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- 03/10 [PR]
- 05/22 フェミニズム思想、マイナー研究
- 05/18 ちょっと整理。
- 05/14 労働-消費の相互蓄積性について
- 05/13 主体から”ヴィークル”概念へ
- 05/12 【連載小説】Vague Mal 3 記憶の中1
Title list of this page
数的に、あるいは量的に、女性は社会構成員の約半数いるからといって、女性の提起する問題がメジャー(多数的)であるというのはとんだ勘違いである。
まずだいいちに、数的・量的な変数を実体化したものがパワーの指標になるわけではない。なるほど、数の優勢は確かにひとつのパワーの指標足りうる。 しかし、現実に生産手段を持つ1人の資本家と、99人の生産手段を持たない労働者とでは比較が異なる。 1人の専制君主と999人の被制圧者とではパワーの構成が違う。
これは<数の誤り>とでも呼ぶべき現象である。 実は、数的量は、質的量に劣る。
パワーの構成としては、まず質的・構造適量が優勢を占める。その上で、数的量が問題となってくる。
伝統的な図式の下で、男性が優位で、女性が劣位であるという構造的な質がある。 だから、半数の男性と半数の女性では、なお力関係はハッキリしているわけだ。
1人の男性と、99人の女性でも怪しいかもしれない。
私が2番目に提起する問題とは、99人の男性と1人の女性という図式が問題となってくるような場面である。
2番目の問題としての、マイナー/メジャーをめぐる問題。 この二項対立は、いっけん、対立の様式ではない。たとえば、小説市場において、圧倒的に人気を誇るミステリー・エンターテイメント小説の市場と、純文学の市場は、メジャー/マイナーの関係に立つ(純文学は大衆人気を誇るようなものではそもそもない)が、互いが互いを直接的に抑圧、あるいは支配するものではない。
ただ、私の考えでは、このメジャーもしくはマジョリティは、サイレント・マジョリティとして、いわば直接的には支配主体とはならないのだが、間接的にそのような立場を占めてしまう主体のことを言う。
サイレント・マジョリティの問題はやっかいである。それらは、当人の主観からすれば、「善意」(法学的意味でない)、「無垢な気持ち」で、たとえばミステリー・エンターテイメント小説などがもてはやされたりする。
彼らに直接的責任を求めることはできない。メジャー市場としてのミステリ・エンタメを楽しむ消費者にとっては、それらの存在は純粋に面白いからである。
しかし、そのことが、たとえば市場の論理において、よく売れるから、さらに規模を増やそう、そのためには純文学の市場空間を減らしてまでも、という第三者の介入が入ってくる。
しかしこのことで、純文学の市場は確実に(数をも)減らされることになる。 内容が面白い/面白くないということではなく、”市場の論理”というもっぱら外部的な要因によって、純文学は数的にも、それから質的にも(売れないから規模を小さくする)劣位におかれることになる。
厄介な派生効果として、どこからともなく、純文学はつまらないからもともと売れないのだ、という声が生産されるようになる。これがいかに間違っていようとも、質的に・そしてさらに数的に劣位構造にますます置かれる純文学は、それに反抗する声をもてなくなってしまう。
反対に、市場を味方につけたミステリーエンタメは、自らの存在をますます広げていくようになる。
上下構造、優劣構造はこのように飛躍的に悪循環に陥る。 市場がこれに加担しているということを指摘するのは重要である。
さて、話を戻せば、たとえばフェミニストたちは、もう質的にマイナーである。なぜなら、もともと劣位に置かれているものたちの声であるのだから。 見方になる男性も少なく、さらには男性/女性という問題ではなく社会構造という一番やっかいな敵がフェミニストたちに立ちはだかってくる。 それが、フェミニズムをよしとしない女性たちからの反発の声もあがってくると、数的にまで、フェミニストたちは劣位に置かれることになる。
マイナーとしてのフェミニズムあるいはフェミニスト。
ひとつは、この考えにより、敵がはっきりすること。真の敵はメジャーではなく、メジャー/マイナーのこの図式・優劣構造を規定する作用主体、こいつであるということ。
もうひとつは、マイナーの戦い方。なぜなら、戦い方を間違えれば、またしてもこの悲惨な登場人物は、誤解に巻き込まれることになるからである(アファーマティヴアクションの弊害、さらにはヘーゲル的弁証法による包摂化)。
さて、私がこの記事を書いたのは、1980年代に書かれた江原由美子氏の『ジェンダーと権力作用』の前書きを読んでいたときのこと。 江原氏は、もうすでにこの時期において、アイデンティティ・トラブルとしてのフェミニズム、つまり女性なる私とは誰か? をめぐる問題・戦いは、一見休息したように見えると、半ば不安感に駆り立てながら記していたことである。
フェミニズム史を考慮すれば、フェミニストたちはいくつもの異なる次元の戦い・問題に次々と巻き込まれていったことがわかる。もうそれだけでも事態は複雑であり、このことがいかにプログレマティークな事柄なのかを示唆している。
80年代から30年間が過ぎ去った。 90年代に『生き延びさせろ!』を叙述した雨宮処凛氏は、貧困問題のみならず、若者、戦争、介護、それから女性の問題と、さまざまな社会問題に対して実践的に活動している。
雨宮氏は今年の5月号である『現代思想 特集=自殺論』において、貧困と介護と女性の問題は深いところでリンクしているという素晴らしい対談を行っている。 80年代の江原氏の不安感は気まぐれなものではなかった。それどころか、30年たって、事態はよくなるどころか新しい問題を次々と生み出しているのである。
『不惑のフェミニズム』の上野千鶴子氏が語るように、20世紀後半の最大の思想は(構造主義と共に)フェミニズムであったといってよい。 フェミニズムは、フェミニズムそれ自体が弱者の立場に置かれるという事を現時的に何度も記述しつつ発展するという、ひじょうにこみいった学である。
私がマイナー研究として、主としては広く抵抗の問題系として、フェミニズムを扱ってよいかどうかにも議論を呼ぶところはあるであろう。
若者。貧困。労働者。芸術。介護。戦争。そして、フェミニズム。
それらをマイナー研究として、そこからの脱却を図るとともに社会に強烈な揺さぶりをかけること。
(了)
まずだいいちに、数的・量的な変数を実体化したものがパワーの指標になるわけではない。なるほど、数の優勢は確かにひとつのパワーの指標足りうる。 しかし、現実に生産手段を持つ1人の資本家と、99人の生産手段を持たない労働者とでは比較が異なる。 1人の専制君主と999人の被制圧者とではパワーの構成が違う。
これは<数の誤り>とでも呼ぶべき現象である。 実は、数的量は、質的量に劣る。
パワーの構成としては、まず質的・構造適量が優勢を占める。その上で、数的量が問題となってくる。
伝統的な図式の下で、男性が優位で、女性が劣位であるという構造的な質がある。 だから、半数の男性と半数の女性では、なお力関係はハッキリしているわけだ。
1人の男性と、99人の女性でも怪しいかもしれない。
私が2番目に提起する問題とは、99人の男性と1人の女性という図式が問題となってくるような場面である。
2番目の問題としての、マイナー/メジャーをめぐる問題。 この二項対立は、いっけん、対立の様式ではない。たとえば、小説市場において、圧倒的に人気を誇るミステリー・エンターテイメント小説の市場と、純文学の市場は、メジャー/マイナーの関係に立つ(純文学は大衆人気を誇るようなものではそもそもない)が、互いが互いを直接的に抑圧、あるいは支配するものではない。
ただ、私の考えでは、このメジャーもしくはマジョリティは、サイレント・マジョリティとして、いわば直接的には支配主体とはならないのだが、間接的にそのような立場を占めてしまう主体のことを言う。
サイレント・マジョリティの問題はやっかいである。それらは、当人の主観からすれば、「善意」(法学的意味でない)、「無垢な気持ち」で、たとえばミステリー・エンターテイメント小説などがもてはやされたりする。
彼らに直接的責任を求めることはできない。メジャー市場としてのミステリ・エンタメを楽しむ消費者にとっては、それらの存在は純粋に面白いからである。
しかし、そのことが、たとえば市場の論理において、よく売れるから、さらに規模を増やそう、そのためには純文学の市場空間を減らしてまでも、という第三者の介入が入ってくる。
しかしこのことで、純文学の市場は確実に(数をも)減らされることになる。 内容が面白い/面白くないということではなく、”市場の論理”というもっぱら外部的な要因によって、純文学は数的にも、それから質的にも(売れないから規模を小さくする)劣位におかれることになる。
厄介な派生効果として、どこからともなく、純文学はつまらないからもともと売れないのだ、という声が生産されるようになる。これがいかに間違っていようとも、質的に・そしてさらに数的に劣位構造にますます置かれる純文学は、それに反抗する声をもてなくなってしまう。
反対に、市場を味方につけたミステリーエンタメは、自らの存在をますます広げていくようになる。
上下構造、優劣構造はこのように飛躍的に悪循環に陥る。 市場がこれに加担しているということを指摘するのは重要である。
さて、話を戻せば、たとえばフェミニストたちは、もう質的にマイナーである。なぜなら、もともと劣位に置かれているものたちの声であるのだから。 見方になる男性も少なく、さらには男性/女性という問題ではなく社会構造という一番やっかいな敵がフェミニストたちに立ちはだかってくる。 それが、フェミニズムをよしとしない女性たちからの反発の声もあがってくると、数的にまで、フェミニストたちは劣位に置かれることになる。
マイナーとしてのフェミニズムあるいはフェミニスト。
ひとつは、この考えにより、敵がはっきりすること。真の敵はメジャーではなく、メジャー/マイナーのこの図式・優劣構造を規定する作用主体、こいつであるということ。
もうひとつは、マイナーの戦い方。なぜなら、戦い方を間違えれば、またしてもこの悲惨な登場人物は、誤解に巻き込まれることになるからである(アファーマティヴアクションの弊害、さらにはヘーゲル的弁証法による包摂化)。
さて、私がこの記事を書いたのは、1980年代に書かれた江原由美子氏の『ジェンダーと権力作用』の前書きを読んでいたときのこと。 江原氏は、もうすでにこの時期において、アイデンティティ・トラブルとしてのフェミニズム、つまり女性なる私とは誰か? をめぐる問題・戦いは、一見休息したように見えると、半ば不安感に駆り立てながら記していたことである。
フェミニズム史を考慮すれば、フェミニストたちはいくつもの異なる次元の戦い・問題に次々と巻き込まれていったことがわかる。もうそれだけでも事態は複雑であり、このことがいかにプログレマティークな事柄なのかを示唆している。
80年代から30年間が過ぎ去った。 90年代に『生き延びさせろ!』を叙述した雨宮処凛氏は、貧困問題のみならず、若者、戦争、介護、それから女性の問題と、さまざまな社会問題に対して実践的に活動している。
雨宮氏は今年の5月号である『現代思想 特集=自殺論』において、貧困と介護と女性の問題は深いところでリンクしているという素晴らしい対談を行っている。 80年代の江原氏の不安感は気まぐれなものではなかった。それどころか、30年たって、事態はよくなるどころか新しい問題を次々と生み出しているのである。
『不惑のフェミニズム』の上野千鶴子氏が語るように、20世紀後半の最大の思想は(構造主義と共に)フェミニズムであったといってよい。 フェミニズムは、フェミニズムそれ自体が弱者の立場に置かれるという事を現時的に何度も記述しつつ発展するという、ひじょうにこみいった学である。
私がマイナー研究として、主としては広く抵抗の問題系として、フェミニズムを扱ってよいかどうかにも議論を呼ぶところはあるであろう。
若者。貧困。労働者。芸術。介護。戦争。そして、フェミニズム。
それらをマイナー研究として、そこからの脱却を図るとともに社会に強烈な揺さぶりをかけること。
(了)
PR
と題しましてどうもみすてぃです。
はー眠い。
最近、勉強がちょっとだけ熱心になってますw
方向づけをあまり意識的にしないのですが、最近はどうやら
(1)資本主義研究
(2)ドゥルーズ研究
(3)抵抗としての身体論研究
(3)文学研究(批評研究)
(4)おもしろい本を読む
の4つに分かれているような、、、
(1)は、執筆も結構いい状態で進んでいます。 いかんせんテーマが広い!のですが、今のところ動機付けとか、方法とか、対象の限定とか、それなりにうまくいってるかもしれません。
とりわけ面白いのが(2)です。 ドゥルーズ自体の著作はちょっと前に「批評と臨床」を読了しました。
僕が今頑張りたいのが、『差異と反復』の読解(もう読むの5回目ww)、それからヒュームとスピノザの理解。
ヒュームは「ヒュームの一般的観点」という本を読み始めました。
スピノザは、なんか苦手なのですが、やっぱり途中までだった國分さんの「スピノザの方法」読むか・・・。
あ、ドゥルーズに関しては、今年は日本のドゥルージアンたちがバンバン本出すので嬉しい限りです。
(3)は、資本主義研究の次を見据えての行動です。
(4)は今マラルメ論読んでます。
(5)は、メルヴィルの「白鯨」と、ヴァージニアウルフを検討してます。
あー、大変で、幸せだなぁ。笑
それでは。
これから、資本主義体制が抱える、私が「労働ー消費の相互蓄積性」と呼ぶ問題の一面を指摘して取り上げようと思う。
後述するように、この問題は、理解するのに難しくないにもかかわらず、従来の学問ではあまり取り上げられなかった視点である。
ここにこそ、資本主義体制をめぐる問題の鍵が眠っているであろう。
さて、どうも人は労働-消費体制(働いて、あるいは働かせて、遊ぶ、あるいは遊ばされる制度のこと)に縛られている気がする。そこでここでいう「縛り」には、2種類のものがある。
(1) (個人にとっての)体制が決定される(労働時間が8時間と決まる、あるいは新たな職場先が決まる)ことによって、それを社会的安定のメルクマークとみなすこと。つまり、それを基軸として、労働者の生(この言葉が硬いと思われれば、簡単に「人生」でもよい)が考えられていくということ。 賃金がこれだけだから、送る生活水準は大体これくらいになりそうだ、6時まで働くから飲んだり遊んだりするのは夜7時以降の3時間くらいになりそうだ、等々。
(2)労働時間以外の時間は逆に、私は消費者だ-あるいは何者でもない受動的市民だーとして振舞うこと。受動的市民とは、法や管理体制にとって不可視の一般大衆としての彼らの存在のことである。善良な市民は、それとして社会に浮上することがない。さて、ここには労働(ー消費)体制に対するある種の反作用が働いていると考えられる。つまり、自らの意思もあると擬制されて時間労働契約を取り交わし、その時間以外では他の領域の労働ー消費空間に、もちろん金銭を有するものとして参入すること。
人は働き、そのあとまた遊び、そしてまた働く、これを繰り返すから当たり前だといってよいかもしれない。さらに労働したことで対価たる金銭を得るのだから、人は当然に(近代的)自由人=市場空間に参入する人として振舞うのだ、と指摘する向きもあろう。
しかし私は、労働ー消費の相互蓄積性というものを重視する。相互蓄積とは、自分が労働者となったり消費者となったりするのをずっと繰り返す、そしてその経験を頭脳によって蓄積している、という意味である。この相互蓄積性はしかし圧倒的に重要である。一度でも労働の側に入ったことのある人は、善良な(純粋な)消費者として振舞うことはないといってよい。なぜならその消費者は過去の自分の労働者性を比較に持ち出したり、持ち出さずとも経験的=反復的に思い出したりして、その消費行動に望んでいるのである。分かりやすい例がモンスターカスタマーであろう。
彼らの例は、もちろん他の社会領域の問題ともかかわっているが、間違いなくこの労働ー資本体制が直接的に抱え込んでいる問題の一つである。彼らの存在は直接にそのような社会から生み出されている。
労働体制じしんが、人を労働者として準固定し、そしてその労働時間が解けると、反作用として<アンチー労働>の向きに向かわせるのだということー。
(アンチーワークを狭義に捉えてはならない。 労働に対する<抵抗>(この抵抗という言葉もまた注意が必要である)は、主として消費によってなされる。
たとえば、浪費は労働に対する抵抗の一つである。決められたマネーと商品の関係を破壊し、それを過剰なものとすることによって自ら快楽を得る。この小論ではアンチワーク(労働に対する抵抗)の概念を掘り下げて記述することはできないので、話を労働ー消費の相互蓄積性がいかに人を縛り付けるか、という点に絞ろう。)
人は、自分が過去に労使空間で受けた経験や感情を、今度は自分が消費者の立場に立って、別の新たな領域で意識的にか無意識的にか投射し、比較項とし、自分は王となる。
消費者は、実は隠れた労働者であり、その行動ははじめからねじれていること。このねじれこそは、労働ー資本体制の「縛り」の後者の機能である。
静態的な民法理論では、一回きりの債権者(消費者)ー債務者(労働者)という契約関係を論ずる。これを純粋消費者、あるいは純粋労働者と呼ぼう。 この純粋理論では、時間軸が設定されていない。そこでこの図式に時間軸を導入し、消費者と労働者に過去を持たせると、図式はたちまち複雑になる。
消費者は、隠れた労働者であるのだから、なおさらいっそう債権者として、つまり貨幣を持つものとして強く振舞う=振舞えるのである。 労働者はますます弱くなる。ここには二重の従属関係、というより反比例的に広がる労働者と消費者の格差が存在する。
話は跳躍するが、もし消費者と労働者がやはり構造上の力の差異により区別され、対立するなら、そして消費者は一回きりの立場であり、相互に消費者としての地位と労働者としての地位が繰り返され蓄積して以降ものなら、まさに万人の万人に対する闘争関係が再び現代によみがえる。この闘争は複雑である。
(以上)
後述するように、この問題は、理解するのに難しくないにもかかわらず、従来の学問ではあまり取り上げられなかった視点である。
ここにこそ、資本主義体制をめぐる問題の鍵が眠っているであろう。
さて、どうも人は労働-消費体制(働いて、あるいは働かせて、遊ぶ、あるいは遊ばされる制度のこと)に縛られている気がする。そこでここでいう「縛り」には、2種類のものがある。
(1) (個人にとっての)体制が決定される(労働時間が8時間と決まる、あるいは新たな職場先が決まる)ことによって、それを社会的安定のメルクマークとみなすこと。つまり、それを基軸として、労働者の生(この言葉が硬いと思われれば、簡単に「人生」でもよい)が考えられていくということ。 賃金がこれだけだから、送る生活水準は大体これくらいになりそうだ、6時まで働くから飲んだり遊んだりするのは夜7時以降の3時間くらいになりそうだ、等々。
(2)労働時間以外の時間は逆に、私は消費者だ-あるいは何者でもない受動的市民だーとして振舞うこと。受動的市民とは、法や管理体制にとって不可視の一般大衆としての彼らの存在のことである。善良な市民は、それとして社会に浮上することがない。さて、ここには労働(ー消費)体制に対するある種の反作用が働いていると考えられる。つまり、自らの意思もあると擬制されて時間労働契約を取り交わし、その時間以外では他の領域の労働ー消費空間に、もちろん金銭を有するものとして参入すること。
人は働き、そのあとまた遊び、そしてまた働く、これを繰り返すから当たり前だといってよいかもしれない。さらに労働したことで対価たる金銭を得るのだから、人は当然に(近代的)自由人=市場空間に参入する人として振舞うのだ、と指摘する向きもあろう。
しかし私は、労働ー消費の相互蓄積性というものを重視する。相互蓄積とは、自分が労働者となったり消費者となったりするのをずっと繰り返す、そしてその経験を頭脳によって蓄積している、という意味である。この相互蓄積性はしかし圧倒的に重要である。一度でも労働の側に入ったことのある人は、善良な(純粋な)消費者として振舞うことはないといってよい。なぜならその消費者は過去の自分の労働者性を比較に持ち出したり、持ち出さずとも経験的=反復的に思い出したりして、その消費行動に望んでいるのである。分かりやすい例がモンスターカスタマーであろう。
彼らの例は、もちろん他の社会領域の問題ともかかわっているが、間違いなくこの労働ー資本体制が直接的に抱え込んでいる問題の一つである。彼らの存在は直接にそのような社会から生み出されている。
労働体制じしんが、人を労働者として準固定し、そしてその労働時間が解けると、反作用として<アンチー労働>の向きに向かわせるのだということー。
(アンチーワークを狭義に捉えてはならない。 労働に対する<抵抗>(この抵抗という言葉もまた注意が必要である)は、主として消費によってなされる。
たとえば、浪費は労働に対する抵抗の一つである。決められたマネーと商品の関係を破壊し、それを過剰なものとすることによって自ら快楽を得る。この小論ではアンチワーク(労働に対する抵抗)の概念を掘り下げて記述することはできないので、話を労働ー消費の相互蓄積性がいかに人を縛り付けるか、という点に絞ろう。)
人は、自分が過去に労使空間で受けた経験や感情を、今度は自分が消費者の立場に立って、別の新たな領域で意識的にか無意識的にか投射し、比較項とし、自分は王となる。
消費者は、実は隠れた労働者であり、その行動ははじめからねじれていること。このねじれこそは、労働ー資本体制の「縛り」の後者の機能である。
静態的な民法理論では、一回きりの債権者(消費者)ー債務者(労働者)という契約関係を論ずる。これを純粋消費者、あるいは純粋労働者と呼ぼう。 この純粋理論では、時間軸が設定されていない。そこでこの図式に時間軸を導入し、消費者と労働者に過去を持たせると、図式はたちまち複雑になる。
消費者は、隠れた労働者であるのだから、なおさらいっそう債権者として、つまり貨幣を持つものとして強く振舞う=振舞えるのである。 労働者はますます弱くなる。ここには二重の従属関係、というより反比例的に広がる労働者と消費者の格差が存在する。
話は跳躍するが、もし消費者と労働者がやはり構造上の力の差異により区別され、対立するなら、そして消費者は一回きりの立場であり、相互に消費者としての地位と労働者としての地位が繰り返され蓄積して以降ものなら、まさに万人の万人に対する闘争関係が再び現代によみがえる。この闘争は複雑である。
(以上)
主体から”ヴィークル”概念へ
主体とは何かと言われたら、図式的に言えばそれは中心とまったく同義である。中心的な視座、というより視座の中心、動作の中心、といったほうがいいのか。
視座の中心、思考の中心として、たしかに私たちは振舞うことができる。法的主体は、そういう風にして働かないとまずい(「私はAという原告でもありません、私はAという行為をしていません・・・」とばかり飛び交う法廷世界になったらたちまち司法は安定性を奪われるだろう)。
しかし私は、この中心さを、放棄してしまえばいいと考える。
その理由は、こういうことになる。すなわち、主体、中心的な視座・動作とは、やはりそれ自体自明のものではない。いわば、私たちは、自分の中心を占めていて当たり前、なぜなら自分は自分だからだ(所有権の擬制)という考え方が、どれほど似つかわしくないかは、ポストモダン思想があれほど共有しているものだからである。私もそのひとりである。
言い換えれば、主体という概念もまた一つの生産物なのである。
おそらく、自己に主体性を与えることで、自己が自身の名において作動を起こす・・・。 これが近代社会における個人の在り方である。
そのあり方は今ひどく揺れ動いている。
主体を否定してしまえばよい。 私は私の中心になど立てるものではない。
主体を徹底的に否定するのではなく、例えば、主体的にもなりうる、ただしそれはあくまで効果としてのことだ、としてしまえばよい。 これを主体効果と呼ぼう。 主体効果を認めれば、主体化は相対的な位置に降り、生のあり方についての重要メルクマークから外れる。
では、この私とは何か。
私は、ドゥルーズが熱弁した、情動という概念を採用してみたい。もっとも、私自身がまだ勉強が追いついていなくて、この情動というものの外延、内在的な平面をまだ把握してはいない。
しかし例えば、この私には、無意識や、感情がどっと押し寄せることがある。これは、私が積極的に担うというより、外からやってくる感じだ。 その意味では、感情や無意識を受ける私は、そうしたものに対する受け皿に過ぎない。
受け皿に過ぎないのだが、それらを受けたとたん、また別の新しい行動を産出する。この点に、ドゥルーズは積極性を認めたのではなかろうか。
無意識や感情は、哲学の世界では見過ごされていた部分だが、私はある理由によって、これらの方にこそ、今後の人間の生のありかたを導いていく、大きな鍵があると考えている。
理性や責任を中心に据える 主体的な私から、
情動の受け皿としての、 ヴィークル(乗り物)―機械。
このヴィークル(ー機械)という概念を提案する。 ヴィークルもまた機械の一部分である。
ヴィークルは決して、荷物を目的地に運ぶ、といった手段性には従属しない。 ヴィークルには目的性がない。
ヴィークルは情動を運びつつ、他の機械部分と接続して、無意識や感情の波を作り、波及させる。
ヴィークルは理性や責任をすり抜ける。あるいは、それらから逃走する。
ヴィークルには中心的な視座というものがない。それはいつも脱中心的である。
ヴィークルには、脱中心的な社会が対応するのだろうか。
(了)
主体とは何かと言われたら、図式的に言えばそれは中心とまったく同義である。中心的な視座、というより視座の中心、動作の中心、といったほうがいいのか。
視座の中心、思考の中心として、たしかに私たちは振舞うことができる。法的主体は、そういう風にして働かないとまずい(「私はAという原告でもありません、私はAという行為をしていません・・・」とばかり飛び交う法廷世界になったらたちまち司法は安定性を奪われるだろう)。
しかし私は、この中心さを、放棄してしまえばいいと考える。
その理由は、こういうことになる。すなわち、主体、中心的な視座・動作とは、やはりそれ自体自明のものではない。いわば、私たちは、自分の中心を占めていて当たり前、なぜなら自分は自分だからだ(所有権の擬制)という考え方が、どれほど似つかわしくないかは、ポストモダン思想があれほど共有しているものだからである。私もそのひとりである。
言い換えれば、主体という概念もまた一つの生産物なのである。
おそらく、自己に主体性を与えることで、自己が自身の名において作動を起こす・・・。 これが近代社会における個人の在り方である。
そのあり方は今ひどく揺れ動いている。
主体を否定してしまえばよい。 私は私の中心になど立てるものではない。
主体を徹底的に否定するのではなく、例えば、主体的にもなりうる、ただしそれはあくまで効果としてのことだ、としてしまえばよい。 これを主体効果と呼ぼう。 主体効果を認めれば、主体化は相対的な位置に降り、生のあり方についての重要メルクマークから外れる。
では、この私とは何か。
私は、ドゥルーズが熱弁した、情動という概念を採用してみたい。もっとも、私自身がまだ勉強が追いついていなくて、この情動というものの外延、内在的な平面をまだ把握してはいない。
しかし例えば、この私には、無意識や、感情がどっと押し寄せることがある。これは、私が積極的に担うというより、外からやってくる感じだ。 その意味では、感情や無意識を受ける私は、そうしたものに対する受け皿に過ぎない。
受け皿に過ぎないのだが、それらを受けたとたん、また別の新しい行動を産出する。この点に、ドゥルーズは積極性を認めたのではなかろうか。
無意識や感情は、哲学の世界では見過ごされていた部分だが、私はある理由によって、これらの方にこそ、今後の人間の生のありかたを導いていく、大きな鍵があると考えている。
理性や責任を中心に据える 主体的な私から、
情動の受け皿としての、 ヴィークル(乗り物)―機械。
このヴィークル(ー機械)という概念を提案する。 ヴィークルもまた機械の一部分である。
ヴィークルは決して、荷物を目的地に運ぶ、といった手段性には従属しない。 ヴィークルには目的性がない。
ヴィークルは情動を運びつつ、他の機械部分と接続して、無意識や感情の波を作り、波及させる。
ヴィークルは理性や責任をすり抜ける。あるいは、それらから逃走する。
ヴィークルには中心的な視座というものがない。それはいつも脱中心的である。
ヴィークルには、脱中心的な社会が対応するのだろうか。
(了)
Vague mal 第三回
記憶の中 1
記憶の中 1
そう、私は記憶に支配されている。私の記憶自身に。記憶の糸に絡め取られていて、思うように身動きができない。頭の右部分が痛むし、心臓の鼓動の音も速い。そんなときはすとんと、もう身体を思いっきり軽く扱うのだ。息を整える。大地に足が根付いているのを確かめる。確認すればするほど、私の中心、からだの奥底がとても熱を帯びたように熱くなり、すると足の裏の感覚もなくなっていく。上に上昇していく感覚がする。
人は成長する、端的に。瀬乃低かった幼少期から満員電車で人の頭を眺め回すほどの20代までに。ねぇ、あの時の君には見えていなかったものが、今の僕には見えるよ。古ぼけた本棚の上、きれいなお母さんの目線、異質でたくましい父の肩の上…。今、僕には見えている。そういう断片が。景色の断片が。
私はほどなく、おびただしい強い光の数々に包まれる。ふと気づくと、周りは暗闇。誰ひとりとして、何一つとして見当たらない。気にすることはない。息をもう一回落ち着ける。ふーっ…。大丈夫だ、私はいる、そしてこの光の中に。
絡まっていた記憶の糸は、ゆっくりと、しかし確実にほどけていく。空と大地と光が私を守っている。手をぎゅっと握り締める。まぶたをしずかに閉じ、この<母>のような確かな暖かさの中にいながら、私の感覚器は閉じ、もうそこでは暗闇も光も記憶の糸もすべての区別がつかなくなるくらいの強い閃光が走っている。
―朝、目覚める。そう、何事も覚えていなかったかのように。
(続く)
記憶の中 1
記憶の中 1
そう、私は記憶に支配されている。私の記憶自身に。記憶の糸に絡め取られていて、思うように身動きができない。頭の右部分が痛むし、心臓の鼓動の音も速い。そんなときはすとんと、もう身体を思いっきり軽く扱うのだ。息を整える。大地に足が根付いているのを確かめる。確認すればするほど、私の中心、からだの奥底がとても熱を帯びたように熱くなり、すると足の裏の感覚もなくなっていく。上に上昇していく感覚がする。
人は成長する、端的に。瀬乃低かった幼少期から満員電車で人の頭を眺め回すほどの20代までに。ねぇ、あの時の君には見えていなかったものが、今の僕には見えるよ。古ぼけた本棚の上、きれいなお母さんの目線、異質でたくましい父の肩の上…。今、僕には見えている。そういう断片が。景色の断片が。
私はほどなく、おびただしい強い光の数々に包まれる。ふと気づくと、周りは暗闇。誰ひとりとして、何一つとして見当たらない。気にすることはない。息をもう一回落ち着ける。ふーっ…。大丈夫だ、私はいる、そしてこの光の中に。
絡まっていた記憶の糸は、ゆっくりと、しかし確実にほどけていく。空と大地と光が私を守っている。手をぎゅっと握り締める。まぶたをしずかに閉じ、この<母>のような確かな暖かさの中にいながら、私の感覚器は閉じ、もうそこでは暗闇も光も記憶の糸もすべての区別がつかなくなるくらいの強い閃光が走っている。
―朝、目覚める。そう、何事も覚えていなかったかのように。
(続く)