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- 03/10 [PR]
- 03/04 ディスコミュニケーション社会論
- 03/03 ドゥルーズだったら著作権法問題を多分こう考える
- 02/28 法か現実か-ドラマ「最高の離婚」によせて
- 02/02 日本での哲学
- 12/19 かわいいとはどういうことか
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コミュニケーション社会、という言葉があって、よく現代はコミュニケーション社会だ、と言われることがあるのだけど、たしかにコミュケーションがますます重要になっているという点はあっているのだけれど、内容を見ると、名前を変えたほうがいいのではないかと思う。
ディスコミュニケーション社会、と変えたほうがいいのではないか、と。
まぁこれは見るからに、僕が勉強する現代思想から影響を受けている。でも、そのほうが、現代社会の実態を、より正確に捉えていると思うのだ。
これからなぜ、名前を変えたほうがいいのか、説明をしていこう。
まず、コミュニケーション。人と人とのやりとり。会話だけではなく、そこにはおよそ人間関係から生じるあらゆる交渉関係が含まれる。それをコミュニケーションという。メールのやりとり、日常の挨拶、さらにはクレームや先生の授業、といったものも広いコミュニケーションのうちに含まれる(と私は考えている)。
さて、コミュニケーションの特質は何かといえば、それは一方からた方へ、または他方から一方へと言葉(words)が伝わるということだ。A→B、あるいは/かつB→A。 伝わるものは主に言葉である。あとに代表的なものとしては感情だとか、精神だとか、そういった精神的なもの。精神に属するものが、伝える/伝えられる内容物になる。
さて、現代の社会は、このコミュニケーションが「成立するのが当たり前」だということを前提にしている。
ここが僕が批判するところだ。
コミュニケーションは、実はそう思うほど成立していない。むしろ成立しない場合のほうが多い(ディスコミュニケーション、つまりコミュニケーション不全の場合の方が多い)。
このことは、以下の論証によって示される。
一般には、A→Bへ、ある言葉・感情aがそのまま伝わるもの、と考えられている。しかし、もちろん人間にテレパシー能力が備わっているというわけではない。ではどうやって言葉や感情は伝わっているか。
それは、例えばAという人がa(お腹がすいたんだけどなにか食べに行かない?)という気持ちを持って、それをBという人に伝えるのだが、Bという人はそれを「推論」して、「Aはお腹がすいているから俺をマックに誘っているのかな」と瞬時に「解釈」しているわけなのだ。
こういう例を見てみよう。
A「私、イラク人タイプなのよねー。」
B「は???」
A「え、なに?私、なにかそんなに変なこと言った??」
B「いやいまイラク人が好きって・・・。イラクを支持でもしているのか。」
A「はあ??違うわよ、私は単純に、イラク人みたいな顔つきの外国人がタイプって話をしてただけよ」
B「そんなこと言わなかったじゃないか!知るかよ!イラクってきいたら普通政治のネタかと思うだろ!」
A「私は顔のタイプの話をしたかったの!」
どうだろうか。 喧嘩が起こったのは、コミュニケーションに不全が生じたからである。そこでは、Aは顔のタイプという糸を持って「イラク人」という言葉を使ったのに、Bは政治のネタだと思って「政治のイラク」と「解釈」してしまったわけだ。
コミュニケーションは完全ではない。それは、一方に対する他方の解釈行為によって左右される。自分が何か糸を持って発言しても、それをどう受け取るかは他者によるのである。これを、「コミュニケーション行為の他者決定性」とでもよんでおこう。
他者決定性が、コミュニケーションの実態は実はディスコミュニケーション状態の方が多いことの直接の論拠である。
私が本論で何を主張したいかというと、現代の社会のタテマエは、「コミュニケーションが成立して当たり前」、つまり商談は電話で成立するし、契約は当事者の口頭でも成立するし、といったことにしている。
しかしそれはちょっと危険なのではなかろうか。
つまり、今の制度は、コミュニケーション成立を原則としていて、ディスコミュニケーション時は例外のときだとしているのである。そして、コミュニケーション不全、例えば商談で両当事者に思いの食い違いが後々わかったとき(君はあの時ああいった条件をつけると言ったじゃないか!「いえ、それはだから御社が○○をしていただけるからだとの条件付きのことですが・・・」)とかは、法律上では契約破棄とか、契約解除、あるいは損害賠償といった形で、事後的に救済システムによって回復を図るということにしている。
アカンくね??
ではなくて、私が言いたいのは、コミュニケーションはだいたい不全が起こるのが原則なのだから、原則と例外の位置を逆転させてから物事を考えていったほうがいいということだ。
不全が当たり前。そして、一致に近づいていったら、契約成立が完成する、といったような法律システムを作ることはできると思うのだが。どうなのだろうか。
原則:ディスコミュニケーション 例外:コミュニケーション成立
少なくとも意識の上では、このほうが実態に即していると考えられる。以上が私の主張である。
(おしまい)
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以下の文章は、ある法学の先生への手紙の中で、実際に伝えた文章です。先生は知的財産法の専門家なのですが、知的財産法の中には著作権法というものがあります。 絵や音楽をパクって売ったりしたらダメよっていうあの例の有名な方です。
その中で、僕が普段勉強しているドゥルーズだったら、著作権法の問題をこう考えるのではないか、と結論をつけたので、以下に示しておきます。多少わかりにくいと思いますが、言ってることがふわりと伝わればそれで幸いです。
***以下
その中で、僕が普段勉強しているドゥルーズだったら、著作権法の問題をこう考えるのではないか、と結論をつけたので、以下に示しておきます。多少わかりにくいと思いますが、言ってることがふわりと伝わればそれで幸いです。
***以下
著作権法問題のネタには、ひとつの作品はオリジナルかそれとも他のコピーか、つー定番のやつがありますよね。
これは十分哲学的問いでもあります。
僕はドゥルーズの『差異と反復』を3回くらい読んだのですが、
要するに、世の中のあらゆる出来事は、
「あらゆるものの、反復、それもそれぞれ異なった仕方での、反復」
という概念にたどり着くことができました。 簡単にいうと、例えばRPGのゲーム作品だったら、RPGの元祖「ロード・オブ・ザ・リング」が、ゲームやほかのメディアの中で、古今東西、それぞれ微妙に異なった仕方で反復されているもの、それが昨今のRPG業界にほかならないということになります。
この点から、さらに僕の解釈を加えると、著作権法たる法の世界における作品の捉え方は、「オリジナルか/コピーか」の二択をせまってきますが、ドゥルーズは「異なったふうに」、つまり内容上の違いというよりも、形式上の違いの観点で、オリジナル性をゆるやかに認めていく、それがドゥルーズの著作権法問題の考え方なのではないかということです。ドゥルーズは多様性の哲学者ですから、ドゥルーズができるだけ緩やかにオリジナル性を認めていくことの論拠がこれで粗雑ながら導き出されたと思います。
要するにドゥルーズ読んだら、コピー/オリジナルの問題が、緩やかにオリジナルを認めていく方向に流れそうということですwww
以上!
以上!
法か現実か-ドラマ「最高の離婚」によせて
ドラマ「最高の離婚」は、二組の夫婦が描く協奏曲である。それは明らかに、人も人間関係もやっかいなものだということを示している。なのに何故、彼らの生はこんなにもきれいなのだろう。濱崎光生(瑛太)は、日本人に典型の、まじめで几帳面で神経質なビジネスマンである。光生と結夏(尾野真千子)との結婚は、ほとんど成り行き上のものだった。東日本大震災後の直後に知り合い、特別といえるかもしれない雰囲気の中で意気投合し、そのまま同棲するようになり、やがて婚姻届を提出した。結婚生活のふたを開けてみれば、それは間違いだらけだったというわけだ。結夏は自由奔放ではつらつとした女性で、普通に考えれば光生のような男性とは合いそうにもない。彼らは離婚した後も(結夏が次の仕事を見つけるまでという条件で)同棲していくのだが、さて、それはなんとも二人が今まで作り上げた、あるいは作られてきた過去の再発見の繰り返しなのである。別に回想という形でなくとも、離婚後の同棲生活は、”二人は結婚していた”という現実の事実の重み、それは時には実感をともわないのだが、明らかにそれを引きずっているのだ--。
二人が交わす会話のテンポ、さりげない気遣い、距離感。そもそも、カップルになるとは、ペアになるとは、どこまでいっても身体の距離を近くするということ、これである。恋愛の本質は身体の近さなのだ。お互いの身体が近づくと、雰囲気は緊張し、あるいは緩み、心臓の鼓動が変化したりする。どうしてだろうか。そこには科学的な理由だけでは説明しきれない物事が介在する。
哲学者の鷲田清一の有名な例をここでも引いておこう-。たとえば私たちがなじみの図書館に行くとき、いつも決まった席に別の人が座ったとする。私はその人からちょっと離れたところに座るのだが、なんとなく落ちつかない。これは、私の皮膚感覚が、そのいつもの席にまで伸びてしまい、なんとなくその人と触れ合っているような気分に陥ってしまうからなのだ。図書館の例だけでなくとも、たとえばステッキの先端、これは私たちの手のひらの感覚をそこまで伸ばされていて、モノを知覚する。このように、私たちの身体”感覚”は、この皮膚の内に留まらず、外に自在に伸びたり縮んだりする(勘違いしてはならないのが、皮膚そのものは伸びないということ。そうではなく、皮膚の感覚が伸縮するのだ)。
さて、少々迂回したが、要するに結夏が光生の腰巻きギブスを巻いてやるためにそっと近づくとき、それに光生が何もためらいをおかないとき、彼らは明らかに通常の人間関係におけるそれよりも”近い”ところにいる。光生の皮膚感覚は結夏を少しも警戒せず、結夏のそれもまた同様なのだ。さらにこの近さは、会話の”呼吸”においてもそうなのである。あうんの呼吸とはよく言ったものだ。要するに、彼らは、結婚を良くも悪くもキッカケとして、とても親密な空間を二人で「共有」し、かれこれ2年もたっているのである。近さを共有すること。光生と結夏のペアはこの共有を今でさえ引きずっている。
はっきりいってしまおう。離婚届は法的な事実である。そして、法律の力は絶対だが、しかし現実の内容まで変えはしない。そこでは、事実の内容は法律の力に先立っているのだ。むしろ、現実的な事実(車に引かれるのは怖い、不倫されるのはイヤ、一緒に居続けるのは無理)に即して、法的事実(事故を起こしたら刑罰を適用、不倫に対しての慰謝料、離婚理由ありに対する離婚の認め)が採用されることになる。光生と結夏が今でも引きずってる距離の近さ、これは現実的な事実である(そのことを気づけるのは私たち視聴者である)。そして二人は、そのことにまったく気がついていないのだ。しかし離婚届はもうすでに出されてしまっている。
一方、上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)との関係は、ゆるく、そしてそれゆえにもろい。この二人は、光生・結夏ペアとは対照的に、一見仲がよさそうだけれども、あのペアのごとくまでの近さはなかなか見せない。このゆるさ・隙間は、二人ともに満たされなさを覚えさせ、灯里はそれを飲み込み、そして諒はどっちつかずの状態にいる。二人をつなぐ唯一のものは(実は提出されていない)婚姻届である。つまり、法的事実、現実的な事実に則しているはずの事実。ところが、諒が届けを出していないことがやがてバレてしまう。この危機はいったん二人の真摯なやり取りで回避されるのだが、今度は現実に即したはずの届けがもう一度出されようとしたところで、ドラマが展開される。
法と現実。法にすがったはずのカップルと、現実にすがったはずのカップル。ここでは法かも現実かもわからないような、グレーの事実がまさに浮き彫りにされるのだ。彼らは婚姻届たった一枚にとても翻弄されているのだから(婚姻届を出せば夫婦になれるのか、離婚すれば夫婦を離れるのか、夫婦とは何か・・・)。両者は、法、つまり社会と、現実、つまり日常との波乱とそれらにまつわる偶然が織り成す不断のドラマ(劇)に見舞われて、私たちは視聴しながら思わずこう口にせずにはいられない。”なんだこれ、もしかして私たちのこと!?”
(了)
※なお、この文章は加筆・訂正を加えた後、コンクール作品として提出します。
ドラマ「最高の離婚」は、二組の夫婦が描く協奏曲である。それは明らかに、人も人間関係もやっかいなものだということを示している。なのに何故、彼らの生はこんなにもきれいなのだろう。濱崎光生(瑛太)は、日本人に典型の、まじめで几帳面で神経質なビジネスマンである。光生と結夏(尾野真千子)との結婚は、ほとんど成り行き上のものだった。東日本大震災後の直後に知り合い、特別といえるかもしれない雰囲気の中で意気投合し、そのまま同棲するようになり、やがて婚姻届を提出した。結婚生活のふたを開けてみれば、それは間違いだらけだったというわけだ。結夏は自由奔放ではつらつとした女性で、普通に考えれば光生のような男性とは合いそうにもない。彼らは離婚した後も(結夏が次の仕事を見つけるまでという条件で)同棲していくのだが、さて、それはなんとも二人が今まで作り上げた、あるいは作られてきた過去の再発見の繰り返しなのである。別に回想という形でなくとも、離婚後の同棲生活は、”二人は結婚していた”という現実の事実の重み、それは時には実感をともわないのだが、明らかにそれを引きずっているのだ--。
二人が交わす会話のテンポ、さりげない気遣い、距離感。そもそも、カップルになるとは、ペアになるとは、どこまでいっても身体の距離を近くするということ、これである。恋愛の本質は身体の近さなのだ。お互いの身体が近づくと、雰囲気は緊張し、あるいは緩み、心臓の鼓動が変化したりする。どうしてだろうか。そこには科学的な理由だけでは説明しきれない物事が介在する。
哲学者の鷲田清一の有名な例をここでも引いておこう-。たとえば私たちがなじみの図書館に行くとき、いつも決まった席に別の人が座ったとする。私はその人からちょっと離れたところに座るのだが、なんとなく落ちつかない。これは、私の皮膚感覚が、そのいつもの席にまで伸びてしまい、なんとなくその人と触れ合っているような気分に陥ってしまうからなのだ。図書館の例だけでなくとも、たとえばステッキの先端、これは私たちの手のひらの感覚をそこまで伸ばされていて、モノを知覚する。このように、私たちの身体”感覚”は、この皮膚の内に留まらず、外に自在に伸びたり縮んだりする(勘違いしてはならないのが、皮膚そのものは伸びないということ。そうではなく、皮膚の感覚が伸縮するのだ)。
さて、少々迂回したが、要するに結夏が光生の腰巻きギブスを巻いてやるためにそっと近づくとき、それに光生が何もためらいをおかないとき、彼らは明らかに通常の人間関係におけるそれよりも”近い”ところにいる。光生の皮膚感覚は結夏を少しも警戒せず、結夏のそれもまた同様なのだ。さらにこの近さは、会話の”呼吸”においてもそうなのである。あうんの呼吸とはよく言ったものだ。要するに、彼らは、結婚を良くも悪くもキッカケとして、とても親密な空間を二人で「共有」し、かれこれ2年もたっているのである。近さを共有すること。光生と結夏のペアはこの共有を今でさえ引きずっている。
はっきりいってしまおう。離婚届は法的な事実である。そして、法律の力は絶対だが、しかし現実の内容まで変えはしない。そこでは、事実の内容は法律の力に先立っているのだ。むしろ、現実的な事実(車に引かれるのは怖い、不倫されるのはイヤ、一緒に居続けるのは無理)に即して、法的事実(事故を起こしたら刑罰を適用、不倫に対しての慰謝料、離婚理由ありに対する離婚の認め)が採用されることになる。光生と結夏が今でも引きずってる距離の近さ、これは現実的な事実である(そのことを気づけるのは私たち視聴者である)。そして二人は、そのことにまったく気がついていないのだ。しかし離婚届はもうすでに出されてしまっている。
一方、上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)との関係は、ゆるく、そしてそれゆえにもろい。この二人は、光生・結夏ペアとは対照的に、一見仲がよさそうだけれども、あのペアのごとくまでの近さはなかなか見せない。このゆるさ・隙間は、二人ともに満たされなさを覚えさせ、灯里はそれを飲み込み、そして諒はどっちつかずの状態にいる。二人をつなぐ唯一のものは(実は提出されていない)婚姻届である。つまり、法的事実、現実的な事実に則しているはずの事実。ところが、諒が届けを出していないことがやがてバレてしまう。この危機はいったん二人の真摯なやり取りで回避されるのだが、今度は現実に即したはずの届けがもう一度出されようとしたところで、ドラマが展開される。
法と現実。法にすがったはずのカップルと、現実にすがったはずのカップル。ここでは法かも現実かもわからないような、グレーの事実がまさに浮き彫りにされるのだ。彼らは婚姻届たった一枚にとても翻弄されているのだから(婚姻届を出せば夫婦になれるのか、離婚すれば夫婦を離れるのか、夫婦とは何か・・・)。両者は、法、つまり社会と、現実、つまり日常との波乱とそれらにまつわる偶然が織り成す不断のドラマ(劇)に見舞われて、私たちは視聴しながら思わずこう口にせずにはいられない。”なんだこれ、もしかして私たちのこと!?”
(了)
※なお、この文章は加筆・訂正を加えた後、コンクール作品として提出します。
@日本での哲学
私なんかが哲学の道を模索するときは、日本というキーワードを思い浮かべる。日本の哲学というと、人によって様々なものがあるのだろうが、私にとっては以下に述べるような文脈を指す。
元来、哲学といえば、西洋哲学である。 それは基本的には古代以前からはじまり、ソクラテスプラトンアリストテレスの古代ギリシャ哲学、中世を経て、デカルトスピノザライプニッツといった近代哲学第一世代、カントヘーゲルマルクスの第二世代、ニーチェフロイトウィトゲンシュタインハイデガーフッサールなどなどといった第三世代、という基本的な哲学史観が作りあげられてきた。
だいたい西洋哲学者の書物を見てみると、その精神は”体系”といった特徴でまとめることができると思う。一つの原理、本質を基礎として打ち立て、そこから個別のものまで詳細を追う、そうした”体系”が西洋哲学の精神には顕著だ。アリストテレス哲学などが代表で、それらはツリー状の構造をもっている。ツリー構造は西洋哲学から端を発している。
東洋的なものとは、言ってしまえばおばあちゃんの知恵袋的な、それぞれはバラバラのように見えてある有機的なつながりをもっている、リゾーム型の構造をもっている。リゾーム型の構造は、東洋的なものから端を発している。
日本では、仏教がとても影響を及ぼしている、そしてその仏教はといえば、仏教の核心は、リゾーム型なのだ。それはなかなか一つの原理から体型だてて説明することが難しく、時には矛盾に陥っているような状況をもいっしょくたにまとめてしまうので、何世代にもわたって違った説明がなされてきた。にもかかわらず、それらはある何らかのまとまりをもっているのである。
日本人の心には、日本なりの説明、概念が必要だと思う。 それは西洋哲学から端を発したツリー型の構造では説明しきれないはずだ。
哲学は、確かに文明比較としての、西洋の思想を掴むという意味において、とても役割を果たしていると思う。
しかし、自分たちの心、思想、精神を語るためには、また違った形での語り口が必要だと思う。
というのは、いま、ありふれている文体、語り方は、ほとんど西洋由来だからだ。 文の書き方、主語述語目的語の置き方、考え方は、西洋由来のものが席巻してしまった。
それらを一度に、もう一度日本由来のものに置きなおそうというのも大仰な話である。
だとすれば、使うのは、道具として使うのは、西洋の語り口(ツリー型)構造で良い。それで、東洋的なものを語るのだ。
私の考えでは、それをやったことのある人は、日本の伝統的な哲学者といえる、西田幾多郎や九鬼周造だと思う。彼らは、日本に生まれる意味を考えながら、西洋の哲学を学んでいった。両方に優れていたのだ。
西洋哲学を学んでいるだけでは、日本のことはわからない。同じように、日本由来のものに接しているだけでも、日本のことはわからない。
西田幾多郎や、九鬼周造がやったこと、やりたかったことの意義を再考しつつ、この辺境の地日本において見合った精神思想を語るということをしてみたい。
以上
私なんかが哲学の道を模索するときは、日本というキーワードを思い浮かべる。日本の哲学というと、人によって様々なものがあるのだろうが、私にとっては以下に述べるような文脈を指す。
元来、哲学といえば、西洋哲学である。 それは基本的には古代以前からはじまり、ソクラテスプラトンアリストテレスの古代ギリシャ哲学、中世を経て、デカルトスピノザライプニッツといった近代哲学第一世代、カントヘーゲルマルクスの第二世代、ニーチェフロイトウィトゲンシュタインハイデガーフッサールなどなどといった第三世代、という基本的な哲学史観が作りあげられてきた。
だいたい西洋哲学者の書物を見てみると、その精神は”体系”といった特徴でまとめることができると思う。一つの原理、本質を基礎として打ち立て、そこから個別のものまで詳細を追う、そうした”体系”が西洋哲学の精神には顕著だ。アリストテレス哲学などが代表で、それらはツリー状の構造をもっている。ツリー構造は西洋哲学から端を発している。
東洋的なものとは、言ってしまえばおばあちゃんの知恵袋的な、それぞれはバラバラのように見えてある有機的なつながりをもっている、リゾーム型の構造をもっている。リゾーム型の構造は、東洋的なものから端を発している。
日本では、仏教がとても影響を及ぼしている、そしてその仏教はといえば、仏教の核心は、リゾーム型なのだ。それはなかなか一つの原理から体型だてて説明することが難しく、時には矛盾に陥っているような状況をもいっしょくたにまとめてしまうので、何世代にもわたって違った説明がなされてきた。にもかかわらず、それらはある何らかのまとまりをもっているのである。
日本人の心には、日本なりの説明、概念が必要だと思う。 それは西洋哲学から端を発したツリー型の構造では説明しきれないはずだ。
哲学は、確かに文明比較としての、西洋の思想を掴むという意味において、とても役割を果たしていると思う。
しかし、自分たちの心、思想、精神を語るためには、また違った形での語り口が必要だと思う。
というのは、いま、ありふれている文体、語り方は、ほとんど西洋由来だからだ。 文の書き方、主語述語目的語の置き方、考え方は、西洋由来のものが席巻してしまった。
それらを一度に、もう一度日本由来のものに置きなおそうというのも大仰な話である。
だとすれば、使うのは、道具として使うのは、西洋の語り口(ツリー型)構造で良い。それで、東洋的なものを語るのだ。
私の考えでは、それをやったことのある人は、日本の伝統的な哲学者といえる、西田幾多郎や九鬼周造だと思う。彼らは、日本に生まれる意味を考えながら、西洋の哲学を学んでいった。両方に優れていたのだ。
西洋哲学を学んでいるだけでは、日本のことはわからない。同じように、日本由来のものに接しているだけでも、日本のことはわからない。
西田幾多郎や、九鬼周造がやったこと、やりたかったことの意義を再考しつつ、この辺境の地日本において見合った精神思想を語るということをしてみたい。
以上
「かわいいとはどういうことか」
かわいいとはどういうことか。まず、一般的にかわいいとはどういうことか、ということをまとめてみなければならない。
一般的に、とは、世間的に、みんなが普通思っている、ということである。
かわいい、は一応「美」の範疇に含まれる。美しいか/美しくないか(要するにかわいいかかわいくないか)で物事をざっくり分け、美しいものを美しくないものより上位に置く価値規範である。
さて、特に女性(殊に顔)について言われるのは、すっぴんがかわいい、いや化粧がかわいいといった事柄である。基本的には、この二つが合わさって、“顔”というものが評価されているように思われる。
すっぴんがかわいい、というのは、男性の意見に多いと思う。それは、普通に考えたら、すっぴんの顔が「本物の」、「元の」顔であって、だから本質が美しければ、そのまま顔も美しい、従って価値が高いというわけである。
反対に、化粧がかわいい(メイクがうまい、化粧美人)というのは、女性同士で特に言及されていることが多い現象のように思われる。この時、化粧は技術の一部である。技術には程度の高低がある。「今日はメイク頑張った」という時、それは技術を上げた、従って(変な言い方だが)「うまくは作ったからまだ顔はマシだろう」ぐらいの気持ちでなされていると考えられる。この時、技術の高低が、そのまま美しさの高低につながる。
さて、顔に対する評価は、この二つの軸を合わせてなされるのであった。組み合わせとしては、
- すっぴんがかわいく、かつ化粧もうまい
- すっぴんはかわいいが、化粧はしていない(もしくは下手)
- すっぴんはかわいくないが、化粧はうまい
- すっぴんはかわいくないし、化粧もしていない(もしくは下手)
順列をどう付けたらよいのか。(1)は、あらゆる選択肢に対して優位であることは自明のように思われる。しかし、もしかしたら、本質主義者は、(2)を上位におくかもしれない。この際、本質主義者の考えを見ておくことはとても貴重であるように思われるので、考えておこう。
本質主義とは、本質、つまり「物事は本来はこういうことなのだ!」ということを基調にして、物事には本質があって本質がその物事を規定しているという考え方を採用しているということである。要するに、女性は化粧の裏側にすっぴんを隠していて、すっぴん、地顔が1番かわいいのが、そのまま1番可愛いのだ、と判断されるような場合である。
この場合、先の4つの選択肢の中では、まず(2)が1番上位に置かれる。
- はどうであろうか。
この時、本質主義に加えて、別の根本価値優劣規範が取られていることに気がつかなければならない。それは、化粧を、すっぴんと究極の対立に置くような、究極とまではいかないまでも互いに背叛するような関係性だと論じる向きである。これは何だろうか。すっぴん至上主義、要するに過度の本質主義である。私たちは、一般的な本質主義とは別に、過度の本質主義、ラディカル・ナチュラリズムという観念を探り当てたわけだ。
反対に、一般の本質主義では、(2)が1番で、あとは(1)、(3)、(4)が続くように思われる。確認しておくと、過度の本質主義では、(2)、(4)、(1)、(3)と続くように思われる。
さて、次に化粧に目を向ける捉え方を見てみよう。化粧をそもそもどのように規範的に捉えて良いのかが問題となる。
それは、一般的には、すっぴんに加えるものだとみなされると思う。マスク、すっぴんを覆うものだ。(1)の場合、地顔が可愛ければ、別に化粧などしなくても多くの男性目線は獲得できるかもしれない。しかし、うまい化粧を載せれば無敵であることは間違いないように思われる。やはり(1)は万能だと言わざるを得ない(過度の本質主義者を別にして)。
思い切って、化粧を技術の範疇に絞って論じてみる。技術とはつまり、努力で獲得されることである。化粧は、頑張る者に対し、報われる。正当な評価が存在する世界である。頑張ったものにはご褒美が与えられる。
この立場から行くと、(1)に続いて、(3)が次に来るように思われる。あとは、(2)、(4)と続く。
4つのものの並べ順は4!=24通りであるが、現実的には、
1、本質主義 (2)、(1)、(3)、(4)
2、過度の本質主義 (2)、(4)、(1)、(3)
3、努力主義 (1)、(3)、(2)、(4)
この3つの組み合わせを論じた。これとは別に、超一般的理念といったようなものがあると考えられる。それは、
4、理念(イデア) (1)、(2)と(3)は同列、(4)
といったものである。というのは、これはとても単純に考えて、二つの評価軸があるのなら、まずその2つの評価を同時に満たすものを1位に置き、いずれか1つを満たすものを2位に置き、いずれも満たさないものを最下位に置くという数学的思考である。
これにおいて私たちは、理念、本質主義、過度の本質主義、努力主義の4つの価値優先規範を導き出した。それで、この文章の最初の問いに答えるなら、かわいいとはこの4つのいずれかになる、ということである。(了)
頭の体操に使って欲しいような文章である。内容は、かなり適当である。あなたはどう思われるだろうか。