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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 初めて読んだのはもう10年も前になろうか、表紙がボロボロになっても、あまり同じ本を読まない私が好んで何回も何回も読む小説である。
 
 大切な人を失った母親が、子供と一緒に、いつかその人に出会えることを信じて、旅がらすのように点々と各地を暮すという、ちょっとずれた話だ。まぎれもなく、登場人物の母親である葉子は、一半の人々の観念とはかけ離れている。
 しかし、江國香織はそうした人々の、全身の生を描く。いくら人が、一度失った人に連絡もなしにぶらぶらするだけで、会えるわけがないと思っていても、彼女はその夢のような一生を本当に送るのだ。
 
 その彼女の夢は、子供の草子の思春期を容赦なく突き刺す。
寄り添っていた親子が、終盤になるにつれて絶妙な緊張感を展開していくのはかたずを飲む思いをさせられる。
 
―これが現実なんだよ?
私の顔を見ずにそういった。
―あたしは現実を生きたいの。ママは現実を生きていない。
私には、何のことだかさっぱりわからなかった。ただ、顔を歪めて泣き出した草子を呆然と見ていた。
―ごめんなさい。
小さな声で、苦しそうに草子は言った。
―なにをあやまるの?

―ママの世界にずっと住んでいてられなくて。
 
(江國香織『神様のボート』、224ページ)
 
 本書は、親の葉子と子の草子の2人の視点から同時に語られる。
夢のような現実を狂おしく生きる人の物語は、文学にあってこそ紡ぎだされるのだ。
 
misty
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 現代とは、どんな時代であるのか。

仏教観は、この問いに一つの形を与えてくれる。

曰く、どんなものや時代でも、ハッキリとした枠を持つものではない。

近代やポストモダンの定義や素描に四苦八苦している現代哲学や社会学は、このことを端的に忘れている。
 ならば、こう定義すればよい。
現代もまた、何らかの、流れる、移行期であると。

近代とは、いわば<セカイ系>の世界である。
 そこには、①自律した個人主体と、②それから導き出される理性の共和国、がある。
しかし、逆を言えば、その二つしか導き出せないのだ。

ならば、こうは言えないだろうか。
 近代とは、個人の自由を求め、ただひらすらにそのことを悩み葛藤し、そうした個人の主体性が、即セカイとつながるような価値観である、と。

 もちろん、これは窮極の形式に過ぎない。主体を完成させた個人が世界と現につながるなど、これまで見たこともないし、これからも起こることはありえまい。
 しかし、近代とは、間違いなく上のようなことをその本質において有しているのだ。

 近代をこう捉えると、現代というのが、どんな本質を有しているのかも、考えやすくなる。

即ち、
 個人が今も自身の主体性を求めて悩んでいる過程の中で、

”また同じように悩み苦しんでいる隣人の存在にハタと気付き始めた”時代ではなかろうか。

気付いたのだ、世界は決して、自分だけで完結しているものではなかったのだ、と。
 自分さえ救われば、すべてが解決するようなシロモノでもなかった、ということに。

隣には、いつも、同じように苦しんでいる隣人がいた。
垂直の価値観の中に、水平線が出来上がったのだ。

 今度は、その水平線の中で、それでも自己に何ができるか、それを考え実践していく。

 筆者は、「原発ゼロ」の声が時間とともに今や半数を超え始めているのを見て、そういうことを実感した。

ポスト・モダンは、他者とともに自分がどう在るかを考えていく、そういう時代である。

(終)
久しぶりにブログを書く。

 ちなみに、これからどれくらいになるかは分からないが、『仏教から仏教へ』という題で、一連のまとまったエッセイを書くつもりである。 これに該当しない記事は、ブログのジャンルのトコロで「連載」以外のジャンルに分類するので、参考にして頂きたい。
 さらに、一つ付言しておかなければならないのは、この一連の連載は、読むのがとてもダルい部分もたくさん含んでいると思われることである。
 しかし、ここで敢えて言っておきたい。人間とは、大抵の場合、シンプルな事柄をするためにダルいことをするものだ、と。
 そうして、自分が迂回な道を取っていることに気づいても、「まっいいか」と思ってまた続けることに。それでいいし、それがいい。それくらいの気楽さと、ダルさを思って、とことん自由に本論に付き合っていただきたい。

この記事では、『仏教から仏教へ』の導入を記述する。さっそくはじめよう。

◎仏教から仏教へ イントロダクション

 私事からはじめる。私事で申し訳ないのだが、やはり個人的体験というものは、考えを辿っていくにあたってとても大切なものである。
 
 私は、3年ほど前から、まったく個人的な範囲で、しかしかなりの勢いで、哲学・思想の勉強に入った。書店で『現代思想』の表紙に惹かれて何となく手を取ったのがキッカケだ。
 それはおこるべくしておこったのではないかと思う。
 それはともかくとして、僕が取った哲学・思想の途は、今にしてもハッキリと思うのが、”西洋哲学”一色に染まっていたということだ。
 何も僕だけが西洋哲学に染まっていたのではなく、(日本での)哲学/思想というものが、どこかしら西洋哲学を特権視している風があるということでもある。
 
 今にして思えば、3年前にはじまった「哲学の旅」は、西洋哲学という迷宮と同一であるということである。僕にとって、西洋哲学とは、とてつもなく魅力的に思われながら、一方でムチャクチャ気難しい・込み入った世界であった。問題は、なぜ僕が西洋哲学を「ムチャクチャ難しいと思った」か、である。
 時間にして3年、短いか長いかは一概には言えないが、僕にとっては特別なものとなった。僕の「哲学の旅」は、必ずしも完璧なものであったとはいいがたい。いろんな回り道をしたし、だいいち勉強の仕方があまりに自由すぎであった。思いつくままに好きな本を好きな順番で好きなだけ読んでいたからである。

 ただ、僕は、世界の謎を、真理を、”どうしても自分の手”で掴み取ってみたかった。体感してみたかった。だから敢えてこんな迂回路をとったように思える。

 ちなみに、その3年前はといえば、法学部に入って法学を遣り掛けであった。
 そして哲学の旅を一時終えた今、私は再びやりかけの法学に躊躇いなく向かった。

 このことは、かなり間接的で遠いが、しかし僕が感得した”仏教から仏教へ”ということを、表している一つのエピソードだと思う。
 このことを今の僕が過去の僕に説明するために、この一連の連載は書かれていると思って読んでいただいてもいい。

 人生では回り道をすることがある。ではなぜ回り道をする必要があるのか?

この問いにこれから全力で答えてみたい。

misty @
ピエール・ルジャンドル 『西洋をエンジン・テストする』


 ルジャンドルの講演内容と、補足を合わせたもの。ドグマ人類学の”エッセンス”との帯が付いていたことから買ってしまったが、その内容はルジャンドルの作品に慣れていないと少々たどるのが難しい。

 だから、この著作を読んだ後、『ドグマ人類学総説』の最初らへんの部分を読んで、分かったことがいくつかある。

おぼろげながら記述しておこう。

『エンジン・テスト』で最も重要な事柄の一つは、”第三項”という概念である。第三項とは何か。

それはルジャンドルが説明しているように、間に入る(=inter)、つまり媒介するものである。
ルジャンドルによると、例えば主体(人間としての主体、ということでよかろう)と社会の関係は、二項対立的(人間vs社会)といったものではなく、そのあいだに、主体―国家―社会 という風に間を媒介する概念ないし実体がある。

 interpreciate(解釈する)という語も、また同様である。 ルジャンドルによれば、この第三項=媒介物は、国家の他に、聖書やクルアーンなども含むという。 国家を、聖書やクルアーンといったものと同列に扱うのが、ルジャンドルに特有の思考だといってよかろう。

ここからは私の荒い推測になるが、ルジャンドルが”話す主体=種としての”人間にこだわるのは、

主体 - 言語 - 社会

といった風に、言語からなるもの(それは聖書であり、クルアーンであり、法であり…)は媒介としての働きのもっとも最大のものであるからである。このことから、例えばコミュニケーション社会では人間は言語なしにはなにごともなしえない、とかの帰結が生まれることになる。

 また、彼が「国家」というのも、主に「法的国家」(法治国家、でもよい)に重点を置いていると考えられる。法とはまずは言語なしにはありえず、その意味で言語の産物であり、人間はすべて言語のモンタージュ(組立)による社会を生きているのだ。

本書は難しいが、確かにルジャンドルの”ドグマ人類学”なるものへの扉を開いている。

(終)
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