市民 の二元論的構成を取る立場を採用する。
この考えは、そもそも国民という概念が、異質な二つの住民と市民という概念を合わせたと解釈する方法である。
この立場から行くと、国民主権という言葉も、半分は市民主権を意味していることになる。
残りの半分で、結局間接民主主義制度による、住民(国民)主嫌の制限が説明できる。 つまり、住民(国民)主権とは、政治的美称にすぎないのであり、目指すべき目標であると。 住民主権が十分に発揮されているといえるくらいの、努力が、制度構築によって目指されているのだ、と苦しいが一応の解釈はできる。
こうすれば、国民主権をたかだかあげていても、市民主権の意味と、住民主権の意味と、2つを意味しているという新しい解釈ができる。 辻村先生の解釈は、半面において正しいということになろう。
以上は、市民社会の範囲と、国家の範囲が理論的に重ならないから、憲法から市民主権の意味を100%読み取るのは不可能であろうと示した。そして、50%読み取る術はあると、示したつもりである。
(終)
ハイデガーもドゥルーズも、その評価は多岐にわたっているので、哲学史的な位置づけは難しい。
だからこそ、両者がどのように重なり合っているのか、を示すことはとても重要なことになろう。
ハイデガーは、実存主義にも構造主義にも影響を与えたと言われる。彼の仕事の広さ、解釈をめぐる深さのあらわれである。
しかし、ハイデガーはどちらかというと、ナチ加担で否定的にとらえる風潮がまだあるといってもいいと思う。彼の哲学の見直しが進んでいる中、ハイデガーを改めてとりあげることはとても意義がある。
一方で、ドゥルーズは日本で大評判で、それを覆すような議論は未だ現れていないといってよい。
ドゥルーズが構造主義といかなる関係にあるかを考えるのは彼自身が意味がないと言っているが、いずれにせよ、ポスト構造主義者と言われ「ている」人々を「個別に見てみれば」、いずれも多方向に思考を深めている人たちであって、その議論の位置づけを行うことは今にあってもなお流動的であるといえるだろう。
筆者は、生まれ的にも環境的にもドゥルーズに多大な影響を受けているので、そのことを自分でも踏まえつつ考察をすすめたい。
今回取り上げるのは、ドゥルーズの主著『差異と反復』である。というのも、この書物の序論でいきなりハイデガーに触れるからである。
本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの点を挙げてよいだろう。まず、ハイデガーが、存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること。(『差異と反復』財津理訳、13ページ)
ハイデガーの存在論(存在とは何か?)とは有名だが、存在論的≪差異≫の哲学とは何だろうか?この点は、必ずしも明らかではない。
続けて、ドゥルーズはこの本の探求方法を率直に述べている。引用が長くなるが、確認する。
わたしたちは、わたしたちの外で、かつわたしたちの内で、このうえなく機械的で極度に常同症的なもろもろの反復に直面しつつ、そうした諸反復から、絶えずいくつかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している――それが、現代における私たちの生であろう。しかしそれを逆に見れば、偽装しながら隠れているいくつかの秘めやかな反復が、ひとつの差異の永続的な置き換えによって活気づけられながら、わたしたちの内でかつわたしたちの外で、機械的で常同症的な裸の反復を再現しているのである。見せかけ(シミュラクル、括弧内引用者)においては、反復がすでに複数の反復を対象としており、差異がすでに複数の差異を対象としている。反復されるのは、まさに諸反復であり、異化=分化させられるのは、まさに異化=分化させるものである。生の務めは、差異がみずからを配分していくある空間の中で、すべての反復を共存させるところにある。本書は、はじめから、つぎのような二つの方向で探求を進めている。その一方は、否定なき差異という概念にかかわる方向である。まさしく、差異は、同一的なものに従属させられない限り、対立と矛盾に行きつくことはないだろうし、またそこに「行き着く必要もないだろう」からである。――他方は、反復という概念にかかわる方向である。たとえば、機械的あるいは裸の物理的な諸反復(≪同じ≫ものの反復)は、「差異的=微分的」なものを偽装し置き換えてゆくある隠れた反復のいっそう深い諸構造に、おのれの存在理由を見出すだろうからである。そうした純粋な差異と複雑な反復という概念は、いかなる機会においても、ひとつにまとまってまじりあっているように思えたので、以上のような二つの探求はおのずから合流することになった。差異の永続的な発散と脱中心化には、反復における置き換えと偽装が、密接に対応しているのである。(14ページ)
本書のタイトル『差異と反復』には、(1)否定なき差異の探求、(2)反復の探求、これらが一つにまじりあっているので合流するようになった、と述べられている。
否定なき差異とはどういうことだろうか? 引用した直前の文章では、こう述べられている。”わたしたちは、それ自身における差異を、そして<異なるもの>と<異なるもの>との関係を、表象=再現前化の諸形式から独立に思考したい。なぜなら、この諸形式は、その差異とその関係を、≪同じ≫ものに連れ戻し、それらをして否定的なものを経由させてしまうからである。” ドゥルーズの攻撃は、表象=再現前化の諸形式に向けられている。否定的に関連させられているワードは、対立と矛盾である。
『差異と反復』では、表象=再現前化というキーワードが何回も取り上げられ、それが何であるか明らかになっていく。ここでは、違うものと違うもの、例えば肌の白い人と黒い人がいるとする。それらは≪同じ≫人間として扱われ、白人VS黒人という対立図式や、白人社会における黒人差別といった葛藤を引き起こす。そういった全体のことが、表象=再現前化というワードで示されていると理解してよい。そのとき対立や矛盾(葛藤)とは、どのような意味合いにおいて否定と表現されるのだろうか?
さきほどの長い引用に立ち戻るが、ここには簡潔に、そして鮮明にドゥルーズによる現代の人々の描写がなされている。曰く、われわれは、諸反復から、絶えずちっぽけな差異、ヴァリアント、変容を引き出している、それが現代の生だと。私たちは似たような環境の中で、小さな違いをかけがえのないものとして、個人主義的に生きている。それは、ドゥルーズから見れば、ひとつの差異を永続的に置き換えることによって、きちがいじみた反復をずっと繰り返していることになるのだ。 そこでは差異は、ひとつのものとして取り上げられている。ここが肝要である。ちっぽけな差異やヴァリアントは、実は複数のものではない――。それらはひとつのものなのだ。この点をどう理解するか、ドゥルーズがどう論証するかが、ドゥルーズのハイデガーの理解にもかかわってくる。
それにしても、「反復が複数の反復を対象とし、差異が複数の差異を対象とし」ているとは、いったいどのようなことであろうか。私たちにはまだそのイメージはつかめない。簡単な言葉で表されているが、それは数学的イメージにも転用できそうで、まだここでは言わんとしている意味は掴めない。
引用文から一気に飛んで、67ページに飛ぼう。
一義性と差異
結局、<≪存在≫は一義的である>という存在論的命題しかなかったのである。結局、唯一の存在論、すなわち、存在に唯一の声を与えるドゥンス・スコトゥスの存在論しかなかったのである。なぜドゥンス・スコトゥスかというと、彼こそが、なるほど抽象化してしまったのかもしれないが、とにかく一義的な存在を最高度の精妙さにまで仕上げることができたからである。しかし、パルメニデスからハイデガーに至るまで、まさに同じ声が、それだけで一義的なものの全展開を形成するようなひとつのエコーのなかで繰り返されるのである。(67ページ)
どういうことだろうか。唯一の存在論とは。ハイデガーの存在論は、つきつめればあるひとつの同じ存在についての論でしかなかったというのだ。
67ページの展開の中で何があったかは、次回で見ていくことになるが、ドゥルーズはさきほど述べた二つの探求の内の「差異」のテーマのほうで(第一章のタイトルは「それ自身における差異」)で、比較的早いうちにハイデガーの存在論をも検討したことになる。曰く、「ドゥンス・スコトゥスの存在論」、”存在”にただひとつの声のみを認める(与える、のほうが正しいのか)、存在の一義性。
よく知られている話では、ハイデガーは、まずこの世界では、人間とかウサギとか、それぞれが「存在している」ことは分かったのだけれども、そこを飛び越えて、「存在」とは何かを問うたのだった。ドゥルーズは、それに「存在とは、ただひとつの存在でしかない」と答える。「人間が存在する」の「存在」も、「ウサギが存在する」の「存在」も、同じであると言う。
ドゥルーズは、こう続ける――。
≪存在≫は、絶対的に共通なものであるからと言って、ひとつの類であるわけではないということ、これを理解するのに何も苦労することはない。(67-8ページ)
ドゥルーズは、以下のようにして3つの区分を提示する。すなわち、複雑な<もの>として理解される命題においては、(1)命題の<意味>、(2)<指示されるもの>、(3)<指示するもの>。
例えば、ある分かれ道の岐路に、看板があったとしよう。 命題の意味とは、「この分かれ道を右に行きなさい」、指示されるものとは「右に行くこと」、指示するものとは「看板の記号」である。そしてドゥルーズは、”重要なのは、形相的に区別される複数の<意味>が、それにもかかわらず、存在論的に一なるただひとつの<指示されるもの>としての存在(ある)に関係する・・・”と述べる。
人間が存在する
ウサギが存在する
この2文は、違う事態を指示しているが、それは主語においてのかぎりのことである。存在が異なるのでない。
≪存在≫は、それが述語付けされる当のものすべてについて、唯一同一の<意味>で述語付されるのだが、しかし<存在>が述語付される当のものは異なっているのである。要するに、≪存在≫は、差異それ自身について述語付されるということである。(69ページ)
(おしまい)
だからこそ、両者がどのように重なり合っているのか、を示すことはとても重要なことになろう。
ハイデガーは、実存主義にも構造主義にも影響を与えたと言われる。彼の仕事の広さ、解釈をめぐる深さのあらわれである。
しかし、ハイデガーはどちらかというと、ナチ加担で否定的にとらえる風潮がまだあるといってもいいと思う。彼の哲学の見直しが進んでいる中、ハイデガーを改めてとりあげることはとても意義がある。
一方で、ドゥルーズは日本で大評判で、それを覆すような議論は未だ現れていないといってよい。
ドゥルーズが構造主義といかなる関係にあるかを考えるのは彼自身が意味がないと言っているが、いずれにせよ、ポスト構造主義者と言われ「ている」人々を「個別に見てみれば」、いずれも多方向に思考を深めている人たちであって、その議論の位置づけを行うことは今にあってもなお流動的であるといえるだろう。
筆者は、生まれ的にも環境的にもドゥルーズに多大な影響を受けているので、そのことを自分でも踏まえつつ考察をすすめたい。
今回取り上げるのは、ドゥルーズの主著『差異と反復』である。というのも、この書物の序論でいきなりハイデガーに触れるからである。
本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの点を挙げてよいだろう。まず、ハイデガーが、存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること。(『差異と反復』財津理訳、13ページ)
ハイデガーの存在論(存在とは何か?)とは有名だが、存在論的≪差異≫の哲学とは何だろうか?この点は、必ずしも明らかではない。
続けて、ドゥルーズはこの本の探求方法を率直に述べている。引用が長くなるが、確認する。
わたしたちは、わたしたちの外で、かつわたしたちの内で、このうえなく機械的で極度に常同症的なもろもろの反復に直面しつつ、そうした諸反復から、絶えずいくつかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している――それが、現代における私たちの生であろう。しかしそれを逆に見れば、偽装しながら隠れているいくつかの秘めやかな反復が、ひとつの差異の永続的な置き換えによって活気づけられながら、わたしたちの内でかつわたしたちの外で、機械的で常同症的な裸の反復を再現しているのである。見せかけ(シミュラクル、括弧内引用者)においては、反復がすでに複数の反復を対象としており、差異がすでに複数の差異を対象としている。反復されるのは、まさに諸反復であり、異化=分化させられるのは、まさに異化=分化させるものである。生の務めは、差異がみずからを配分していくある空間の中で、すべての反復を共存させるところにある。本書は、はじめから、つぎのような二つの方向で探求を進めている。その一方は、否定なき差異という概念にかかわる方向である。まさしく、差異は、同一的なものに従属させられない限り、対立と矛盾に行きつくことはないだろうし、またそこに「行き着く必要もないだろう」からである。――他方は、反復という概念にかかわる方向である。たとえば、機械的あるいは裸の物理的な諸反復(≪同じ≫ものの反復)は、「差異的=微分的」なものを偽装し置き換えてゆくある隠れた反復のいっそう深い諸構造に、おのれの存在理由を見出すだろうからである。そうした純粋な差異と複雑な反復という概念は、いかなる機会においても、ひとつにまとまってまじりあっているように思えたので、以上のような二つの探求はおのずから合流することになった。差異の永続的な発散と脱中心化には、反復における置き換えと偽装が、密接に対応しているのである。(14ページ)
本書のタイトル『差異と反復』には、(1)否定なき差異の探求、(2)反復の探求、これらが一つにまじりあっているので合流するようになった、と述べられている。
否定なき差異とはどういうことだろうか? 引用した直前の文章では、こう述べられている。”わたしたちは、それ自身における差異を、そして<異なるもの>と<異なるもの>との関係を、表象=再現前化の諸形式から独立に思考したい。なぜなら、この諸形式は、その差異とその関係を、≪同じ≫ものに連れ戻し、それらをして否定的なものを経由させてしまうからである。” ドゥルーズの攻撃は、表象=再現前化の諸形式に向けられている。否定的に関連させられているワードは、対立と矛盾である。
『差異と反復』では、表象=再現前化というキーワードが何回も取り上げられ、それが何であるか明らかになっていく。ここでは、違うものと違うもの、例えば肌の白い人と黒い人がいるとする。それらは≪同じ≫人間として扱われ、白人VS黒人という対立図式や、白人社会における黒人差別といった葛藤を引き起こす。そういった全体のことが、表象=再現前化というワードで示されていると理解してよい。そのとき対立や矛盾(葛藤)とは、どのような意味合いにおいて否定と表現されるのだろうか?
さきほどの長い引用に立ち戻るが、ここには簡潔に、そして鮮明にドゥルーズによる現代の人々の描写がなされている。曰く、われわれは、諸反復から、絶えずちっぽけな差異、ヴァリアント、変容を引き出している、それが現代の生だと。私たちは似たような環境の中で、小さな違いをかけがえのないものとして、個人主義的に生きている。それは、ドゥルーズから見れば、ひとつの差異を永続的に置き換えることによって、きちがいじみた反復をずっと繰り返していることになるのだ。 そこでは差異は、ひとつのものとして取り上げられている。ここが肝要である。ちっぽけな差異やヴァリアントは、実は複数のものではない――。それらはひとつのものなのだ。この点をどう理解するか、ドゥルーズがどう論証するかが、ドゥルーズのハイデガーの理解にもかかわってくる。
それにしても、「反復が複数の反復を対象とし、差異が複数の差異を対象とし」ているとは、いったいどのようなことであろうか。私たちにはまだそのイメージはつかめない。簡単な言葉で表されているが、それは数学的イメージにも転用できそうで、まだここでは言わんとしている意味は掴めない。
引用文から一気に飛んで、67ページに飛ぼう。
一義性と差異
結局、<≪存在≫は一義的である>という存在論的命題しかなかったのである。結局、唯一の存在論、すなわち、存在に唯一の声を与えるドゥンス・スコトゥスの存在論しかなかったのである。なぜドゥンス・スコトゥスかというと、彼こそが、なるほど抽象化してしまったのかもしれないが、とにかく一義的な存在を最高度の精妙さにまで仕上げることができたからである。しかし、パルメニデスからハイデガーに至るまで、まさに同じ声が、それだけで一義的なものの全展開を形成するようなひとつのエコーのなかで繰り返されるのである。(67ページ)
どういうことだろうか。唯一の存在論とは。ハイデガーの存在論は、つきつめればあるひとつの同じ存在についての論でしかなかったというのだ。
67ページの展開の中で何があったかは、次回で見ていくことになるが、ドゥルーズはさきほど述べた二つの探求の内の「差異」のテーマのほうで(第一章のタイトルは「それ自身における差異」)で、比較的早いうちにハイデガーの存在論をも検討したことになる。曰く、「ドゥンス・スコトゥスの存在論」、”存在”にただひとつの声のみを認める(与える、のほうが正しいのか)、存在の一義性。
よく知られている話では、ハイデガーは、まずこの世界では、人間とかウサギとか、それぞれが「存在している」ことは分かったのだけれども、そこを飛び越えて、「存在」とは何かを問うたのだった。ドゥルーズは、それに「存在とは、ただひとつの存在でしかない」と答える。「人間が存在する」の「存在」も、「ウサギが存在する」の「存在」も、同じであると言う。
ドゥルーズは、こう続ける――。
≪存在≫は、絶対的に共通なものであるからと言って、ひとつの類であるわけではないということ、これを理解するのに何も苦労することはない。(67-8ページ)
ドゥルーズは、以下のようにして3つの区分を提示する。すなわち、複雑な<もの>として理解される命題においては、(1)命題の<意味>、(2)<指示されるもの>、(3)<指示するもの>。
例えば、ある分かれ道の岐路に、看板があったとしよう。 命題の意味とは、「この分かれ道を右に行きなさい」、指示されるものとは「右に行くこと」、指示するものとは「看板の記号」である。そしてドゥルーズは、”重要なのは、形相的に区別される複数の<意味>が、それにもかかわらず、存在論的に一なるただひとつの<指示されるもの>としての存在(ある)に関係する・・・”と述べる。
人間が存在する
ウサギが存在する
この2文は、違う事態を指示しているが、それは主語においてのかぎりのことである。存在が異なるのでない。
≪存在≫は、それが述語付けされる当のものすべてについて、唯一同一の<意味>で述語付されるのだが、しかし<存在>が述語付される当のものは異なっているのである。要するに、≪存在≫は、差異それ自身について述語付されるということである。(69ページ)
(おしまい)