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- 03/10 [PR]
- 03/10 「新幸福論―実存主義の新たな形式について」序
- 03/09 [連載]もののけ姫について 続[資本主義と森]
- 03/09 [連載]『もののけ姫』について 続[資本主義と森]
- 03/08 もののけ姫について 草稿
- 03/06 思考の断片 #1
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おはようございます。 最近更新多くてすみませんw 書けるうちに書いときたいなと・・・。 作家さんの中ではスランプに入ると全然かけなくなるとかも聞くし。
でも今回は書くんじゃなくて、僕の論文の紹介です笑 冒頭部分を以下に紹介します。
それから、この次の記事には「あとがき」を載せます。
最初から言うと、この論文の目的は、個人がなぜ生きるのか、なんのために生きるのか、という問に対して、答えを探っていくというものです。ちなみに答えはあります。入試問題的にそれを100字でまとめよとか言われるとげんなりするけど、精読すればわかるようになっています。ちなみに文章は意図的に難解にしてあります。文章形式の実験です。
それで、もしこの紹介を見て、続きから最後まで読みたいーて方おられましたら、コメント欄にその旨どうぞ。Wordかpdfファイルでフリーアドレスで送ります(´>ω∂`)てへぺろ☆ A4の26枚です。
じゃあ紹介いきます。
***
幸福論――実存主義の新たな形式について
非―目的と非―方法
生きる目的とは何か。
あの、晴れやかではつらつとした瞬間、瞬間にして永遠、はつらつとしていて無限の心地よさ、それらを何度も味わうために、そのために人は生きているに違いない。その目的は、分かっていてもまたそうしてしまうのだ。また、極限の悦び――そう名付けよう――を味わう方法はいくつかあり、人間においては徹底して不可視的である。不可視的方法、まさに非―方法と呼びうるしかない。方法という方法なくして、しかし時にはあっという間に、時には思いがけずして、私たちは極限の悦びを手にしている。手にしているというより、思わず手に入っている。何と恩寵という概念と近似していることか。
目的を手にするための方法など存在しない。いわば、非―方法だけがある。方法と目的は人が同時に設定するものである。非―方法には非―目的が対応している。極限の悦びは非―目的である。それは獲得されるべくしてされるものではない。生を線形化して考えてみよう。私たちは線を沿って生きている。直進の線、傾斜する線、だ円を描く線。しかしその中には、方法という方法を受けつけないある特異点が存在する。それが極限の悦びだ。同じやり方をたどっても獲得されるとは限らない。決して方法化されえない、説明することを受けつけないある飛翔。そうして特異点にたどりつくことができる。しかし長くそこにとどまることは許されない。一瞬である。その一瞬のうちに無限が含まれる。無限とは一瞬なのだ。前と後ろには、日常での時間の流れ方がある。それらは無限ではない、厳密な意味において。極限の悦びを感じる一瞬が、そうした時間を無限ではないものとして、すなわち有限として分かつ。こうして見ると、時間とは一瞬時間と有限時間の二種類があることが分かる。一瞬時間(瞬間)とは、時間の感覚が引き伸ばされた状態である。有限時間は、見かけ上は一瞬時間に従属しているといえそうである。すなわち、極限の悦びを味わう一瞬のために、他の有限時間は使われるといった具合である。しかしそれは厳密には間違っている。というのは、新たな論点となるのは、一瞬時間と有限時間は性質を異にする(全く別の)ものなのか、それとも一瞬時間とは有限時間の中から生まれたものなのであろうかということである。むしろ時間とは〈一つ〉なのではないか。もともとは〈一つ〉だったものが、何羅かの契機、すなわち人間が「生きる」という重々しい宣言の下に、極限の悦びを味わう一瞬の時間と、それ以外の時間という風に間違って区分けされてしまっているのだろうか。こうしてみると、一瞬時間と有限時間の区別は偽装のものであることが分かる。
***
ここまでです。 続きが読みたいという方はコメントでおねがいしますね☆彡
でも今回は書くんじゃなくて、僕の論文の紹介です笑 冒頭部分を以下に紹介します。
それから、この次の記事には「あとがき」を載せます。
最初から言うと、この論文の目的は、個人がなぜ生きるのか、なんのために生きるのか、という問に対して、答えを探っていくというものです。ちなみに答えはあります。入試問題的にそれを100字でまとめよとか言われるとげんなりするけど、精読すればわかるようになっています。ちなみに文章は意図的に難解にしてあります。文章形式の実験です。
それで、もしこの紹介を見て、続きから最後まで読みたいーて方おられましたら、コメント欄にその旨どうぞ。Wordかpdfファイルでフリーアドレスで送ります(´>ω∂`)てへぺろ☆ A4の26枚です。
じゃあ紹介いきます。
***
幸福論――実存主義の新たな形式について
非―目的と非―方法
生きる目的とは何か。
あの、晴れやかではつらつとした瞬間、瞬間にして永遠、はつらつとしていて無限の心地よさ、それらを何度も味わうために、そのために人は生きているに違いない。その目的は、分かっていてもまたそうしてしまうのだ。また、極限の悦び――そう名付けよう――を味わう方法はいくつかあり、人間においては徹底して不可視的である。不可視的方法、まさに非―方法と呼びうるしかない。方法という方法なくして、しかし時にはあっという間に、時には思いがけずして、私たちは極限の悦びを手にしている。手にしているというより、思わず手に入っている。何と恩寵という概念と近似していることか。
目的を手にするための方法など存在しない。いわば、非―方法だけがある。方法と目的は人が同時に設定するものである。非―方法には非―目的が対応している。極限の悦びは非―目的である。それは獲得されるべくしてされるものではない。生を線形化して考えてみよう。私たちは線を沿って生きている。直進の線、傾斜する線、だ円を描く線。しかしその中には、方法という方法を受けつけないある特異点が存在する。それが極限の悦びだ。同じやり方をたどっても獲得されるとは限らない。決して方法化されえない、説明することを受けつけないある飛翔。そうして特異点にたどりつくことができる。しかし長くそこにとどまることは許されない。一瞬である。その一瞬のうちに無限が含まれる。無限とは一瞬なのだ。前と後ろには、日常での時間の流れ方がある。それらは無限ではない、厳密な意味において。極限の悦びを感じる一瞬が、そうした時間を無限ではないものとして、すなわち有限として分かつ。こうして見ると、時間とは一瞬時間と有限時間の二種類があることが分かる。一瞬時間(瞬間)とは、時間の感覚が引き伸ばされた状態である。有限時間は、見かけ上は一瞬時間に従属しているといえそうである。すなわち、極限の悦びを味わう一瞬のために、他の有限時間は使われるといった具合である。しかしそれは厳密には間違っている。というのは、新たな論点となるのは、一瞬時間と有限時間は性質を異にする(全く別の)ものなのか、それとも一瞬時間とは有限時間の中から生まれたものなのであろうかということである。むしろ時間とは〈一つ〉なのではないか。もともとは〈一つ〉だったものが、何羅かの契機、すなわち人間が「生きる」という重々しい宣言の下に、極限の悦びを味わう一瞬の時間と、それ以外の時間という風に間違って区分けされてしまっているのだろうか。こうしてみると、一瞬時間と有限時間の区別は偽装のものであることが分かる。
***
ここまでです。 続きが読みたいという方はコメントでおねがいしますね☆彡
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15分くらいしか間は時間がないのでちょっとだけ論を進めておきます。
要するに、前回のまとめをすると、『もののけ姫』のメッセージがどういったものなのかを考えた際、ひとつの解釈として、でいだらぼっち(しし神の夜ヴァージョン)のような悪魔に対しては、動物(森の陣営)も、人間(社会)の陣営も、ひとつのゆるやかな共生・あるいは共同戦線を張って、戦う、ないしそのような態度になる(べし、あるいはそうすることができる)、というものだ。
ゆるやかな共生。それは、あくまで破壊神のようなスンゲーわりーやつが出てこない限りは、互いにあまり干渉しないということである。
つまり、日常は無関係モードということだ(無関係の倫理)。
しかしいくら心的には無関係といっても、人間の社会と動物たちの森には、無視できないさまざまな影響関係がある。
まず、森(自然)から社会への影響。 太陽の光。大地の恵み。酸素。なんとまぁ、今の人間なら必須のものばかりではないか。それだけではない、自然を鑑賞するときの何ともいえない生へのエネルギー。
やはり自然には無視できない何かがある。
しかし社会から森への影響もある。自然は勝手に破滅することもあるので(食物連鎖はどうとらえるのだろうか?)、たとえば植林だったり、絶滅危惧種を保護したりと、人間の側も、主に科学の発展によって得た技術を有効に活用して自然へいい影響を与えてもいる。
ウィンウィンの関係の素描はこんなところだ。人間の高度科学を一概に非難することはできないし、しかし今の状態の人間にとっては自然は不可欠である。
さて、『もののけ姫』で描かれていた、えぼし率いるたたらの村は、自然を攻略しつつ、自分たちの社会を発展させようとしている。
自然を従属させているわけだ。そこに、動物らの反発がくる。
とりあえず思いつくままに述べていったので今回はこの辺で。論点をしぼりだすなら・・・
・人間と自然に優位関係はあるか?人間至上主義(人間が全種別の中で一番偉い、だから人間は世界の王だ)はどのようにして生まれたのだろうか?傲慢の起源。
・ゆるやかな共生のもっと細かい描写。
・ゆるやかな共生は、どこまで妥当性を持っているか?私たち人間は、どのようにすれば、最適解を得られるのだろうか?
・資本主義で苦しんでいるのは、いったいなぜ???(これが一番最後の問い)
では。 ういろう
要するに、前回のまとめをすると、『もののけ姫』のメッセージがどういったものなのかを考えた際、ひとつの解釈として、でいだらぼっち(しし神の夜ヴァージョン)のような悪魔に対しては、動物(森の陣営)も、人間(社会)の陣営も、ひとつのゆるやかな共生・あるいは共同戦線を張って、戦う、ないしそのような態度になる(べし、あるいはそうすることができる)、というものだ。
ゆるやかな共生。それは、あくまで破壊神のようなスンゲーわりーやつが出てこない限りは、互いにあまり干渉しないということである。
つまり、日常は無関係モードということだ(無関係の倫理)。
しかしいくら心的には無関係といっても、人間の社会と動物たちの森には、無視できないさまざまな影響関係がある。
まず、森(自然)から社会への影響。 太陽の光。大地の恵み。酸素。なんとまぁ、今の人間なら必須のものばかりではないか。それだけではない、自然を鑑賞するときの何ともいえない生へのエネルギー。
やはり自然には無視できない何かがある。
しかし社会から森への影響もある。自然は勝手に破滅することもあるので(食物連鎖はどうとらえるのだろうか?)、たとえば植林だったり、絶滅危惧種を保護したりと、人間の側も、主に科学の発展によって得た技術を有効に活用して自然へいい影響を与えてもいる。
ウィンウィンの関係の素描はこんなところだ。人間の高度科学を一概に非難することはできないし、しかし今の状態の人間にとっては自然は不可欠である。
さて、『もののけ姫』で描かれていた、えぼし率いるたたらの村は、自然を攻略しつつ、自分たちの社会を発展させようとしている。
自然を従属させているわけだ。そこに、動物らの反発がくる。
とりあえず思いつくままに述べていったので今回はこの辺で。論点をしぼりだすなら・・・
・人間と自然に優位関係はあるか?人間至上主義(人間が全種別の中で一番偉い、だから人間は世界の王だ)はどのようにして生まれたのだろうか?傲慢の起源。
・ゆるやかな共生のもっと細かい描写。
・ゆるやかな共生は、どこまで妥当性を持っているか?私たち人間は、どのようにすれば、最適解を得られるのだろうか?
・資本主義で苦しんでいるのは、いったいなぜ???(これが一番最後の問い)
では。 ういろう
光枝ういろうです。
この記事の真ん中に付しているのは、私が2月末にある出版社に提出した論文の一部だ。その論文の中で私は「資本主義と森」の関係について考察していったのだったが、それはその問いの大きさを確認するにとどまっていただけなのかもしれない。
その「付録 疎外論への手引き―資本主義と森」では、労働によって人が阻害されるという、主に資本主義が人の労働にもたらす悪を考える際に、そのテーマを導入したのだが、結局テーマをつかむだけに終わり、疎外論には最終的にはいたらなかった。
ひとまず、疎外論は置くとしても、先日の「もののけ姫について 草稿」(この記事の前の記事。バックナンバーを参照されたい。)にしても、森と社会の関係性が、とても私を思考へ誘う。そのため、自分が自分が書いたことを整理するためにも、ひとまず文章を引いておく笑。
***
森という〈自然〉
資本主義を語る際に、始原的な森、〈自然〉について言及せぬわけにはいかない。それらは対立物どころか、これから見ていくように、ほとんど区別のつかないものであるのだから。資本主義の生みの親とは、まさしく〈自然〉である。そして資本主義とは女神から生まれた悪魔なのだ。誰もなにも悪魔に仕立て上げたわけではないし、誰もなにも悪魔という性格を消滅しないだろう。
〈自然〉とは、人間にとって(1)主体にもなれば、(2)対象にもなり、さらには(3)畏怖=尊重すべきもの(you)にもなるという、驚くべきものである。始原的な森、これをあのヨーロッパ的な馬鹿馬鹿しい概念からは慎重に区別しなければならない。釈尊は菩提樹の下で好んで瞑想にふけったのであった。ツリーというよりリゾームとしての菩提樹。仏教とは何にもまして森から生まれた産物である。生命の多様性としての森。これ以上に語るべきことがらはない。森には無数の力が複雑に絡み合って働いている。注意しなければならないのは、森はそれ自身が一つのリゾームであると共に、個々の有機体・非有機体ですら一つのリゾーム圏を備えているのである。生命を超えた〈超生命〉。この〈超生命〉は、ただおのれの全力のエネルギーをもって、自己に周辺に力を及ぼす。この力学が解明されなければならないのだ。そこでは石ころでさえも一つの構成要素なのである。一にして多、多にして一を理解する際に森を例に取ることは不可欠であろう。ブナの木の葉のさざめきは、小川の流れに呼応する。と思いきや、その小川の流れは地中のフンコロガシに優しく語りかけるのである。地中のフンコロガシの体内には無数のバクテリアが存在していて、“腸内環境”という一つの宇宙を形成している。森のこうした宇宙性を理解するのは、おそらく科学が得意とすることではない。もっと私たちの生に訴えかけてくる、直感のような共鳴のような、動物としての私たちが問われているのだ。思い出せ、人間は、動物なのだ!それは少しも皮肉な事柄ではない。動物としての私たちは、ただただ生命体である。そこでは石ころもブナの木の葉も小川の水滴もフンコロガシもすべてが同じで、私たちは如何様にもなれたのである。AからBへ、BからCへ。A=Bであり、B=Cである。そうして、一つの適当な解Xが存在する。すなわち、A=B=C=‥・=X。このXが森であり、全体的な生命体の集合として、かつそれ自身が一つの独立した超生命体であるような体裁をまとっているのだ。
***
うーむこれは。 解Xがすなわち『もののけ姫』で言うところの、しし神なのか・・・?
『もののけ姫』では、人間によって攻撃される対象としての<森>、それから動物を受け入れる場所としての<森>、そして最後に人間をも受け入れようとする<森>の3つのレベルが少なくともあったはずである。
しし神はある役目を持たされている。それが、生命を操ることだ。生命与奪。しし神のいる意味とは何か。生命を与えたり、反対に奪ったりするのは。
最初、アシタカがサンに連れられて癒しの場所に向かった際、アシタカの致命傷は治ったものの、呪い神によって刻印された傷までもは癒えなかった。それを、アシタカは、「この苦しみと呪いとともに生きていけというのか」、と、しし神のメッセージとして捉えた。
しし神がでいだらぼっちとなるとき、その超―生命体は、社会だろうが森だろうがなんでも影響を及ぼす。<破壊神>、あるいは悪魔である。
この悪魔と対峙するとき、人間と森、すなわち社会と自然とは必然的に手を取り合わなければならない。
だとしたら、しし神は自らでいだらぼっちとなって敵化することによって、社会と自然とを近づけさせたとでも言うのだろうか。
『もののけ姫』のラストでは、アシタカは人間側、サンは動物(森)側の存在者として描かれている。
この物語が伝える範囲内では、人間と森の共生の方向は、アシタカがたまにサンのもとに行く、それ以外は社会は社会で、森は森でやっていく、といった感じである。答えが先送りな気はするが、そうではない。彼らにはでいだらぼっちを無に返したという<歴史>がある。<歴史>のつながりによる、人間と自然とのゆるやかな共生。『もののけ姫』の最大のメッセージとは、これではなかろうか。
(連載にします。続く)
この記事の真ん中に付しているのは、私が2月末にある出版社に提出した論文の一部だ。その論文の中で私は「資本主義と森」の関係について考察していったのだったが、それはその問いの大きさを確認するにとどまっていただけなのかもしれない。
その「付録 疎外論への手引き―資本主義と森」では、労働によって人が阻害されるという、主に資本主義が人の労働にもたらす悪を考える際に、そのテーマを導入したのだが、結局テーマをつかむだけに終わり、疎外論には最終的にはいたらなかった。
ひとまず、疎外論は置くとしても、先日の「もののけ姫について 草稿」(この記事の前の記事。バックナンバーを参照されたい。)にしても、森と社会の関係性が、とても私を思考へ誘う。そのため、自分が自分が書いたことを整理するためにも、ひとまず文章を引いておく笑。
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森という〈自然〉
資本主義を語る際に、始原的な森、〈自然〉について言及せぬわけにはいかない。それらは対立物どころか、これから見ていくように、ほとんど区別のつかないものであるのだから。資本主義の生みの親とは、まさしく〈自然〉である。そして資本主義とは女神から生まれた悪魔なのだ。誰もなにも悪魔に仕立て上げたわけではないし、誰もなにも悪魔という性格を消滅しないだろう。
〈自然〉とは、人間にとって(1)主体にもなれば、(2)対象にもなり、さらには(3)畏怖=尊重すべきもの(you)にもなるという、驚くべきものである。始原的な森、これをあのヨーロッパ的な馬鹿馬鹿しい概念からは慎重に区別しなければならない。釈尊は菩提樹の下で好んで瞑想にふけったのであった。ツリーというよりリゾームとしての菩提樹。仏教とは何にもまして森から生まれた産物である。生命の多様性としての森。これ以上に語るべきことがらはない。森には無数の力が複雑に絡み合って働いている。注意しなければならないのは、森はそれ自身が一つのリゾームであると共に、個々の有機体・非有機体ですら一つのリゾーム圏を備えているのである。生命を超えた〈超生命〉。この〈超生命〉は、ただおのれの全力のエネルギーをもって、自己に周辺に力を及ぼす。この力学が解明されなければならないのだ。そこでは石ころでさえも一つの構成要素なのである。一にして多、多にして一を理解する際に森を例に取ることは不可欠であろう。ブナの木の葉のさざめきは、小川の流れに呼応する。と思いきや、その小川の流れは地中のフンコロガシに優しく語りかけるのである。地中のフンコロガシの体内には無数のバクテリアが存在していて、“腸内環境”という一つの宇宙を形成している。森のこうした宇宙性を理解するのは、おそらく科学が得意とすることではない。もっと私たちの生に訴えかけてくる、直感のような共鳴のような、動物としての私たちが問われているのだ。思い出せ、人間は、動物なのだ!それは少しも皮肉な事柄ではない。動物としての私たちは、ただただ生命体である。そこでは石ころもブナの木の葉も小川の水滴もフンコロガシもすべてが同じで、私たちは如何様にもなれたのである。AからBへ、BからCへ。A=Bであり、B=Cである。そうして、一つの適当な解Xが存在する。すなわち、A=B=C=‥・=X。このXが森であり、全体的な生命体の集合として、かつそれ自身が一つの独立した超生命体であるような体裁をまとっているのだ。
***
うーむこれは。 解Xがすなわち『もののけ姫』で言うところの、しし神なのか・・・?
『もののけ姫』では、人間によって攻撃される対象としての<森>、それから動物を受け入れる場所としての<森>、そして最後に人間をも受け入れようとする<森>の3つのレベルが少なくともあったはずである。
しし神はある役目を持たされている。それが、生命を操ることだ。生命与奪。しし神のいる意味とは何か。生命を与えたり、反対に奪ったりするのは。
最初、アシタカがサンに連れられて癒しの場所に向かった際、アシタカの致命傷は治ったものの、呪い神によって刻印された傷までもは癒えなかった。それを、アシタカは、「この苦しみと呪いとともに生きていけというのか」、と、しし神のメッセージとして捉えた。
しし神がでいだらぼっちとなるとき、その超―生命体は、社会だろうが森だろうがなんでも影響を及ぼす。<破壊神>、あるいは悪魔である。
この悪魔と対峙するとき、人間と森、すなわち社会と自然とは必然的に手を取り合わなければならない。
だとしたら、しし神は自らでいだらぼっちとなって敵化することによって、社会と自然とを近づけさせたとでも言うのだろうか。
『もののけ姫』のラストでは、アシタカは人間側、サンは動物(森)側の存在者として描かれている。
この物語が伝える範囲内では、人間と森の共生の方向は、アシタカがたまにサンのもとに行く、それ以外は社会は社会で、森は森でやっていく、といった感じである。答えが先送りな気はするが、そうではない。彼らにはでいだらぼっちを無に返したという<歴史>がある。<歴史>のつながりによる、人間と自然とのゆるやかな共生。『もののけ姫』の最大のメッセージとは、これではなかろうか。
(連載にします。続く)
改めてレンタルして見た。本当に圧巻。
これは、なぜ当時、賛否両論だったのだろうか。 わかりにくいし、仰々しい。たしかに笑 でいだらぼっちは巨神兵と似ていて、その後のジブリもハウル、ゲド戦記と難解化していく方向すら見える。
しかし、これ以上、つまり『もののけ姫』以上に、人間と自然をまつわるテーマを単純に描くことはできないのだ。もう、これが、ありとあらゆる歴史、そして残された私たちの未来の姿といっても、ほとんど過言ではない。
サンが、「おしまいだ。森はもう死んでしまった。」と言って、アシタカが「終わりじゃない。私たちは生きているのだから」という時、彼の瞳のなんと澄んでいることか、その言葉の強さ。
ししがみは、命そのものを操る。その意味で、生命を超えた、そして意味の次元も超えた、超―生命体である。
その超―生命体が残したラストシーン。 これこそが、『もののけ姫』の最終解答である。私たちは、自然に対置しているのでいない。いつでも、私たちは<生>の方向に生かされているのだ。最大限の生。そして自然は、どこまでいっても大地の母なのである。母が父と結託するとき、あるいは世界は破滅的になるが、私たちがあらゆる生と未来を望む限り、自然は、森は私たちを見捨てはしない。
死神は、人間に対するアンチテーゼである。肥大化する”ヒューマニズム”。 死神もしょせん、否定に対する否定でしかないから、どこまでいっても否定の力を経由したヘーゲル的なものでしかない。
肯定せよ。生きろ。 アシタカは生きることに理由を求めない。
なぜなら、それが唯一の答えだから。 肯定するのだ、生を。自然を。人間を。
『もののけ姫』は優れた傑作である。
(了)
これは、なぜ当時、賛否両論だったのだろうか。 わかりにくいし、仰々しい。たしかに笑 でいだらぼっちは巨神兵と似ていて、その後のジブリもハウル、ゲド戦記と難解化していく方向すら見える。
しかし、これ以上、つまり『もののけ姫』以上に、人間と自然をまつわるテーマを単純に描くことはできないのだ。もう、これが、ありとあらゆる歴史、そして残された私たちの未来の姿といっても、ほとんど過言ではない。
サンが、「おしまいだ。森はもう死んでしまった。」と言って、アシタカが「終わりじゃない。私たちは生きているのだから」という時、彼の瞳のなんと澄んでいることか、その言葉の強さ。
ししがみは、命そのものを操る。その意味で、生命を超えた、そして意味の次元も超えた、超―生命体である。
その超―生命体が残したラストシーン。 これこそが、『もののけ姫』の最終解答である。私たちは、自然に対置しているのでいない。いつでも、私たちは<生>の方向に生かされているのだ。最大限の生。そして自然は、どこまでいっても大地の母なのである。母が父と結託するとき、あるいは世界は破滅的になるが、私たちがあらゆる生と未来を望む限り、自然は、森は私たちを見捨てはしない。
死神は、人間に対するアンチテーゼである。肥大化する”ヒューマニズム”。 死神もしょせん、否定に対する否定でしかないから、どこまでいっても否定の力を経由したヘーゲル的なものでしかない。
肯定せよ。生きろ。 アシタカは生きることに理由を求めない。
なぜなら、それが唯一の答えだから。 肯定するのだ、生を。自然を。人間を。
『もののけ姫』は優れた傑作である。
(了)
私がせんじつあるコンクル(このコンクルといういいかたは、のだめカンタービレののだめ風(c))に提出した際の補論は、
「資本主義と森」
というものなのですが、
まぁあれです、資本主義社会と、自然たる森の共通点、相違点を検討していったわけです。
しかし、最後までしっかりした結論には至らなかった。というのも、
資本主義=森、すなわち、 社会=自然
こんな式にであってしまったわけです。
詳しくはその論文(いつ公開されるかはわかりませんが)で論じていますが、とにかくよくよく資本主義と森=自然の両者を検討していくと、似ているのですね。
ひとつの人種たる”人間”を圧倒するところとか。 お互い、生命体・非有機体の複雑な相互影響関係から成り立っているとか。
この上の式の妥当性はどこまであるんだろうか。
僕は自然が大好きで、どちらかというと資本主義社会は部分的にしか肯定していません。
しかしそれは自然を単純に肯定しているかというと、そういうわけではなく・・・。
さて、こういった観点からまた論文を書いていこうかな。今度は具体的に。
(了)