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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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かつては、カラオケというものが存在しなかったことをみなさんは覚えていらっしゃるだろうか?

 カラオケは、1990年代に発明された。カラオケとは何か。

それは、一言で言えば、「密室を有料で借りて、歌を思いっきり歌う」というサービスである。
 それまで、カラオケが登場する前までは、歌はひたすら聞くものであった。

 少数の歌い手と、大多数の聞き手。それが、カラオケ以前の音楽のスタイルだ。大多数の人々にとって、歌とはひたすら聞くものとしての、受動的なモノだったのである。

 その本質を、カラオケは一変させた。 歌を、自ら積極的に歌うものに変えたのである。
 カラオケはあっという間に広まり、今では若者のみならず世間一般の娯楽たり得ている。

 時間つぶすけどどうする? カラオケにする? くらい、自然なことになった。

 本稿が示すのは、そのカラオケで起きた現象が、さらにネット時代に突入したことで、「ボカロ曲好き」という事態まで推し進めた、ということだ。

 「ボカロ好き」な人は、初音ミクなどのツールを通して生まれた。
それは、人が単に聞きたい歌の対象を変えたという訳ではない。

歌そのものが、変化したのだ。
つまり、有料で歌える歌から、さらに無料で歌える歌に変わったのだ。

よく「ボカロ好きですー」という人がいるが、その人は確かにボカロ曲が好きではある。
 しかし、もっと正確に言うなら、「ボカロ曲を唄えるということそのもの」が好きなのだ。
 つまり、好きなのは、曲ではなく、歌う行為だということ。

歌は、アクティビィティたるものとして新しく変容しつつある。
 ネットに無料という条件が重なったからこそ、生まれた現象である。 歌は変身したのだ。

(おしまい)
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高橋みなみはどこへ行くのだろう。

AKBって、元をたどれば「それぞれの夢をかなえるためのグループ」。

ウリにしているのが、またメンバーの多くが自慢にしているのは、AKBは過程であって目標ではないということ。

 それは、僕からしたら、AKBはあくまで通過点に過ぎないという素晴らしい気持ちのはずだ。

それならば、高橋みなみは、なぜ今もAKBにいつづけるのだろう。それが分からない。そして、AKBに居続けなければならない理由がよく分からないのは高橋みなみ自身が1番気付いているんじゃないかと思うのだ。

 前田敦子は、初期からセンターとしてグループをひっぱて行くことを任された。彼女自身の目標とは別に、グループでそういった明確な役割が与えられた。

AKBは、もう売れた。前田敦子が引っ張らなくてもいいくらい、大きすぎる存在になった。

 彼女の卒業、タイミングは完璧である。 自分はこれ以上グループにいる必要はない、だからもっと高みに出たい・・・。

 一方で、たかみなは、念願だったはずの「ソロ歌手」になることが確約された。これは彼女自身が「夢」と語ったことだ。そして夢は、本当に叶えられた。

 前田敦子がいないと、いやいても、たかみなは精神的支柱である。

しかし、彼女はいつまで同じグループに捉われなければならないのだろうか。

それは彼女自身が一番迷っていることじゃないのか。

 自分磨きをもっとしていきたい、いやしていかないとまずいこの時期に、一方で総監督というよく分からない重責のポジションを任されて、気持ちは真っ二つになっているはずだ。

 AKBの第二章とは、「さてここまできた。つまり、東京ドームという『夢』は叶えられた。さて、夢がかなったグループにいるメンバーはそれからどうする?」だ。

増田有華は、今舞台という素晴らしい場所で活動していて、本当に幸せらしい。

 夢をかなえつつあるのだ。

 グループに入り続けることの意味は何なのだろうか。 もう十分世間的な認知も高い麻里子様も、いつまでかかってきなさいと言われるのか。

 正直、AKBという場所でまったりしてほしくない。夢が叶ったら、次のステップにさらに進むため、ケジメをつけてほしい。

 馴れ合いの場所じゃない。夢をかなえるための過程の場所だ。

高橋みなみはどこへ行く。

 僕は、彼女はもっと自分を高めて、自分磨きを追及していってほしいと願っている。


おしまい

 
【仏教から仏教へ】バイオロジック総論1【第五回】

 世界=現実を語るための、ある公理系を示していこうと思う。

 基本的なテーゼは、

1世界は、ありとあらゆる二つのシステムから成り立っている。
2、二つのシステムは、互いに理解不可能である
3、1番目のテーゼは、世界の8割くらいの部分しか言い当ててない。残りの2割は、常に把握不能である。

 そしてもうひとつ採用したいのが、現象学的関係主義だ。つまり、物事は、何か実在したものたちがあうというわけではなく、関係がまずはじめにあって、そこから個が生まれるということ。関係が「あって」個が表象されるのだ。

 例えば、文系/理系 という区分。 これは、あいまいで大衆的な話題に聞こえるかもしれないが、確かにこのような区別は存在するのだ。

ザ・理系人間 と、
ザ・文系人間 がいて、これらは少数派である。そして多くの人たちは、
理系と文系がばらばらの割合でまじりあっている人

ということになる。
 理系の世界からしたら、文系の世界はよく分からない。理系の言葉で置き換えてしまう。
また逆も、文系からしたら、理系の世界は肌に合わない。避けてしまう。

 しかし、筆者が主張したいのは、理系か/文系か、という二者択一ではなく、どちらともあわさって世界は構成されているということだ。そして互いは互いをそれぞれ全く説明できないのである。

 文系の気持ちを代弁できるのは、文系だけだ。
反対に、理系の思考を代弁できるのは、理系だけである。
 文系が、理系世界を翻訳すると、非常にかくばったイマイマしい印象を与えられる。 理性の狂気、とか、科学万能主義、とかだ。けっしてそんなわけではなかろうに。
 

 そして、理系が文系世界を翻訳すると、なんんでもかんでもかくばったものに変わり、文系特有の情動とか流れとかを全く理解できない。小説の面白さが分からないし、ロマンティシズムも理解できない。

ここからミちびだされるのは、次の第五テーゼである。すなわち・・・


5 同じものは自ら同じものを同じだと宣言し、違うものは自ら違うものを違うといい、つまりループしている。「俺は俺だ!」「私は私!」のループである。 ルーマン理論と非常に親近している。

 しかし大切なのは、「俺は俺!」「私は私!」と叫んでいる二人の訳者が、その二人そろって初めて世界というものができているということなのだ。
 どちらかいっぽうではない。片方は他方を吸収できない。

二元論だ。

(おしまい)
 

 もっと驚くべきだ!見よ、この有り様を。
 人々はみな一様の目をしている。空虚で、上辺だけを装い、目先のことしか食いつかない視野の狭さ。まるで生きているという実感がない。
 そして荒れ果てた大地もある。ここはいったい何だろうか?ここは何処だろうかと問うよりも、何と問う方が的を得ているくらいだ。生きた土や水分は奥底においやられ、ともすればひからびて育たなくなってしまうまでに、その上に無機質なコンクリートやガラスが幾層にも重なっている。死んだものだらけでここは張り巡らされている。

 それでも、驚くべきなのだ。私たちが、こんなに狂った社会にいるのに、なおもしっかりと生きているということに!
これは、生存への賛美である。称えである。そして、あらゆる生存への阻みに対する、反抗である。

 始めというものは存在しない。あたかもなかったのごとく、はじめよう。そう、流れるように。
これは、ある一人の少年をめぐる、ひどく抽象的な物語である。時間も空間にもそこにはない。
 あるのはただ、少年の確固とした情動と、そして思考のみだ。情動と思考が、世界をかたちづくっていく。

とにかく、まずははじまりの場所から、離れなければならない。一つに留まることはできないのだから。
先ほどの、うつろな目をした人々が集団になって、少年と向かいになる。少年の額には汗が浮かび始める。緊張しているのだ。彼は、慣れていない。人々の塊に、彼らの暴力的なやり方に。

「お前は、ここを出ていくというのかね?」

 ある一人の、リーダーらしき――中年の男で、丸っこいメガネをかけている。グラスに光が反射して目つきが見えない。両手を背中に回して、ある種の余裕をもって少年に話しかけている――人物が口火を切る。少年は答えない。

「お前は、ここで何かしてくれたかね。私たちのためになるようなことを、何か一つでもしてくれたかね。え?」

さっきよりも速い口調でまくしたてる。少年はなおも答えずに、ただ<リーダー>とその後ろにいる群衆を遠くから見る。汗が額からこぼれる。

「私たちはみな働いているんだ。働いているから世界は動いている、そうだろう?君もここにいて貢献したまえ、それが誰かのためになる。」

<リーダー>は口元に笑みすら浮かべながら、しゃくしゃくとした態度で少年をいたぶる。とてもいたたまれない気持ちになる。違う、何かが決定的に違うんだ、その言葉は。少年が考えているのは、<リーダー>が考えていることとはもっと別の何かだ。しかしそれは言葉にするのがとても難しく、歯がゆい。
 少年がなおも沈黙を守ったままでいると、群衆のざわめきが耳に入る。彼らは、少年を冷ややかな、うたぐった目で見ている。何人か、隣にいる人となにやらゴソゴソうわさをしている。なんだ、なんだこの目つきは。人を心底おとしめるような、とても恐ろしい目つきだ。少年はとても耐えられなかった。目をつぶり、ぐっと地面を方を向く。

<リーダー>はフンと鼻をならし、シラを切るように語りだす。
「いいかい、働くということは人間の最低限の条件だ。働く、そしてお金を得る。それが人間のすべてじゃないか。労働というのはな、すればするほどいいんだ。何でもいい、お金になることなら何でもいい。労働をすると、価値が生まれる。価値が生まれると、誰かがそれを買う。対価を得る。資本は、剰余価値を伴って化けるんだ。それが新たな資本となる。労働をする。価値が生まれる。以下同様…というわけだ。すばらしいじゃないか。人はみな、労働することによって生きているというようなもんだ。働く、働く。そのことが、人間の使命なのだ。」

 少年は、すぐさまここから出たい、離れたい、<リーダー>の言葉をこれ以上聞くと頭が狂いそうだ、と思った。

そして、すぐさま走りはじめた。

(つづく)


【第三回】『千のプラトー』で思考の戦士になる【仏教から仏教へ】

 仏教の始祖であるゴーダマ・シッダールタは、悟りまでの自身の生活を、考え抜くことに費やした。
仏教がいかに生まれたのか、悟りはどのようにして開けたのかを知るためには、そのことを忘れてはならない。彼は、思考の果てに、完成に近づいたのである。デタラメに思念していたわけではない。

二つ目に、ゴータマ・シッダールタもまた、その時代と場所に強く規定を受けて生まれてきたものだということである。古代インド・小国同士がが乱立し、政治情勢が不安定な中でゴータマは王子として生まれた。理不尽な現実は、彼を悩ませた。
 また、インドは西洋とは違って、より多くの生命直に満ちた環境であった。
現代はまた、独自の空気を持っている。
 ただ漫然と、今仏教の経典をめぐっていても、それだけではみのらない。 現代において、仏教はどのようにして読み直されるべきなのか。
それはとりもなおさず、今という時代性、歴史性を深く考察することにある。

3つめとして、やはり思想は元気が出るものでなければならない。どんなに立派な考え方であっても、それが人に生き生きとした感動やダイナミズムを与えるものでなければ、挫折してしまう。

 以上の3点から、ドゥルーズ(とガタリ)の書物を取り上げるのがよいと判断した。
 まず、ドゥルーズは、(現代という時代にありながら)時には粘りっこく時にはダイナミックに、思考を重ねている哲学者であるという点。それから、現代(特に、資本主義社会、家族や国家に捉われる社会など)を彼が強く意識し、現代を抜け出すために考え抜いているという点である。
 3つめ、これは私たちの課題であるが、ドゥルーズは、本当に人を元気にさせる。確かに彼の思想は難しいところもある。しかし、その根底はいつも、子供のような輝いた心とどこまでも冷静な大人の洞察力に満たされている。

もういいだろう。そういうわけで、迂回な方法をとるわけではない。 現代を生きたドウルーズの思想を活用することで、仏教を現代に甦らせよう。


(以下、ノート形式)

ドゥルーズ 『千のプラトー』 10章 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…

●『ウィラード』論 pp.269-270

 ここは、第10章の手引きとなっているところである。
・まず最初に、訥々にも「動物への生成変化」というキーワードが語られる。
 人から動物になること、変わることを、なぜドゥルーズは重要視するのだろうか。
 ここでは、次のことが大切である。

「まず、相似を経由することだけでは満たされず、それどころか相似によって妨害され、阻止されるような動物への生成変化。」(pp.269)

 相似は、生成変化とは似ても似つかぬものらしい。ドゥルーズは、『ウィラード』という映画の中にねずみによく似たただの人間という登場人物が出てくることを語るが、「動物のような人間」(相似)は、「人間が動物になること」(生成変化)とは全く別のものだということである。それどころか、「動物のような人間」に捉われることは、生成変化を阻害までする。

・分子状態 ⇔ モル状態
 ねずみの群れが「分子状態」にあたり、脳がすべての器官を統制する(脳支配説)合理的人間は、「モル状」である。これら両者は別である。

「戦争機械」、犯罪機械
 同じものの中にいながら、自己破壊をしてしまう機械。 人間の体内の異物がこれに当たるのではないだろうか。

これらを挙げたうえで、最後は問いかけで終わる。同じ一匹の動物が、二つの運動にとらわれることがあろうか?
 Aは、Aであるとともに、非Aでもある、というけったいなことが言えるのだろうか? 二項対立で物事を整理する西洋論理学への、挑戦である。

(misty)
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