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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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Vague Mal 第二回
探求
 
 空転せる筒のその中心にひょいと飛び降り、ずっと落ちていく、そのまま。おそらくそこには何かがある。無限の底。
  あなた――名前を、仮の名前を“紅子”と名付けよう。紅子はとても美しく、彼女の一挙一動に私の心が震わされる。はつらつとしていて、雪のような白さに少し日焼けが入った肌。頬は鮮血の紅が薄く差している。
 紅子のことを思えば私は過去の宮殿にたちまち引き戻される。そんなもの、私が作った、建造したという憶えもないのに。
 思えば、この憶えのない構築物でさえ、私にとってはひとまず他性である。それなのに私に一定の関係をもっているというのか、どうすればいいのか。困惑する。そういえば空を司るアーケードは、黄色とも紫色ともつかぬ曖昧な色彩が鈍く光り、それがまるで宝石のようにあちこちに散りばめられている。
 
 あぁ、記憶から記憶へ。曲が聴こえる、内から、扉越しに、静かで強く訴えかけてくる短調のワルツ。そっと扉を開けて、中を覗いてみようか。きっとそこには、黒色を身にまとった名も無き演奏家たちが、誰かの為に孤独をそっと撫でるように、夕闇の演奏を続けているのであろう。地下室の演奏家。
 
 ねぇ、紅子。生きる強さとは何か。自己の弱さと対峙していけるだけの。私は最低な人間だから。どんな文学作品の意地悪い登場人物にも比肩できないような、みじめで、どうしようもない人間だ。それをひた隠しに生きている僕はさながらペテン師。でも紅子、君の近くにいるとそんな嘘やだましは通用しなくなって……。僕はいたたまれない気持ちになる。そのきらきらした瞳は、神秘のヴェールさえをも脱がせて物事を見るだけの強さがあるの。
 
 そんなみじめな私でも、たまには得難き喜びを手にすることがあるんだ。もうこれは、生きるというより、そんな大層なものじゃない、放浪者の旅……。今着ている服はこれで何日目だろうか、何とか今日のご飯と宿は確保した、さて残りのこの無限の時間をどう過ごそう。
 
 あちらこちらで傷をおってきた。これほどおぞましいことはない。傷だらけ。記憶がそれらの傷全てを疼かせる。刻印、ありとあらゆる思い出の。
 過去が精算されることは究極的にはないといってよい。ならば、例えば光眩しい午後、ベンチの下でカフカを読みながら、あぁこれは苦渋に満ちた思いだ、と渋い顔をしていつかの時間を過ごすのも、結構素敵な事柄ではないか。
 記憶への隷従。

(続く)

 
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こんにちは。

"vague mal(仮)"という小説を、連載していこうかと思っています。
 なぜこのおかたい(笑)ブログで小説の連載かというと、うーんと、僕は哲学を勉強する傍ら、表現も頑張ってみたい、と思っているのですが、簡単に言えばこの哲学と表現の両者の接続をやってみたいということです。

ドゥルーズやボードレールといったフランスの文章にひどく惹かれている僕は、まだ曖昧ですが、こういった形式の文章は日本ではそこまで見られないな、と思い、また実際、このvague malを書き始めてからも、なんか新鮮な気持ちになります。

vague malはそういった意味では実験であり、既存の文化形式に何か新しいものを付け加えて太くしていこうとする試みであります。

まぁそんな大層なこと言ってもはじまらないわけですが笑

以上をもって、連載にします☆彡


Vague mal
                                            光枝 ういろう
 
 
 
 第一部 melancolique 
 
 
1 …、落ちる
 
 幾重にも重なる過去。それらを集積した記憶が蘇るとき、悪夢となるか白昼夢となるか。風が通り抜ける、あの懐かしい通りを、確実に、365日と幾度の瞬光をも越えて。だってきれいだろう、そういうの。もう同じ場所に、一つの場所に、私は何回と記憶のエクリチュールを連ねてきたことか。それならば、一つの場所とは、とりもなおさず私にとって記憶の集積体なのだ。記憶の、いや無意識と意識とが織り成す無限のパラフレーズ。何故、何故。とてもきれい。集積体は、私の分身によって、埋め尽くされている。
 
 思い出すことは。あなたは。毎日、寝て、起きる、そんなあなたは驚く程身軽なのですね。か?一回性に戻ろうとしているわけではない、そう理性では言いたい。どちらを愛しているのか、初めてのあなたか、それとも何回も会うことになるあなたなのか。
 
 記憶を愛すること。それはひどく後ろ向きなことだろうか。そうかもしれない、それに記憶が立ち現れてくること。立ち現れ、出現は苦しみを伴う。
 あなたも苦しいことがあったのか? 苦しみを、やり過ごすでもなくいくつもの夜を越えて、昼を迎えて、常なる中間点としてそれでもあなたはこの私に笑ってこうして向き合ってくれているのか。
 
 結局、昼の太陽の下にあなたの無垢な笑顔で私は一つの苦しみとそれから溢れんばかりの愛情を憶え、夜の夕闇の下にまた一つの風が吹いて、そうしてそれから柳の木が立っていた。私はその時、自分の頼りなさを素直に受け止めることもできず、ただ風の吹くままに流して――。そうして、世界は一瞬たりとも休むことなく、動くことをひたむきに選んだ。


(続く)
ちょっとお久しぶりです。

@フーコーの抵抗論だけではなぜだめか

佐藤嘉幸の『権力と抵抗』を読んでいる。 アマゾンでもこの本に対する評価は高く、また僕自身、とてもまとまっていると感じる。

そこで今日は、第一章「場所論Ⅰ」(pp23-52)を下に、フーコーの抵抗論の限界を論じていこうと思う。

フーコーの権力論は、カント哲学に由来を発している。

 カントは、自我(主体、私)を二つの審級に分けていることになる。

まず、客観的な自己としての、経験的審級。  それから、そうした経験的審級を監視、反省することのできる、超越論的審級。

超越論的自我
↓支配
経験的自我

という構造が主体の本質にあるというわけだ。ここでは主体は二つに分裂しているのみならず、超越論的自我が肥大化しているといえる。

フーコーはむろんこうしたカント哲学を痛烈に批判し、そこからの脱却を試みる。それをいかに示そう。
 フーコーはまず、経験的自我が多様性を有するということに着目する。それだけではない。この、多数のなかにある経験的自我の領域は、そのまま、社会野における、権力関係の闘争の領域、場であるのだ。

 どういうことかというと、さまざまな経験的自我が産出し、お互いに闘争を繰り広げることによって、その一帰結として、それら複数を従えるあの超越論的審級が誕生するにすぎない。

 権力関係における闘争においては、闘争の過程が重要であってその結果はあまり重要でない。というか、闘争の結果として、何とか主体という構築物ができあがる。 もっぱら闘争の結果として主体は立ち現れるわけだ。ここにポスト構造主義の兆候を見て取ることは可能であろう。

これがフーコーによる近代哲学の脱構築である。 しかし同書において佐藤はフーコーの限界(アポリア)をも続けざまに論ずる。

 フーコーの定義に従えば、権力とは力の諸関係の多様体(『性の歴史Ⅰ:知への意志』)である。ここで抵抗とは、権力の裏返しの事柄である。すなわち、権力関係の戦略的フィールドの中に、抵抗(の可能性)も、内在的に書き込まれているというわけだ。

しかしである。 フーコーの『監獄の誕生』では、どういうことが書かれてあったかというと、

例えばパノプティコンは、自分自身が服従化の原理となること、この作動だったのである。
 つまりどういうことかというと、ここでも主体は超越論的審級と経験的審級の二つに分裂し、監視の目はパノプティコン装置の作動によって、そのまま自我(分裂された主体)に内面化し、その役割を超越論的審級があずかって、<監視される私>、すなわち経験的自我を規律=支配するのである。

 ここでは主体は文字通り空虚な形式、すなわち権力の備給の対象でしかない。 権力は上から下へと流れるのみであり、抵抗の可能性はないのである。

『監獄の誕生』に抵抗の可能性はない。これは、考えるに、いくら経験的自我の領域が多数性、複数による闘争の場所であったとしても、当の超越論的審級の場は単数性でしかない、だから抵抗をしようにもひっくりかえらない、このことなのではなかろうか。

『知への意志』では権力関係の闘争性をポジティヴに描いたかに見せても、それは経験的審級の場においてでしかありえず、結局それらを支配し監視する超越論的審級の場がたった一つであること。 これが、抵抗が不可能ではないか、と、フーコーの権力/抵抗理論に対してなしえる痛烈な批判である。


こうなったことの理由としては、一つは『監獄の誕生』だけではフーコーは権力・抵抗理論は完成なしえなかったということであろう。それが後の性の歴史シリーズにおいて、かくも主体にかかわる異なる視点からの探求をすすめたのであろう。

 同書では、こうしてフーコーの抵抗論の弱点を確認したあと、ドゥルーズ=ガタリの抵抗論を検討することになっている。
(終わり)
感想文です。

小林康夫『存在のカタストロフィー』

はじめからいうと、最後まで読んでません笑 だから、この前著の『歴史のディコンストラクション』を読んでから、またこの本に戻ることがあれば読むと思います。

今回は感想文というより、小林さんが書かれていた内容で、とても興味深かったところについて語りたいと思います。


良心についての話。
 良心とは、この本によると、もともと「共に―知る」の意味だそうです。  物事のよしあし、という意味は、もっぱら日本が明治近代化の際に、翻訳を適当につけちゃったらしいんですね。

「共に―知る」。 自分が知る、ではない。 それが良心。
 ということは、良心が問われる、とかよくいいますが、本当のその意味は、「共に知る」のは誰か? ということです。

その主体には3つのカテゴリがあると続きます。

1、他者 2、神 3、自己自身

1の他者とは、他人。他人と一緒に何かを知る、それが良心。 事故の現場を見て、多くの人と共に自然の悲惨さを知る。これが1のケースにあてはまります。
2の神は、中世ヨーロッパ的、神と自己自身との統一を図る的なやつだそうです。

そして3番の自分。 この自己自身は、<語りかける私>です。 そして、この<語りかける私>には、<語りかけられる私>が対応しているはずです。 そして、

<語りかける私> = <語りかけられる私>  ⇒ 強力な<私>、主体の発生(登場)

という近代の図式がここで打ち出される、というわけです!

このイコールが、例えばハイデガーなら、「決意」という概念を持ち出してイコール図式を完成させます。

 ここからは、小林さんの主張を私なりにまとめたものです。
 ポスト近代たる現代にあっては、この「共に―知る」の相手を、

anybody(誰でもないけど、誰か)

なのではないか、といいます。 このanybodyには、人間だけでなく、非人間的なシステムや、偶然的な環境なども含みます。 例えば、大震災の辛さと共に、その悲しみを分かち合うこと。 誰とも知らない、しかし誰かと、現実を共有しなければならない、その倫理性。それが現代で問われているのでは。誰かわからない人と共に―生きることが大切なのではないか。

そういうふうにまとまると思います。

私自身は小林さんの、結局はシンプルだけどおくぶかい主張に、肯定します。 anybodyとの共生。 共生という言葉はいろいろ歴史のアカを持っていますが、それでも、現代はそういう倫理が問われているのは確かだと思います。言い換えれば、現代という時代の中で”良心”が問われるのは、大事になるのは、常にそういう状況の下だということ。

面白かったです。

(終わり)
皆が、私の元を、私たちのもとを、通り過ぎていく。

通り過ぎる。pass by. passとは歩む、通る、通過する、パスする。 byで・・・寄りの、~に従って。

 中心には重ならない、なぜなら皆は私ではないからだ。私は他者ではない。

そして、他者は痕跡を残す。 痕跡、その意味。 痕跡の意味だけが残る。 私たちはその意味を持て余し、あるいは考え、解決し、解決されたということは、自己を確実に深化させることにつながる。

他者は痕跡を残すもの、と定義されないだろうか。

そして私たちもまた、他者を通り過ぎ、痕跡を残すものである。

痕跡とは何か。自己ではないが、デリダの概念を先取りすると、自己の散種? あるいは自己であったものかもしれないが、もうコミュニケーションに扮されるものとしての自己の部分。”私ガツタエタイコト””私ガノコシタイコト”。

真の意味で、自己と他者が深く交差するのは、この痕跡を通じてである。

(了)
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