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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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第五回 

間奏エッセイ 愛と抵抗なる場

 縮減していく親密圏、といったイメージがある。かつての公私二分論が下敷きとしていたような、豊富な私的領域というのが、今現在とても私にはイメージできない。
 本当に気の置ける、<公>publica には影響を及ぼすことの無い場というのは、その定義を明確にすればするほど、それに該当するものは縮減する。あるいは、<公>と<私>の範囲が極端に分離している。そしてそのあいだに、まだ理論にいたらない場ができつつある。

 例えばアイドル現場(という空間=場)は、その経済学的機能をかんがみると、市場の一つなので<私>の領域に当たる。しかし、私たちはそこで自己の欲求のみによって動いている訳ではないのだ。
 そこには、運営ーメンバーーファン(水平的関係)、ファンの内部( 垂直的関係)といった実に複雑なアクターが絡んで働いている。そこで自己は、自己以外の他のアクターの言動との関係の中で、行為を振る舞うということに成る。

 アイドル現場は、総体として、半ー公共的な性格を帯びることに成るのである。

 さて、最近は”リア充”、”非リア充”といった言葉がもてはやされている。
これは、親密券におけるロマンチシズムの過剰台頭に他ならない。

(続く
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第四回目

(前回からの続き)

中身のないものをエンハンスするというのはどういうことか。これは、アイドルがかつて時代と親和的になったときを思い返せば良い。
 
1980年代は、中森明夫的な意味合いにおいても、浅田彰の言葉を借りても、”ネタ”や”シラケ”の時代であった。ボードリヤールのシュミラークル論が下敷きするように、いろんな価値が混迷しある意味において馬鹿馬鹿しくなったものを、「敢えて」取り上げて脱臼化させる、という態度決定が文化の中心的なモードであった。価値が希薄だからこそ、その希薄さを気軽に取り扱えるというわけだ。そこには理念も目的もない。あるのはシラケという態度だけだ。
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